副官サマとメイドの噂再び4
穏やかな明かりの揺れる夕食の席。
白い清潔な布の上にはもうすでに料理の姿はなく、甘味のソースだけが平たい皿の上にわずかに残っている。
「料理はお口に合いまして? ルカ様」
隣席に座るリリアーナが、蜂蜜酒を飲みながら尋ねてきた。
デクス邸の料理は、なかなかに美味しかった。特に、鶏肉のバターソテーなんかは、塩味もレモンのソースも僕好みだった。
宿屋の一件があってからそう日が立たぬうちに、デクスさんから今度は夕食に招かれ、僕はそれを二つ返事で受け入れた。
夕食といっても堅苦しい席ではなく、デクスさんの家族——— 妻であるデクス夫人と娘のリリアーナ、それと二世代前から懇意にしているというハラージュ家の政務官、ジョルジュという人物だけの、ささやかなものだ。
ジョルジュという政務官、彼とは以前、北の僻地に関して揉めたことがあり、僕としては少し居心地が悪い気がしたが、今夜の彼は非常に穏やかで、あの会議の時とはまるで別人だった。もしかしたら、これがいつもの彼かもしれない。あの会議までは、このジョルジュという男は目立ちもしなかったのだから。
「本当に私も呼ばれて良かったのですかね? この席に……」
おどおどしながら葡萄酒をグビグビとあおるジョルジュの頬は、もうすでに酔っ払いだと誰もがわかるほど真っ赤になっている。
思えば食事中ずっと、こちらを気にしながら葡萄酒を飲み続けていた。
居心地が悪い気がしていたのは、きっと彼も同じだったのだろう。
「妻とリリアーナと私だけでは、いささか食事の席に賑やかさが足りなかったのだ。それに、ルチアーノ公の夜会以降、お前はルカ様とあまり顔を合わせていなっただろう? 今日は政治的な話ではないが、こういった席で話す機会も大事だぞ?」
言葉からも伺えるように、デクスさんはかなりジョルジュのことを気にかけている。この男のどこにそんな魅力があるのだろうと少しばかり興味が湧いたが、僕が話しかける前にデクス夫人が口を開いた。
「あらあら、あなた、そんな話はおよし下さいませ。その話がすでに政治的ですわよ? ねぇ、ルカ様?」
「ん? そうか? それは申し訳なかった」
デクス夫人にたしなめられて、デクスさんが僕を見て頭を下げた。
僕もその会話に乗ろうとしていた手前、何だかバツが悪くて「いいえ」と歯切れ悪く首を振る。
そんな僕の様子を見てか、デクス夫人が少しだけため息をついて言った。
「なんだか今夜は、みなさんお酒が良く喉を通ったようですわね。少し酔いを覚ましてはいかがかしら? 熱いお茶を用意させましょう」
僕はたいして飲んでないからさほど酔ってはいないが、確かにデクス夫人が言う通り、デクスさんとジョルジュ、リリアーナはだいぶ酔いが回っていそうな顔色をしている。
「まぁ! じゃあお母様、私、お茶が入るまで少しお庭を散歩してまいりますわ」
「なら、ルカ様もご一緒して下さらないかしら? この二人は足元が危なさそうですわ」
ジト目でデクスさんとジョルジュを見るデクス夫人に、僕は頷いて席を立つ。そうしてリリアーナに手を差し伸べると、彼女は嬉しそうに微笑み僕の手を取った。
夕食の席がある部屋の隣の、先日案内された応接室の大窓から庭へと出て、少し先の庭園までゆっくりと歩く。
今夜の夜風はずいぶんと冷たく、秋のそれを彷彿とさせる。
「上着を頼みましょうか?」
首元露わなドレスのリリアーナに尋ねると、リリアーナは首を横に振って庭の奥へとどんどん足を進めた。
酔っているからさほど寒くない、ということだろうか。
そういえば、ルチアーノ公の夜会から帰ってきた僕に、レティシアが同じようなことを尋ねてきたことがあったな。あの時は今日よりもだいぶ飲んでいたから、確かに暑く感じていた気がする。
ちなみに、今回の夕食にも護衛としてレティシアをつれてきている。しかし前回とは違い、玄関近くの小部屋で待機させている。
本当は何を言われても護衛を同席させるべきなのだろうが、どうにもリリアーナとのことが気になって離れて待ってもらうことにした。
こういったところが僕は甘いんだなぁと思うが、リリアーナとのことをこれ以上気にしてほしくはない。それに、今日はリリアーナに少しばかり質問もある。この質問は、レティシアを含む他の人間にはあまり聞かれたくない。
どう二人きになろうかと考えていたが、こうしてその機会が訪れたのは幸運だった。
冷たい夜風にカサカサと深い緑の葉が揺れる。
両脇の茂みが建物からの明かりを遮り、光源が半月の明かりだけになった。
夏の虫がどこかで鳴いているのが聞こえる。それほど辺りは静かだ。
