春の手前で、言葉はまだ咲かない
高校二年の三月、まだ昼下がりの空気は冷たく、校庭の桜は硬い蕾を抱えていた。
放課後、昇降口を出たところで、木村はクラスメイトの滝本に声をかけようか迷っていた。
滝本は帰宅部で、いつも一人で歩いて帰る。
彼女は目立たないタイプではないが、とりわけ華やかなわけでもなく、
自分の世界を静かに抱いているような子だった。
木村は、滝本の笑顔を見たことがあまりない。表情は穏やかだが、何を考えているのか分からない。
そんな彼女に惹かれ始めたのは冬の終わり頃だ。
きっかけは些細なもの――図書室でたまたま目に入った彼女が詩集を読んでいる時の横顔、
掃除当番で二人きりになった不思議と居心地の良い静寂。
今まで誰かの横顔が目に入った瞬間、目を逸らす事ができなくなった経験も、
他人と同じ空間にいて静寂が心地良いと感じたことももちろん無い。
言葉にできない、わずかな共有時間が、じわじわと胸に染みこんだ。
だが、いざ声をかけようとしても、どんな言葉を紡げばいいか分からない。
「いつも一人で帰るんだね」とか「最近寒いね」といった月並みなフレーズでは、
木村が感じている「あの瞬間」の微妙さや特別さは決して伝わらない。
伝えるためには言葉が要るはずなのに、その言葉が生まれた瞬間、感じたままのすべてが削られてしまう。
木村は、そのもどかしさに戸惑っている。
「好きです」
と言えば、それはただの告白という記号になって、
冬の図書室で滝本の横顔が目に入った瞬間に胸を満たした優しい光や、
掃除当番のあとの心地良い静寂の余韻を正確に伝えられない。
その余白が、彼を臆病にしていた。
滝本は昇降口に現れた。
鞄の紐を握りしめ、前を見つめている。
木村が迷っていると、彼女がふとこちらを振り返った。
その瞳はどこか不安げで、けれど拒絶の色はなかった。
まるで、何かを待っているような。
意を決して木村は歩み寄る。最初に出た言葉は、ごく単純なものだった。
「もうすぐ、桜が咲くね。」
拍子抜けするほど平凡な一言。だが、その声に滝本はゆっくりと目を細める。
「うん、そうだね。」短い返事。
そして、彼女は続けた。
「桜が咲いたら、何か変わるかな。」
その一言に、木村ははっとする。
桜が咲く、それは新学年の始まりであり、
二人ともあと一年で卒業する。
時が過ぎて景色が変わるように、自分たちの関係も、
今のままでは終わってしまうかもしれない。
伝えきれない思いがあるままで、春は巡ってしまうのだろうか。
木村は言葉を探すが、相変わらず見つからない。
「変わるか分からないけど、咲いたら…見に行かない?」
それだけがやっと出た。
滝本は少し首をかしげて微笑む。ほんのわずかな笑み。
言葉にできない余韻は依然として多くが取りこぼされたままだ。
それでも、その笑顔を見た瞬間、木村は確かに何かが伝わった気がした。
厳密に何が伝わったかは言えないが、
「分かり合いたい」
という気持ちが、
相手にも存在していると感じられた。
滝本の中にも――
木村はその小さな感覚を覚えたとき、
17年の人生で感じたことのない光で心が満たされていくのがわかった。
伝えようとしても伝わりきらない、それでも、二人の間に揺れた空気はもう少しだけ柔らかくなった。
言葉は不完全だが、桜が咲く頃、二人は一緒に並んで歩くだろう。
その先で、少しずつ、お互いの中に隠れた心の形が、ぼんやりと輪郭を帯び始めるかもしれない。
春風はまだ冷たいが、確かに暖かい何かがそこにあった。