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副官サマの日記帳  作者: 茅嶋ときわ
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副官サマと契約書 後編

 使用人区の一室。外が白んできた気配に目を覚ます。

 まだ眠気を帯びた瞼は重く、油断すると降りてくる。

 私はベッドの中でうんと伸びをしてから半身を起こし、枕元に置いてある懐中時計を手に取り開く。

 針は四時を少し回ったところを指している。

 セオドール様との待ち合わせは五時十五分。身の回りをゆっくり片付けて向かっても余裕だ。

 

『僕に雇われるのは嫌ですか?』

 

 三日前にルカ様から提案された話は、最初は耳を疑ったが、話を聞くうちに本気で引き抜きを考えているのだとわかった。

 ルカ様から提示された雇用条件は宮廷のそれよりもかなり良く、普通ならばきっと二つ返事で受けていただろう。でも、私は悩んだ。

 宮廷の使用人は皇帝陛下が雇い主。副官の方が雇用条件が良いからと、おいそれと転職を決めて良いものだろうか。それに、ソレーユさんにも申し訳がない。

 ソレーユさんが私に目をかけてくれていたのは、少なからず今後を期待をしていたからだ。

 宮廷で信用できる使用人はそう多くない。そして、そういう人が長く勤めることは少ない。私のように引き抜かれることもあるが、多くは自分の夢を叶えるために辞めていく。あとは結婚して辞める事も多い。

 正直な話、ルカ様からの話でなければ迷わず断っていたと思う。

 私が宮廷勤めを決めたのは、少しでも帝国の力になりたいと思ったからで、そう心に決めさせたのは現皇帝陛下とアレス皇子だ。

 民の生活の向上を優先し、諸国との血生臭い戦闘は避け、過去の貴族社会から続く浪費を抑える。内政で反発が多い中、それをやってのけた現皇帝は民からの信頼が厚い。その意思を継ぐアレス皇子もだ。

 私が生まれた西区は幼い頃と今ではかなり景観が違う。

 利用率の高い道は舗装され、水路や下水も整備がなされた。そのおかげで日々の生活は格段に向上した。

 病気が減って移動にも手間取らなくなり、商売をする人が増えた。そしてその店を利用する人で西区は栄えて、今ではちょっとした観光名所もできている。

 西区の人たちはみんな口をそろえて言う。

 アレス皇子の功績だと。

 ルカ様はアレス皇子の副官だ。そんなルカ様を側でお支えできるということは、今よりももっとアレス皇子の側でお役に立てるということにならないか?

 あの場で返答を求められた私は、三十分以上は考えただろうか、そう思い至って決断をした。

 返答した後は早かった。詐欺じゃないかと思うくらいに契約書はあっという間に作られ、その日の夕方にセオドール様がそれを携えて私を訪ねてきた。そうして引継ぎやら手続きやら、ソレーユメイド長になんと言ったら良いか。そんなことを考えていた午後を、セオドール様はあっけなく拭い取ってしまった。


『あ、それは全て私がやりますので、あなたは荷物の準備だけしていただければ。ね?』


 そんな流れで契約書にサインを求めるセオドール様の胡散臭そうな笑顔は、忘れられそうにない。

 時計の針が四時十五分を指そうとしている。

 私はベッドから降りて寝間着を脱ぎ、普段とは違う仕立ての給仕服に袖を通した。

 仕立て方はさすがに王宮の方が手がこんでいるが、新しい服は宮廷の物よりも軽く、通気性が良い気がする。形は宮廷の方が好きだが、着心地は断然こちらの方が良い。

 新しい給仕服は昨日セオドール様が持ってきたものだ。わざわざ自分で持ってこなくても良かったのに——— とため息がこぼれる。

 契約書の時は仕方ないにしろ、誰かに届けさせるとか時間を考えるとかして欲しかった。

 セオドール様は目立ちすぎる。

 アレス皇子の副官の執事ともなれば、目立ってしまうのは自然のことだろうがしかし、それに輪をかけて目立っているのだ。

 美形。

 その一言で済ませられない、どこか不思議な魅力を携えたセオドール様に、嫌でも視線がいってしまう。それは男女問わずにだ。

 廊下の至るところから投げられる視線に、身の置き場がなかった。

 ルカ様に雇用されることになった三日前。あの時からすでに方々(ほうぼう)で変な噂が上がり始めていたが、昨日セオドール様が支給品を渡しに来たことでさらに拍車がかかった気がする。