前を行くリリアーナが立ち止まり、庭に響いていた靴音が消えた。
よりいっそう静けさを増した庭は、何だか少しばかり寂しげに見える。
月明かりを浴びている近くの薔薇の木を見つめ、リリアーナがため息をついて喋り始めた。
「夜になると、色がついている物もあせてしまいますわね。つまらない」
紡がれた言葉が感傷的に聞こえるのは、庭の雰囲気のせいだろうか。それとも彼女が酔っていて、感傷的になっているからだろうか。
しかし、僕はこのままリリアーナとぼんやり雑談をするつもりはない。
薔薇に手を伸ばして香りを嗅いでいるリリアーナを見据え、少し間を置いてから質問を投げた。
「リリアーナ。先日あなたは、使用人に僕のあとをつけさせましたね?」
率直に尋ねると、リリアーナは沈黙したまま静かに顔をこちらへ向けた。
彼女の口元には、小さな笑みが浮かんでいる。
「どうして私だと? お父様かもしれませんわ」
「僕は、あなたが尾行のことを知っているのならば、それをさせたのがどちらであっても同じことだと思いますが?」
本当に知らなかったらこんな表情も返し方もしないだろう。
普通のご令嬢なら驚いたり抗議したり怒ったり、何なら泣き出したりするものだ。
「ふふ。そうですわね。確かに。それで、ルカ様はどうなさりたいのかしら?」
あっさりと肯定し、咎めたいのか罰を与えたいのかと首を傾げるリリアーナに、僕の方が驚いてしまった。
どうやら僕が思っている以上にリリアーナは腹の座った女性らしい。
「なぜ後を?」
また率直に尋ねると、リリアーナは笑みを絶やさずに答えた。
「それはもちろん、ルカ様とお連れ様の関係を知るためですわ」
「連れ——— というと、僕の護衛のことですか?」
「えぇ、護衛ですわね。ここに来ている時は。あの方、普段はルカ様のお側でメイドをなさっているのでしょう?」
噂で知り得た情報からの憶測にしては自信のある言い方だ。
レティシアがメイドだと、僕はリリアーナに言った覚えはない。
レティシアがメイドであるとどうして自信を持って言えるのだろう?
ここに来るまでリリアーナはレティシアと面識はなかったはずだ。
「彼女が普段何をしていようと、あなたに関係ないのでは?」
「あら、冷たいですわルカ様。好いたお方のことを知りたいというのは、乙女としては普通のこと。特に、あの方とルカ様には良くない噂がございますでしょう? その噂が本当かどうか、知りたいと思っている令嬢は私だけではございませんのよ?」
困ったように眉を寄せるリリアーナだが、その目には強い力が宿っている。
「噂についての真偽を確かめたかったから尾行させた、ということですか?」
「えぇ、そうでございますわ。でも、噂が本当かはわかりませんでしたけど……」
残念そうに俯いたリリアーナは、そのまま顔を上げずに僕に質問してきた。
「本当ですの?」
「え?」
「噂について、ですわ」
本当かと問われて、その真偽を答える義理は僕にはない。
噂だから信じる必要はないと、そう否定しなければならない相手ではない。
父がどう望んでいようと、僕はリリアーナとこれ以上親しくするつもりはないのだから。
「さぁ? 本当だと答えたら、どうしますか?」
「さぁ? どうしましょう……」
社交界をものともしない女性は、はぐらかすような会話が得意だ。都合の悪い会話はあっという間に流されてしまう。
尾行の理由は知れたから、これ以上つっこむ必要もないかと先の話を諦めようとすると、リリアーナが顔を上げて僕を見上げた。
「メイドとは、遊びであるならば胸にしまいますが、本気だったらお止めしたいですわね」
「なぜ止めると?」
「だって、ルカ様のメイドは平民でございましょう? うまくいくわけありませんわ。ルカ様がただの貴族の次男や三男ならば、今の時代は許されるかもしれませんけど……。実際は、ルカ様はこの国の一番上で働いていらっしゃる。その伴侶が平民のメイドでは、他国から良い印象は持たれないでしょう?」
レティシアが気にしていたことを、そっくりそのまま言われてつい苦笑いが浮かぶ。
この帝国においても、貴族主義・階級主義ははまだまだ根強い。けれど、その流れは今後ガラリと変わっていくはずだ。
貴族だから平民だからと、束縛されることはない。
つきたい職につき、付き合いたい人と付き合う。
前皇帝も現皇帝も、そんな考えの元で今まで帝国を治めてきた。その姿勢は徐々に属国にも浸透してきている。
「確かにあなたが言うように、貴族主義や階級主義の国が多いのはわかっています。でも、僕自身はそうではありません。人は種族問わずに平等である———というのが僕の考えですから」
「初代アストラル皇帝の格言でございますわね」
