副官サマと手紙 後編
報告書の気になる部分を抜粋して書き出していると、ペンの先が欠けて飛んでいった。
だいぶ長く使っていたからそろそろ変えようと思っていたが、先に耐久値が尽きたらしい。僕はため息をついて紙に飛んだインクを柔らかい布で拭き、ペン先を抜き取り足元のクズ籠へと放り投げる。そうして新しいペン先を出そうと引き出しに手をかけようとすると、机の上にぽつぽつと落ちているインクが目に止まった。
どうやら欠けて飛んだペン先の一部が机の端まで飛んでいったようだ。
僕は再びため息をついて紙を拭いた布で順番にインクを拭き取る。
新しいペン先を付けようと思ったが、なんだか集中力が切れてしまった。少し休憩しようかとなんとなく窓の外を眺める。
今日は曇り空で景色はあまり良くない。雨が降る前なのか、鳥も飛んではこない。
天気のせいか、妙に肩が重い気がする。
やはり休憩しようと窓から視線を手元に戻し、インクを拭いた布を畳んで置いて椅子から立ち上がった。それから壁際にある腰丈の棚へと歩いて、そこに置いてある水差しに手を伸ばす。
この棚には休憩用に何種類かのお茶とお菓子が用意してある。そのほとんどはアレス皇子がどこかへ行った時に思いつきで買ってきた物だ。
僕は水差しからポットに水を注ぎ、指先をポットの側面に触れてお湯を沸かす。そうして背中越しにルーイに尋ねた。
「ルーイも飲みますか?」
「あぁ、もらおうかな」
夏至祭後のあの議会以降、ルーイはたびたびヘクセンの姫君に呼び出されるようになった。それが執務中であってもだ。しかしルーイはあまり乗り気ではないようで、ルチアーノ公の夜会以降は執務中だけは断るようになった。そのせいか、以前よりも席で集中して仕事をしている事が多い。今日もそうだ。
「ヘクセンの姫君はどうですか?」
そう尋ねながら沸かしたお湯の中に親指の先程の丸く乾燥させた茶葉を入れて、伏せておいてある紅茶のカップを二つ元に戻して少し待つ。ルーイからは返答はない。
二分ちょっとすると、湯気に混じって甘いお茶の香りがしてきた。そうすると見計らったようにルーイがやってきて、近くに置いてある小ぶりの椅子に腰かけた。
僕はカップにお茶を注いでルーイに手渡す。
「どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
ルーイは僕から受け取ったお茶に二回息を吹きかけてすすり、「姫君よりも仕事の方が良い」と、先程の僕の質問にポツリと答えた。
国同士のことを考えれば、ヘクセンの姫君の好意を無下にはできない。特に今は。
夏至祭中にあった非公式な会食でぎこちなくなってしまったからというのもある。
元々自由気ままな気質のルーイだ。さぞや面倒くさい思いをしていることだろう。
僕は自分の分のお茶を注いでカップを持ち上げる。
お茶の香りを一呼吸楽しんでから、飲み込んでぼんやりと部屋の中を眺めた。
暖かいお茶が喉を通って内側に染み込む。その余韻をじんわり感じていると、頭の隅に追いやっていた事が浮かんできた。
昨日の夕方に来た父からの手紙のことだ。
〝お前は最近何をやっている?〟
そんな出だしから始まった手紙は、あまり良い内容ではなかった。
特にレティシアについては、責められているような気さえした。
夏至祭最後の日にレティシアと踊ったところを、父に繋がる誰かが見ていたようで、詳細はともかく、父に直接報告してきたとのことだった。
〝メイドにうつつを抜かしていては、お前の先は開けぬぞ!〟
勢いで書いたであろう右上がりの文字は、まるで父の声を代弁しているように語尾に行くにつれ力が入っていた。
その場に居たら反論したのに、それが出来ない手紙はなんとももどかしい。
僕は別に、うつつを抜かしているわけではない。
仕事はちゃんとしているし、彼女の件で大事になるようなことだって今のところはない。