 噂をされるのはあまりいい気がしない。それも、悪い噂なら特に。でも、それをわかって雇用されることに決めたのだから腹を括るしかない。

 私は新しいエプロンの腰紐を結びながら、ちらと他のベッドに視線を向ける。

 普段なら起きて声をかけてくる同僚は眠ったままだ。起きる時間がいつもよりも早いからという訳ではない。私がルカ様に雇用されると決まってからの三日間、ギクシャクしていたからだ。

 宮廷のメイドは引き抜きにうるさい。それも、貴族や役付きのお偉方からの引き抜きとなれば尚更だ。

 いろんな感情が渦巻くのだろう。多くは嫉妬だろうか。わからないでもないが、少しばかり寂しさを覚えた。

 二年も一緒に働いてきた同僚に、お別れくらいは言いたかった。

 私はしんみりしてきた気分を振り払うように勢いよく床にかがみ、ベッドの下から中型の四角いトランクを取り出し、その中に私物を詰め込む。それから壁にかけてある以前の給仕服を丁寧にたたみ、他に支給された物と一緒に肩掛け鞄に仕舞う。

 これからソレーユさんのところへ行き、最後の手続きをしなければならない。

 給仕服や仕立て違いのエプロン・メイドキャップ等の宮廷からの支給品は、解雇時に返却を義務付けられているからだ。

 私はざっと自分の身の回りを見渡す。

 荷物は全て片付いてしまった。でも約束の時間まではまだもう少しある。

 私は普段よりも丁寧にシーツを整え、ベッドメイクを施し、簡単に棚を拭き上げた。そうしてもう一度だけ、室内を見渡す。

 ここにはもう、二度と戻ってくることはないだろう。

 見習期間を除いた約一年半を過ごした部屋。同僚とたわいのない会話をしたり、失敗をなぐさめあったり、時には愚痴なんかも言い合った。

 もう戻ってこないのだと思うと、目頭が熱くなる。

 私は息を飲み込み首を振った。

 肩に鞄をかけ、トランクを慎重に持ち上げて、音を立てないように部屋の扉を開け、心の中でさよならを告げた。




 ソレーユさんの執務室に着いたのは五時よりも前だった。

 私は朝の涼しさが漂う廊下に立ったまま、懐中時計を見て迷う。

 約束の時間には早すぎる。入るべきかどうか。でも、廊下で待つわけにもいかない。

 私は仕方ないかと息をつき、執務室の扉をノックした。

 

「空いてるわ。どうぞ」

 

 ぶっきらぼうなソレーユさんの返答の後に執務室に入ると、中にはすでにセオドール様がいらした。

 どうやら私の移動に必要な書類を渡しに来たようだ。

 ソレーユさんはというと、見たこともないほど苛々している。

 

「丸三日で解雇と転職がまかり通るって、どういうことなんでしょうね? セオドール様?」

 

 語尾に怒りをたくわえたソレーユさんの眉間のシワの深さは尋常ではない。

 丸三日での解雇と転職。雇い主が宮廷内で変わるだけなのだから、そんなにおかしくはないと思うかもしれないが、異例だ。

 皇帝陛下から個人に雇用権が渡る。今の時代にそれをしても特に角は立たないが、その手続きを正式に申請して通るのは早くて一週間強。それから引き継ぎのことを考えれば、本当なら二週間以上は必要だ。

 そもそも、常識を考えれば最低一ヶ月前に転職を申告するべきなのに、今回はそれすらなかった。ソレーユさんが苛立つのも仕方がない。

 