「えぇ。ですから、自国であれ他国であれ、誰かが僕の伴侶の身分がどうとか、仕事がどうとか、そんな苦言を唱えても、気にする必要はないと思っています。僕が決めた相手であれば特にですね。自分の生活がその主義に反しているほうが、政に関わる人間として信用が置けないと、そう思いませんか?」
「まぁ! ルカ様はお考えが新しいのね!」
リリアーナはクスクス笑ったあと、片方の眉をわずかに歪めて続けた。
「けど、もしかしたら、後からどうにかしたくなるかもしれませんわよね? 気が変わるということは、殿方には良くあることでしょう?」
「それは……どうでしょうね。その答えは、その時が来ないとわかりませんね」
もしかしたら——— と、そんな言葉から始まる内容は永遠に来ない可能性もあるのだ。
特に今の僕は、レティシアに関して悪い意味で〝どうにかしたくなる〟なんてことは絶対にないと思っている。
「噂のまま、もしくは愛人ではいけませんの?」
リリアーナの問いに無言でいると、リリアーナが少し前に踏み出した。
「もし、ルカ様が私を選んで下さるのなら、件のメイドが愛人であっても目を瞑りますわ」
貴族が愛人を二・三人は作るというのは、昔からよくある話だ。
潤沢な資産とその地位を多くの人に知らしめるため、わざわざ愛人を確保していた時代もある。
ただ、東や南の帝国と違って、この西の帝国ではそういったことが社会的地位の後押しをすることは少なく、あくまで個人の趣向とされることが多かった。それは代々統治してきた皇帝一族の性質のせいもあるのだろう。
リリアーナは僕とレティシアのことを、僕の単なる〝趣向〟として捉えているのだろうか。
「ずいぶんと率直にお話下さるんですね、リリアーナ」
「えぇ、最初にルカ様がそうして下さいましたから、私も隠さずお話しするのが礼儀かと思いましたのよ。それに私、ルカ様の全てに興味があって、できることなら全部が欲しいんですの。だから、隠し事なんてしたら遠回りになってしまうでしょう?」
今まで見た中で一番野心的な顔つきだった。
獲物を狙うような鋭さが、大きな瞳に一瞬だけ垣間見えた。
「地位やフレデリカの名も、全てですか?」
「えぇ、そうですわ」
「そうはっきり断言するご令嬢は初めてで、どうしていいかわかりませんね」
「あら、気に入って下さればよろしいのですのよ?」
話の内容とは真逆の、あまりにも純粋な答え方につい口元が緩んでしまった。
「人間的には、少し興味はありますよ。でも、あなたの気持ちに答えるつもりはありません。それははっきり言っておきましょう」
「まぁ! それは——— 」
顔を逸らして俯き、口元に手を当てて肩を震わすリリアーナ。
「悲しませたのなら謝ります。でも、はっきりした方が良いでしょう? 僕が心に決めているのは彼女しかいません。今後もそうであるでしょう」
俯いたままリリアーナが静かに言った。その声は少しだけ鼻声だった。
「まだ、ルカ様は私のことを良く知らないではございませんか。興味が愛に変わることだってあるんですのよ? すぐに断るなんて……。可能性が少しでもあるなら、私は諦めたくはありませんわ……」
「諦めたくないと言われても、僕にはどうすることもできません。けど、それを止める権利は僕にはないでしょう? 好きにすれば良いとしか言えません。ただ、なびくことはないと、忠告はしておきますよ。今日以降、僕はあなたからの誘いは断りますからね」
断言すると、リリアーナが顔を上げた。
その顔には悲しみなんて微塵もなく、涙さえ浮かんでいない。
「私が、ルカ様の欲しい情報を持っていると知っても、そう言っていられますの?」
不敵に歪む艶のある唇に、月の光がテラテラと反射した。
僕が欲しい情報とは、何だろう?
疑問とともに、酷く冷静な思考が脳全体へ一気に広がった。
執務室で仕事をしている時、議会で発言を纏めている時と同じ感覚だ。
「もしも、ルカ様が私と、もう少し懇意にして下さるのなら、その情報を差し上げますわ」
「そうまでして僕と居たいと?」
尋ね返すとリリアーナは無言でにこりと笑った。
「リリアーナ、内容もわからない情報を交換条件に出してくるなんて、あなたどうかしていますよ」
繋ぎ止めたいからといって、さすがに非常識にも程がある。
僕がそんな提案を飲むとでも思っているのか?
そう思ってリリアーナを見ると、リリアーナはもうすでに僕が了承することを確信しているような顔つきで、大きな瞳をまっすぐ僕へ向けて言った。
「では、こう言えばよろしいかしら? カルーク様の特別な夜会の招待状を、ルカ様にもお渡ししたいですわ——— と」