01 王妃の離婚
公爵令嬢クロエ・マリエル=アルトラムの人生は、おおよそ順風満帆なものであった。
厳しくも、恵まれた環境。
穏やかな家族。
高貴な血を存分に映し出した美貌。
優れた婚約者。
約束された地位。
彼女はすべてを持っていた。――しかし、問題点がひとつ。
(ああ、つまんない……!)
クロエはとにかく退屈していた。
繰り返される日々に刺激がなかったというのではない。むしろその逆で、高貴な身分であり、相応の身分がある婚約者がいたため、刺激という観点でいえば、欠くことはなかったと言えるだろう。
貴族と一部の優秀な平民が通う学園を首席で卒業したクロエは、十八歳の誕生日を迎えるとすぐに、生まれたときから定められていた婚約者と結婚した。
与えられた公務を粛々とこなす日々。
実に知的好奇心が満たされる毎日であったが、その生活は、己の立場と真摯に向き合ってきたはずの夫が「恋をしてしまったんだ」と平民の女を連れてきたことにより、脅かされることになる。
政略結婚。
それも王命によって結ばれた二人の仲が悪かったわけではない。
ただ、それは戦友と呼べるようなもので、男女の情になることがなかっただけだ。
自分に断りもなく平民の女を連れてきた夫に、クロエは「愛人にするの?」と訊ねた。それもそのはずである。
相手は平民の女。
下級貴族の娘でも側妃がせいぜいなのに、生粋の平民を妃として受け入れるわけにはいかない。なにしろ、マナー云々の話以前に、満足に読み書きもできないのだから。
しかも、彼女は現時点で妻となっているクロエに敬意のひとつも見せず、それどころか「これから用なしになるなんて可愛そう!」とところかまわず吹聴する始末。
優れた女性を側妃として迎えるのであれば歓迎だが、これはないと確信する。しかし、初めての恋に浮かれ上がった夫は「愛人になどできるわけがない!」と否定した。――聡明だったかつての戦友はどこへ行ったのだろう?
恋は障害があるほど燃えるのだという。
クロエが国の未来を憂いてやきもきしている間に二人は体の関係を持ち、こともあろうに夫は「妊娠している可能性があるから、正妃として迎えることにした」と、一国の王太子にあるまじき発言を吐き出した。
未来の国母として育てられてきたクロエはこれに絶句して、いよいよ「では、わたしはお役御免ということで」と離縁状を突きつけた。
夫は忘れているようだが、これは王命による婚姻である。当然、それなりに厳しい条件が付されている。中には、『側妃の選定は正妃主導で行うこと』『婚姻を結び五年以上の懐妊が見られなかった場合のみ、側妃を迎えることとする』などという文言もあり、クロエが離縁を決意するには十分だったのだ。
平民の女は飛び上がって喜んだ。
これで邪魔者が消える、と。
もはや言い返す気力も湧かず、クロエはその光景に苦笑した。怒りも悲しみも湧いてはこない。――幼馴染みでもあった夫に、このうえなく失望していた。この男は国よりも自らの恋を取ったのだと。
多少可愛らしいかもしれないが、平民は平民。貴族の――それどころか、王族に求められる義務などまったく理解していないのだろう。
平民ならただの略奪愛で済んだだろうに、彼女は王族になれば誰よりも幸せになれると信じて、自ら地獄を選んだのだ。
離縁状を突きつけられてショックだったのか、夫の顔から血の気が失われた。――まさか、自分を側妃にするつもりだったのだろうか? 平民を正妃に挿げ替えて?
あり得ないことだ。
たとえ自分が許したとしても、生家の公爵家が認めるはずもない。この決定を下した時点で、二人の離縁は免れないのである。
平民を正妃に迎えるというのが、王太子の独断であればまだ言い訳ができたかもしれない。しかし、驚くべきことに、これは王太子に甘い国王夫妻も認めたことだった。
「平民を妻に迎えれば、平民からの支持がより厚くなる。いまだ貴族に蔓延る選民意識も薄らぐことだろう」とそれらしい台詞を並べ立てていたが、クロエは終始首を傾げていた。
――本当に?
いや、まあ、確かに最初のうちこそ歓迎されるかもしれないが。
王太子である夫が平民の女を王宮に連れ込んで以来、クロエはずっと女を観察していた。自分への態度を見ても、周囲への配慮を見ても、まったくもって王族の一員となる素質が見当たらない。
まだ愛人としても認められていないのに、周囲には「あたしは王太子さまの奥さんなんだから!」とうそぶき、クロエには「お飾りの奥さん、ご苦労様でした!」と無邪気な顔をして暴言を吐く。
クロエはただ、嫌味が直接的すぎて、社交界に出たら一瞬で捻りつぶされそうだなあ、と哀れに思うだけだった。
そもそも、平民を妃に迎えるというのは、諸刃の剣だ。愛人に迎えることはあっても、王族なら誰もができるだけ避けたい道であることに違いはない。
平民を妃に迎えれば、国民に愛される。間違ってはいないが、その妃が平民たちに対してなんの功績も残せなかった場合は、むしろ反感を呼ぶことになるだろう。
貴族を相手にした場合も同様だ。
平民上がりの女が素晴らしい才覚を発揮すれば、「平民なのに妃たる器を持っているなんて」と選民意識の改革につながるかもしれないが、ただ可愛いだけの女だったときには「これだから平民は」と貶められることになってしまう。
優秀だったはずの幼馴染みは、そんなこともわからなくなってしまった。
自分が危惧していることを滾々と説明してもよかったが、王太子が恋をしてからというもの、『大事にされていないな』と感じていたので、これを機にひとり脱出させてもらうことにした。
折よく、もうひとりの幼馴染みに婚姻の申し込みをされていたからである。『離縁を決意した』と告げてから、数日もしないうちの求婚だった。
クロエは離縁状を突きつけるのと同時に、すぐに再婚することになるだろうことも伝える。
夫は愕然としていた。
当然といえば当然だろう。
ただの幼馴染みだとばかり思っていた二人が、夫婦になろうとしているのだ。離縁することすらまだ承諾していないのに、再婚の話が出ているなんて、と。
――まさか、二人は昔から通じていたのか?
そんなふうに詰め寄りたい気持ちはやまやまだったが、日々公務に追われ、夜は同じ寝室で過ごしている妻がそんなことをできるはずもない。
わなわなと震える王太子に、クロエは微笑んだ。
「わたしはあなたと違って不義は働いていないけど、まあ、ひとつ言わせてもらうなら……夫婦は対等でいなくちゃねってことかな。自分だって平民の彼女を恋人として連れ込んだんだから、もちろんわたしにだって許してくれるつもりはあったってことだよね?」
邪気のない表情に、王太子は思わず息を止める。
まるで考えていなかったとでもいうような反応に、クロエは小首を傾いだ。
「あれ、違った? まあ、いいや! 彼女を正妃にする件も、わたしにはもう関係ないことだからご自由に。明日には彼の国へ参りますので、ここでお別れしたく思います」
では、と立ち去っていくクロエの後ろ姿に立ちすくむ。生まれてこのかた、人生を共に歩んできた女性が、こうもあっさり背中を向けるとは思わなかったのだ。
――男女の愛ではないかもしれない。
けれど、二人には二人で過ごした時間がある。
そう高をくくっていた王太子は、最後までクロエという人間を理解することができなかった。