「さぁ。私は宮廷雇用に関しての手続きはは良く存じませんので……でもまぁ、こうして正式な書類はありますから、ね? ソレーユメイド長?」

 

 相変わらず胡散臭い笑みを口元にたたえているセオドール様に、ソレーユさんはぐぬぬと低くうなってぎこちなく首を動かした。それから自身の眉間をゆっくりグリグリと指関節で揉みほぐし、私をひと睨みする。

 

「期待して育てていた部下を、よもやフレデリカ様に引き抜かれるなんて夢にも思っておりませんでしたよ。あなたも、良く承諾したものですね」

 

 一つ一つに怒気のこもった言葉は非常に重く体にのしかかった。

 ソレーユさんの怒りに私は何もできない。ただただ謝ることしかできない。

 

「も、申し訳ございません」


 ソレーユさんは謝った私にブツブツとさらに何事が呟いたが、よく聞き取れなかった。

 

「まぁ、決まってしまったことですから? 仕方ありません。返却品を出しなさい」

 

 怒りを飲み込んで言うソレーユさんに、私は鞄から手早く支給品を取り出して手渡した。

 ソレーユさんは手渡された品を数え、ほつれなどを簡単に確かめてから手元の書類に判子を押した。

 どん と机が大きな音を立てるほど、力任せに。

 



 ソレーユさんの執務室を早々に後にし、ルカ様の居室へ向かう途中、すれ違う使用人のほとんどが私とセオドール様に視線を向けてきた。

 ルカ様の執事の後を、私物の鞄を持ったメイドが歩いているのだ。嫌でも目立つ。それに、噂を知る人もいるのだろう。いくつか好奇の視線も感じる。

 

「ハァ〜いやいや。つつがなく済んでようございました」

 

 周囲からの視線など気にも留めていない様子で、セオドール様はのんきに言ってフフフと笑った。

 私は静かにうなずく。

 ソレーユさんにはもっと怒られるか呆れられるかするかと思っていた。それに、経緯を尋ねられたら説明しなければとも思っていた。けれど、ソレーユさんは支給品を返却後に説明を求めなかったし、あれ以上は私に何も言わなかった。もしかしたら、何も言いたくないほど怒っていたのかもしれない。

 もう顔を合わせても挨拶すらしてくれないのだろうか?

 そう思うと、すごく悲しくなってきた。

 その様子が伝わったのか、セオドール様がわずかに振り向いてにっこり笑った。

 

「部屋に戻ったらまず簡単に案内をして、日々の手順をお教えしますね。これから頑張っていただかないと!」

 

 励ますような手ぶりに、少しばかり気分が和らいだ。

 そうだ。これから新しい生活が始まる。もっと気を引き締めて働かなければ。

 

 

 

   *  *  *  

 

 

 

 書類を片手に皇帝政務区を出ると、ルーイに呼び止められた。

 

「ルカ! 書類の提出か?」

「えぇ、そんなところです。それよりルーイ、珍しいじゃないですか、こんなところでこんな朝早く」

 

 一週間のうち四日はお昼出勤のルーイに嫌味を言ってみるが、残念なことにルーイには通用しない。

 ルーイはヘラヘラ笑いながら、

 

「おいおい。それじゃあまるで、俺が普段から仕事してないみたいに聞こえるじゃないか」

 

と耳の下をかいてみせた。

 僕は心の中で半分以上は当たりじゃないかと思うが口にしはしない。

 

「ところでルカ、新しいメイドを雇ったんだって?」

 

 珍しいと思えば、やはり魂胆があったわけだ。

 僕は廊下を歩き始めながら答えた。

 

「耳が早いですね」

「まぁ噂になってるからな」

 

 この三日で立った噂をいったい誰から聞いたのか。いやいや、どうせ仲の良いご婦人からだろう……あぁ、この会話は面倒臭くなりそうだ。

 

「紹介しろよ」

「は? なんであなたに僕の使用人を紹介しなくちゃならないんです?」

 

