副官サマと契約書 前編
執務室から自室へ戻ってきた僕は我が目を疑った。
何故、今から呼ぶ予定のメイドがソファに座っているのか。
「お帰りなさいませ。お早いお戻りでしたね」
背後から音もなく現れた執事セオドールに、僕はわずかに胃痛を覚えた。
件のメイド、レティシア・スプリングがここにいるその理由は、おそらくこの男の仕業だろう。
「セオドール。僕は彼女を呼べと言いましたか?」
呼ぼうと思っていたのだから居ても良いのだが、できれば心の準備をする時間が欲しかった。
「言われてはおりませんが、必要になるかと思いまして」
にっこりと薄い唇を持ち上げて、銀縁メガネをきらりと光らせるセオドール。その本心は全くわからない。
「……そうですか、ありがとう」
セオドールは僕の行動をほぼほぼ把握している。どうやってかは知らないが、いつも僕が必要としている物や人を素知らぬ顔で用意してくる。そうして僕はだいたいの場合、彼にお礼を述べる羽目になるのだ。
僕は大きく深呼吸してから客間へと踏み出す。
ソファに座るレティシアの丸い後頭部から、凛とした横顔を横目で見やる。
表情は乏しいが、わずかに寄せられた眉とひきつり気味の頬から緊張しているのがわかった。
それはそうだろう。昨夜に内通容疑をかけられ詰問され、今こうして呼び出されているのだから、不安や恐怖が内にあって当然だ。
僕に気づいてレティシアが立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「お待たせしました」
僕は向かい側のソファに歩みながら言って、ソファの脇に錫杖を立てかけ、それからゆっくりと腰を下ろした。そうしてから彼女にも座るように片手で促す。
彼女はぎこちない動作で先ほどよりも浅くソファに腰掛けた。おそらくより緊張が高まったのだろう。
僕は彼女がきちんと座りきるまでその姿をじっとみてから、一呼吸置いて彼女をまっすぐ見つめ直し、頭を下げた。
「昨夜の件ですが、申し訳ない。僕が悪かった」
謝罪のあとの数秒の間。レティシアは何も言わなかった。身動ぎする気配もない。
僕はもう少しだけ待ってから頭を上げ、再度彼女を正面に捉えた。
彼女の表情はあまり変化しているようには見えない。どうしたものか。
「あなたのことを調べたが、何も出てこなかった。その……昨夜は、少しやりすぎたと思っている。できれば許してほしいが……」
自分に非があると思うと、どうにも歯切れが悪くなる。それでも僕はなんとか言いたい事を言い切って、レティシアの返答を待った。
少しばかり沈黙が続いたが、今度はレティシアから反応が返ってきた。
「それは……もうお疑いではないと?」
小さいがはっきりとした声だった。僕はわずかばかり顔を上げて見てくるレティシアにうなずいて見せる。するとレティシアはほっとしたように眉を緩めて言葉を続けた。
「昨夜はもともと、疑われるような真似をした私が悪いのです。それが晴れたのならば、ようございました」
どうやら本気でそう思っているようだ。
僕は日記帳を読んでいた時のレティシアの表情を思い出した。
面白いものを読んでいる時のキラキラした目つき。何かを探るような感じは全くしなかった。きっと昨日も、悪意からでなく、純粋に読みたいという気持ちに負けたのだろう。
「確かに、あなたにも落ち度はありますね。しかし、潔白ならば何故あの時に言わなかったんです?」
僕の問いかけにレティシアの表情が曇った。そうして、
「言ったら、ルカ様は納得して下さいましたか?」
と、どこか覇気のある声音に尋ね返された。
僕は思わず視線を伏せる。
「そうだな。納得はしなかったろうな……」
そもそも最初から潔白だと知っていたわけだしな……潔白だと言われたところでうやむやに言いくるめて流していたことだろう。
罪悪感が優って視線を上げられず、僕は伏せたまま上目がちにちらりとレティシアを見やった。
彼女の顔からはもうすでに曇りは消えていた。
つり目がちな榛色の目が真っすぐ僕に向いていて、口元はきゅっと結ばれている。特にこれといった感情を乗せていないその顔は、のっぺりとしていて人形のようだ。
これから口止めするために駆け引きをしなけばならないのに、これでは骨が折れそうだ。そう思った途端、僕は何だか脱力感に駆られ、緊張感が抜けてしまった。
「正直なところ、僕は昨夜のことを公にしたくありません。あなたが無断で入室して日記帳を読んだことは忘れます。その代わりに、僕があなたにしたことは口外しないでもらいたい」
こんな馬鹿正直に取引内容を伝えるのはどうにも慣れないが、他にいい方法も思い付かないし仕方がない。しかし困ったことに、レティシアからは何の反応も返ってこなかった。
時期も時期だから、出来るだけ醜聞は立たせなたくない。あまりこういうことは言いたくないが、やむを得ない。
「もし何か要求があるなら、可能な限り飲みますよ」
そう言うと、レティシアの目つきが少し鋭くなった。
「先ほども言いましたが、疑われるようなことをした私に非があるのです。私の落ち度を水に流していただき、疑いも晴れたのならばそれで良いのでは? ルカ様が使用人の私を罰することがあっても、私がルカ様に何を望むことがありましょうか」
本気でそう思っているのかと疑念の芽が生えかけたが、レティシアのまとう空気感は真剣そのもので、疑いの芽が育つ余地はなかった。
ー主人に見返りを求めないこと。
良き日も悪き日も、主人に仕え支えること。
自ら争いの火種をまかぬこと。ー
そんな使用人の掟と彼女が重なって見えた。
今の時代からしたら、そういった昔の掟を守る人間は古風だ。若い使用人では珍しい。