昨日の手紙の返事にそれを書いておけば良かったと、今更ながらに後悔している。まぁ、そうしなかった原因はいくらかあるのだが……。例えば、手紙の先に、とあるご令嬢の話が出てきたこととかだ。
〝だが、お前が女に興味を持つようになったのは好ましい。ちょうど良い相手が居る。私も良く知る家の娘だ。デニス・ニコラウス・デクス子爵。確か今お前が預かる議会に居るだろう? 先日、彼から娘がお前に興味を持っていると手紙をもらったので、ぜひ招いてやってくれと返事を出しておいた。誘いがきたら必ず受けるように! その娘は社交界でも評判が良く、私としてはできることならメイドなどよりも彼女と懇意にし、要らぬ心配をさせぬようにしてほしい!〟
件のメイドとは縁を切れ。最後の一文はそう取れた。
わざわざ使者に手紙を持たせてその場で返事を要求するなんて、ずいぶんと父はご立腹のようだ。
使者の少年は『良い返事を受け取るようにと言われております』と言ったきり、その場に居たレティシアをじっと凝視していた。おそらくどんな人物か見てこいと言われたのだと思う。無垢な表情で何を思って伝えようとしているのか、まったく分からなかった。少し気がかりだが、お金や物を渡して解決できるものでもない。特に、父のよこした使者ならば、その年齢がどうであれ、賄賂があったら隠さず話してしまうだろう。
僕は使者の少年の言う通り、父の望んだ返事を、招待を受けると書かざるをえなかった。
「ルーイは、リリアーナ・デクスというご令嬢を知っていますか?」
手紙にあったデクスの名前。政務官の方は知っているが、その令嬢を僕はまったく知らない。
夜会に良く出ているルーイなら知っているかと思い尋ねてみた。
「最近おまえの口からは良く女の名前が出るな」
ルーイは冷めた言い方で返したが、そのあとには僕の聞きたかった情報をくれた。
「何度か夜会で話した程度だが、話し上手で世渡りに慣れている感じのご令嬢だったと思う。体型はそんなにオレ好みじゃなかったが、まぁ胸はそこそこあったと思う。で? なんでそんなこと知りたいんだ?」
「……父が会えと」
あまりルーイに女性関係の話を深くしたくはないが、尋ねてしまった手前いう他はない。
僕の答えにルーイがハハッ! と大きく笑って顔を僕に向けた。
「そりゃあご愁傷様!」
「なんですって?」
「え? だって、それ見合いだろ?」
見合い? まぁ……そう取れなくもない。正式に見合いだと書いていなかったが、懇意にするようにとあったわけだし、それを望まれているんだろう。
〝女に興味を持つようになったのは好ましい〟
別に、興味がなかったわけじゃない。ただ、化粧や香水の匂いが苦手で、夜会のような場でぎらぎらして声をかけてくるような女性も苦手なだけだ。それに、仕事で嫌というほど神経を使っているのに、家でも使うような伴侶は僕はいらない。
社交界でうまく立ち回れるような口の達者なご婦人が居たら、帰ってからも仕事をしているような気になってしまうと思う。使用人もその辺を考慮して少なくしているのに、ただの思惑通りにしてしまったら意味がない。
普通に生活している上で、寄り添ってくれる人が良い。
僕はレティシアが良いんだ。
素直に言ってしまえば、そういうことだ。御託を並べても行き着く答えはすべてそこなのだから。
「メイドはどうするんだ?」
ルーイが尋ねたその質問に、僕は答えなかった。
どうにかする予定がないからだ。
そもそもどうにかしようと焦って動いたところで良い方向へ変わるとは思えない。今は動くべきではない。それだけははっきりとわかっている。
答えない僕に、ルーイが鼻を鳴らしてお茶をすすった。
「別に、知ったこっちゃないけどな」
* * *
夕方、日が沈む前に僕は執務室を出て、レティシアを探すことにした。
手紙の内容が未だ気になってはいるが、それよりもレティシアが落ち込んでいることが気がかりになってきた。
手紙のことを思い出していて浮かんだ彼女の曇った表情。