 百歩譲って恋人とかならわからないでもないが、何故わざわざ同僚に使用人のお披露目をしなければならないんだ? 僕にはまったく理解できない。

 

「あのおっかない執事の時は紹介してくれただろ?」

「あれはたまたま、あなたに廊下で会ったからでしょう……。まぁ、機会があれば紹介しますよ」

 

 ルーイは何に興味をそそられているのか引く気はないようで、背後から軽快な足取りで距離をつめられ肩に腕を回された。

 

「冷たいやつだな。おまえが珍しく直々に雇い入れるなんて、興味持つだろ普通」

「それどんな普通ですか?」

 

 肩に回された手を払い除け、僕は歩く速度を上げる。それでもルーイは諦めず、スキップするように僕の横に並び見下ろしてきた。

 何でこの男は女が絡むとこうも粘り強くなるのか。

 

「だってルカは普段からあんまり人のことを信用しないだろ? それも女は特に。そうだろ? いつも避けてるじゃないか、女を」

 

 そりゃあ、まぁ……その通りですけど?

 アレス皇子と行動を共にするようになって特に、人を信用するのは控えるようになったし? でもそれはこの仕事をしていれば別に悪いことじゃないだろう? それに、僕は女性にはちょっとしたトラウマがあるんだから、避けるのは仕方がない。


「で? なんで雇うことに決めたんだ?」

 

 納得のいく返事をもらわないと退散しそうにないルーイに、僕は当たり障りのない返答をする。

 

「身辺が綺麗で仕事もできる。セオドールも気に入った。雇うには充分でしょう?」

「それだけで三日で転職させたのか? 面白くねぇな。まだあるだろ?」

 

 ずいぶんと勘ぐってくるじゃあないか。

 

「それ以外に、何があるって言うんですか?」

「噂通りなのかなって気になるじゃん」

「噂通り?」

 

 そういえば、噂になっているのは知っているが、内容まで気に留めなかったな。

 

「三日前の夜に良い関係になったて」

 

 思わず足を止めた。

 どこからそんな噂が出たのか……。

 

「お? なんだ。あながち嘘じゃなさそうだな!」

 

 一気に好奇心を盛り上げたルーイが目を輝かせた。

 僕はちょっとばかり焦りを覚える。

 

「噂はデタラメですよ。そんな関係ではありません」

 

 ジト目で見られるが本当なのだから仕方ない。

 だがこれ以上聞かれるのは良くないだろう。そんな関係ではないが、やましいことはしたのだ。そろそろ退散してもらおう。

 

「それよりルーイはどうなんです? 宮廷魔導師にあなたの師匠の娘を推薦したとか?」

「別に問題ないだろ? 独り立ちの手伝だ」

「宮廷で腐るほど女性とやりとりしているあなたが、いくら師匠の娘だからといって、特定の娘を援助するなんて珍しいじゃありませんか?」

「あいつとはそんなんじゃない」

「どうでしょうね? 噂によればずいぶんと魔力に優れていて、あなた好みの体型だとか?」

 

 変に高い声がルーイから上がった。よしよし、良い手札だったようだ。

 ルーイは変な声を誤魔化すように咳払いをして視線を泳がせる。

 

「ともあれ、優れた魔導師ならば僕にも紹介してくださいね。宮廷魔導師になるなら、僕の後輩にもなるわけですから?」

 

 僕がメイドを紹介するより筋が通っているだろう?

 

「ま、まぁその時になったらな! じゃあ、俺は外回りがあるからここで……」

 

 いそいそと退散していくルーイに、僕はクスクスと笑った。

 外回りとか言って、進んでいる方向は魔導師棟。件の娘の様子でも見に行くのだろう。

 正直なところ、ルーイの師匠の娘のことは確認済みだ。ルーイがどういう気で推薦したのかは不明だが、今のところ彼女がこちらに害を及ぼすことはなさそうだ。懸念すべきはそこじゃあない。

 僕は廊下の隅に消えていくルーイの背中を見て、小さいため息をついた。


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