現在の貴族社会では身分差別はだいぶ薄れているし、使用人の発言権も強くなりつつある。過去泣き寝入りしていたような物事でも、今はやられっぱなしということは少ない。
「昨日、僕があなたに八つ当たりをしたと言っても、何も求めませんか?」
つい意地悪な質問が口からこぼれた。
レティシアの意識がどの程度のものか、興味が湧いてきた。
「あなたの素性はとうに知っていて、内通者でないこともわかっていた。最近、苛々する事が多くて、昨日もそうだった。そんな折に、日記帳を読んているあなたを見つけた。他人に自分の日記を読まれていて、もちろん嫌な気分にはなりましたよ。ですが、感情に任せてああいったことをしたのは単なる憂さ晴らしです。そう聞いても、何も求める気にはならないですか?」
若干当惑したような顔つきになったが、レティシアは無言を貫いた。
要求を考えているような気配はなく、ただ僕がこの面談を終わらせるのを待っているみたいだ。
部屋に沈黙がはびころうとすると、セオドールの声が傍から響いた。
「ルカ様は、彼女に嫌われたいので?」
声の感じからして、面倒臭いと思っていそうだ。何が面倒臭いのか僕にはわからないが、会話に割り込まれて良い気はしない。セオドールに抗議を醸した顔を上げると、小さくため息をつかれた。
「本当、人間は回りくどいのが好きですよね。レティシア・スプリングは何も求めないと言っているのですから、それで良いではありませんか」
レティシアを観察するような目つきで見ているセオドールに、僕は厳しい口調でたしなめた。
「口を挟むなセオドール」
けれどセオドールは怯みもせずに僕に視線を向けてじっと凝視してくる。そうして唐突に、はっと何か気づいて瞼を持ち上げて見せた。
「あ、ルカ様もしかして……」
ムフフと今にも笑い出しそうな口元を押さえ、セオドールは再びレティシアに視線を向けた。その意味深な視線に、僕は胸の内を読まれた気がして再びセオドールを睨みつける。
これ以上よけいなことを言うな——— という意味だったが、セオドールはどうにも別の意味で受け取ったようだ。笑いを堪えた口元で、何度も首を縦に振っている。
「茶々が入って申し訳ない。僕はとにかく、謝りたかったんです。それから、この件を公言しないという約束をもらいたい」
告げるとレティシアは真面目な顔で「公言は致しません」と硬くうなずいた。
「なら、この話はこれで終わりです。戻ってくれて構いません」
「いやいやぁ、ルカ様。それはどうかと?」
またもや口を挟んできたセオドールをじろりと見上げると、セオドールはわざとらしく両手を広げて言った。
「念書もなしに、口約束だけでこの娘を返すので?」
ご冗談でしょう? と後ろに続きそうな小馬鹿にした表情で見下ろされ、僕はうんざりして頬杖をつく。
「なら、作ればいいでしょう?」
そう言ってやると、セオドールは今度は首をゆっくり二度横に振ってどうにも微妙な表情を作った。
「いやいやぁ、ルカ様。私がレティシアを呼びに行った時、レティシアはソレーユメイド長の執務室におりましてですねぇ……」
人間は回りくどいとか良く言うくせに、自分もずいぶんと回りくどいじゃないか。
僕は苛ついて尋ねた。
「何が言いたいんです?」
セオドールは呆れたように僕を見返す。
「この娘をここに連れてきた時点で、少なからず噂になるでしょう。それはルカ様もご承知ですよね?」
「それは承知していますが、公言しなければそんな噂はすぐに消えます」
「まぁ、普段ならね」
セオドールはそこで言葉を切って、わずかばかり姿勢を正した。
「この時期にルカ様と接点を持った人間を、他の者が放っておくとでもお思いですか?」
「利用されることを心配していると?」
セオドールがそんな心配をするのはすこぶる珍しい。
「そうでございます。あとは、どうせ噂になるのなら、良い機会かとも思っておりますよ」
言いたいことが良くわからずに首をかしげると、セオドールはレティシアをあごで指した。
「ルカ様も本音はこの娘をお雇いになりたいのではございませんか?」
これには驚いた。何故そんな風に思ったのか。
僕がレティシアを雇いたいって?
全くそんなこと、思っていなかった。
僕はセオドールに問わずにはいられない。
「どうしてそう思ったんです?」
「昨夜の全てを知るわけではございませんが、お話を伺った限りではなかなかの手練れだそうで?」
セオドールの視線を受けて、レティシアが「いえ、私は……」と瞼を伏せた。
「手元に置いておけば、万が一も防ぎやすいですし、メイドとしての能力は……ソレーユメイド長が気に入っているくらいですから、まぁ優秀でしょう。それに加えて腕が立つのでしょう? こちらは願ったり叶ったり。そうじゃございませんか?」
まぁ、そう言われてみればそうだ。
昨夜の一件でレティシアはだいぶ懲りただろうし、きっと今後は以前にも増して慎重に行動するだろう。
もともと僕もセオドールも、ここに宮廷の使用人を入れることをあまり良く思っていなかったから、身元調査含めてある程度わかっているレティシアを雇うのは有りかもしれない。
「ずっとメイドを探していましたし。ね? いい機会でしょう?」
念を推すように言ってくるセオドールは、どうやらレティシアを引き抜いて欲しいらしい。この男が人を気にいるなんて滅多にない。ならば、本当に良い機会か。
「うん。そうですね……。ですが、あなたはどうです? 僕は良くてもあなたが嫌なら無理強いはしません。もちろん、僕に雇われるならば今の賃金より多く出しますし、待遇も善処しましょう。契約書には、もしもここを解雇されても良い職場を斡旋する項目を設けます。それがどんな理由の解雇でも。どうでしょう?」
レティシアが驚いて目を見開いた。
「僕に雇われるのは嫌ですか?」