時間が経つにすれそのことが強く僕を動揺させた。
もしかしたら手紙のどこかが見えたのかもしれない。要らぬ悩みとは言わないが、必要以上に悩んで欲しくはない。
部屋に戻りセオドールに彼女の居場所を尋ねると、セオドールは少し驚いた顔をして答えた。
「レティシアは?」
「レティシアなら、夕食用のテーブルを準備してございますよ」
「そうですか。ありがとう」
驚いた顔のセオドールを残し居間へ入ると、テーブルの準備をしていたレティシアが僕に気づいていつもと同じように挨拶をしてきた。
「お帰りなさいませルカ様」
一礼したレティシアに「ただいま」と返すと、レティシアはそそくさとテーブルの準備に戻ってしまった。
互いの想いを認識したのはつい一昨日のことだ。普通ならどことなく浮ついていたり、嬉しそうな雰囲気が滲み出るものだろうに、それはいっさいない。
絶対に今のレティシアは胸に何かを秘めている。
レティシアは何か言えない悩みを抱えているときはたいてい普通を通そうとする。それはしばらく観察していてわかったことだ。
普通を取りつくろえばするほど、悩みを隠していると言っているようなものだ。
僕は持っていた鞄をソファへ置き、レティシアに声をかけた。
「レティシア、少し話しをしませんか?」
テーブルの準備と言っていたが、彼女の手元を見るにもうほとんど準備は終わっている。あとはナイフなどの細かな位置調整をするだけだろう。
返事は予想していた通り返ってこなかった。
僕は一人で話を進めることにした。
「昨日の手紙ですが……何を見たとしても、気にすることはありませんからね?」
一人がけのソファに軽く腰を預けてレティシアに言うと、レティシアの手がわずかに止まった。それを僕は見逃さない。
やはり気にしていたか。
レティシアはこれ以上この話を耳に入れたくないようで、軽くナイフらに触ったのち、顔を伏せたまま一礼して今の扉へと足先を向けた。
僕はソファの縁から腰を上げ、居間から出て行こうとするレティシアの腕を掴む。すると、レティシアの口から痛みからくる小さな悲鳴が聞こえた。
そんなに痛がるほど強く掴んではいない。
僕は腕を離さず、空いた手で彼女の袖を捲りあげた。
左腕の外側、肘に近い部分が青いあざになっている。
レティシアが俯いたまま小さな声で言った。
「昼の稽古でちょっと失敗してしまって……」
「あぁ、剣の……」
言われてよく見れば、叩かれたような感じのあざだ。確か、レティシアの相手をしているのは以前立ち合いをしてくれた騎士だったか。骨が折れている様子はないから手加減はしてくれているのだろうが、ずいぶんひどい打撲だ。
「湿布をあげましょう」
「いえ、そこまで痛みはしませんので……っ!」
「痛いでしょう?」
あざに少し力をこめれば素直に痛いと声が上がる。
レティシアが信じられないと言った顔で僕を見上げた。
僕はレティシアの腕から手を離し、居間の角にある棚の扉を開いた。
ガラスのはめこまれた二枚扉。その奥にきちんと整列されている大小の瓶は、普段使いの薬たちだ。
僕はその中から中くらいの濃い緑色の瓶を取り出し、レティシアに差し出した。
「湯上がりに二滴ほど、ぬるま湯をはったこのくらいの桶に垂らして、綺麗な布に染み込ませて下さい。その布を、五分くらい幹部に当てれば明後日には痛みも腫れも引いてきます。体のどこでも使ってもらって大丈夫ですよ」
失敗したと言っていたから、きっと腕以外にもあざができているのだろう。付け加えるように言うと、レティシアの頬がわずかに緩んだ。
どうやら少し嬉しいらしい。
あぁ、父からの手紙がなければ、今日という日にもっと情感豊かなやりとりができたろうに。
もう少し話しをしていたら、このぎこちなさを拭うことができるのだろうか?
そんなことを考えていると、まるでその考えの先を阻止するかのように、ガチャリと居間の扉が空いてセオドールが入ってきた。
「ルカ様、デクス様から招待状が届きましたよ」