プロローグ 彼が道を選んだ日
習い事の帰り道、ふと違和感を感じ自転車を止める。周りを見渡してみると、違和感の正体はすぐにわかった。
先程まで光を放っていたはずの街灯や、民家の明かりがすべて消えており、空には赤い月が浮いて、それにより世界が赤黒く照らされている。
状況を理解した途端、背筋が凍り、いち早く家に帰ろうと、自転車を漕ぎ始める。しかし、どれだけ漕いでも、人はおろか、生き物の気配すら感じられず、まるで自分以外のすべての生き物が世界から消えたように感じられた。
家の前に着くと、自転車をそのまま放り出して、一秒でも早く家族に会いたいと思い、勢いよく家の扉を開ける。
「ただいま!」
いつもの倍以上の声を張り上げる。しかし、帰ってきたのは、自分を迎える家族の声ではなく静寂だけだった。
家族の悪いいたずらだと思い、家の中を探して、一階、二階と足を運ぶが、やはり誰もいなかった。
家に誰もいない事実を知り、ずっと押し殺していた不安が溢れ、目から涙が零れそうになるのを必死に我慢している時、家中に激しい振動と、一階から何かが壊れる音が響いた。
恐る恐る、階段から一階を覗くと、そこには赤黒い塊が玄関から家の中に入ってきていた。
悲鳴を上げそうになった口を無理矢理塞ぎ、呼吸を整える。
呼吸を整えて、化け物から逃れるように、二階の自分の部屋に入り、布団の中に隠れる。
心臓の鼓動がうるさく響き、体は生まれたての小鹿のように震えている。
怖い。
それだけが自分の思考を埋め尽くしている。
隣の部屋の扉が壊される音が聞こえ、化け物が段々とこちらに近づいて来ている事がわかってしまう。
そんな時、ふと、このままでいいのかと頭の中に浮かんできた。
このまま、布団の中に隠れていて、本当に化け物にばれないのだろうか。
ばれるに決まってんだろ!
自分の部屋の扉が壊される音が聞こえた。
しかし、もうそこに自分はいない。
窓から飛び降りた時に負傷した足を引きずり、家の前に置いていた、自転車に乗り込む。
これでできるだけ遠くに逃げようと、自転車を漕ぎ始めた瞬間、横から衝撃が加わり、体が民家の壁に叩きつけられた。
朧げな視界で状況を確認すると、赤黒い塊がいつの間にか、玄関の前にいた。
何故。
そう疑問に思いながらも、いうことを聞かない体に鞭を打ち、体を動かす。
「逃げないと」
うわ言のようにそう呟き、逃げようとするが、腹に何かが巻き付き、体が浮き上がる。
腹を見ると、化け物の触手が巻き付いる。
腕で触手を引き剥がそうとするが、相手の力の方が強く、引き剥がせそうにない。
それでも、抵抗を続けていると、玄関からもう一匹の化け物が出てくる。その化け物は、自分を拘束している化け物に近づいて触れると、触れた箇所から、一体化していき、やがて、一回り大きい一匹の化け物になった。
それが体から口のような物を作り出し、そこに自分を運んでいく。
終わった。
今から自分はこの化け物に喰われて、死ぬ。
すると何故か、昔のことが鮮明に溢れてくる。
家族で初めてテーマパークに行ったこと、妹と一緒に御使いに行ったこと、様々な幸せな記憶が溢れてくる。
とても短い人生だった。だから…
触手を口に持っていき、喰らいつく。
突然の獲物の抵抗に驚いたのか、拘束が解除され、地面に落ちる。
「まだまだ生きていくんだよ!」
地面から起き上がり、口に出す。
その言葉に反応して怒りを買ったのか、化け物は、先端が尖った無数の触手をこちらに伸ばしてくる。
今度こそ終わった。
そう思い、目を閉じる。
その時、自分の隣を何かが通り過ぎた。
ゆっくり目を開けて前を見ると、化け物の体に一本の槍が刺さっていた。
一瞬何が起こったのか理解できずにいると、肩に何かが置かれ、隣には見知らぬ女性が立っており、その置かれた物が女性の手だと気づいた。
「ごめんね、遅くなって。助けに来たよ」
それはまるで、物語に出てくるヒーローの様だった。
「少し待っててね、あいつを倒してくるから」
その言葉と共に女性は、どこからともなく剣を取り出し、化け物に切りかかる。
化け物も、触手を彼女に伸ばすが、一瞬にして、切り落とされ、そのまま距離を詰めた女性は化け物を体を斬り刻んでいく。
実力の差は自分が見ても、明らかだった。圧倒的に女性は強く、化け物が簡単に切り刻まれていく。
すると化け物は、いきなり二つに分裂して、片方を囮に彼女に向かわして、もう片方は路地裏に逃げていく。
女性はすぐにそれを切り伏せ、もう片方を追おうとするが、それをやめて、こちらに振り返った。
すると女性は、こちらに近づいきて、突然抱き着かれた。
突然のことに頭が混乱して、口をパクパクと開閉する。
「ごめんね、こんなことに巻き込んで。怖かったね」
女性は自分の頭を撫でながら、何故か謝罪の言葉を言ってくる。
最初は、混乱していたが、頭を撫でられるたびに、心が落ち着いてき、自然と瞼が重くなっていった。
気が付くと、女性はいなくなっており、すべてが元に戻っていた。街灯と民家からは、光が溢れ。空の月は、辺りをやさしく照らしていた。足のケガや、体の痛みもなくなっており、まるで最初から何もなかったかのように元通りになっていた。
ただ違うのは、女性に頭を撫でられた感触と、あの胸の温もりだけは、しばらく残っていた。
…
あの出来事から、五年が経った。自分は高校一年になった今でも、あの女性に感謝を伝えるため、彼女の事を探し続けている。