副官サマと手紙 前編
カチャリ とドアノブが回る音がして、私は反射的にうつらうつらしていた瞼を開いて椅子から立ち上がった。
立ち上がると自然と視線が扉へ向き、入ってくる人物を認識しようと頭が働く。
ルカ様ならば挨拶のあとに外套を預かり、セオドール様なら挨拶を——— 段取りを瞬時に立てて開いた扉に注目する。
扉から入ってきたのは、正装のルカ様だった。表情を見るにだいぶお疲れのご様子だ。
「お帰りなさいませ、ルカ様。ルチアーノ様の夜会はいかがでしたか?」
外套を預かろうと手を伸ばしながら声をかけると、ルカ様は「ただいまレティシア」と微笑んで挨拶を返し、腕に掛けていた外套を取りやすいように軽く差し出してくれた。
普段部屋に戻るまで外套を脱ぐことがないのに、今日は手に持っておられる。それがとても珍しい。受け取った外套から微かにお酒の匂いがしたらから、もしかしたら廊下を歩いてきた時に暑くなったのかもしれない。
「ルチアーノ公の夜会は、まぁ上々でしたよ。疲れましたけどね……ところでセオドールは?」
もう零時を回りそうな時間なのに、セオドール様はいらっしゃらない。こんな事態もとても珍しい。
セオドール様はほんの三十分前に給仕区から急ぎの呼び出しが来て、慌てて出かけて行かれた。なんでもリネン室で各部屋の預かり物が取り違えられたとか。他の部屋の執事たちも呼び出されたのだと、使いの少年が眠そうな顔で言っていた。
そのままあったことをルカ様に伝えると、ルカ様は「そうですか」と頷いて居間へと向かった。
居間へ向かうルカ様の先を行き扉を開けようとするが、ルカ様が私に振り返って言った。
「レティシア、扉は良いので冷たいお水をもらえますか? 少し飲んだので酔いを覚ましたいんです。バルコニーに居ますので」
「かしこまりました」
軽く礼をして水を取りに台所へと向かい、台所脇の背の高い棚に外套を吊るす。ここへ置くのはあとで仕舞う前にブラシをかけるためだ。
外套をかけたら次は細身のグラスを上の棚から取り出し、冷蔵庫で冷やしている水を注ぎ入れる。そうしてシンクの側にある氷入れから、グラスにようやく入るくらいの氷を一つ中へと静かに落とす。
用意できた水を銀色のトイレに布製のコースターを置いて乗せ、水滴が垂れた時用に白い布巾を一枚、トレイを支える手の中指に挟み込んで居間へ向かう。
居間への扉は開けた放たれたままで、入り口まで涼やかな風が流れ込んできていた。
夏至を過ぎて日中は暑くなったが、夜はとても冷える。今夜はまだ震えが来るほどではないが、一枚羽織っていないとすぐに肩が冷えてしまうだろう。
「ルカ様お水をお持ちいたしました」
「ありがとうございます」
バルコニーの中央付近。その縁で夜風に当たっているルカ様に水を差し出すと、ルカ様は手袋のままグラスを持ち上げてごくごくと飲んだ。
居間へと流れる風が、私の背後でレースのカーテンを揺らす。
私は「肩掛けなどを羽織られては?」と提案したが、ルカ様は「そんなに長くは居ないので」と首を横に振った。
水を飲むルカ様の横顔を、適度な距離から眺める。
今日の月は満月に近くとても明るい。夜目がきかない私でも良く見える。
髪と同じ色の長いまつ毛が瞬きで揺れるのも、その瞳が遠くの何かを追って微かに動いているのもはっきりとわかる。
『あなたの心が定まらないと始まりませんね』
微風に乗って、居ないはずのセオドール様の声が聞こえた気がした。
ルチアーノ公の夜会は無事に終わったと、先ほどルカ様はおっしゃった。なら、私は告白についての返答をルカ様にしなければいけない。
夜会が終わった当日にというのは急ぎすぎかとも思うが、今日はおあつらえ向きにセオドール様が居ない。こんな機会はそうそうないだろう。
でも、どう切り出せば?
最初の一言を必死に頭の中で探るが、探るほどに言葉が逃げて、一文字も浮かばない。
「何か、僕に話があるんじゃないですか?」
「え?」
カラン と、私の驚いた声と同時にグラスの中の氷が鳴った。
唐突な、でも的を得た質問に心臓が跳ね出す。
そんなに態度や顔に出ていたのだろうか?
私は右足のつま先をほんの少しだけ後ろに下げて、視線をそこへと落とした。
うつむいて返事を返さない私のせいで、静かな間が生まれる。
バルコニーの正面に広がる小さな林の葉っぱ。それが揺れる音が聞こえてきそうなほど静かだ。
カラン と、またグラスの中で氷が鳴った。
「あまり、僕にとって良い話ではない——— 違いますか?」
ルカ様は、どうやら私が何を話そうとしているのかをわかっているご様子だ。
私は顔をわずかに上げて、呟くように答える。
「……その、良い話かどうかは、正直わかりません」
私の言葉を受けて、ルカ様が私へときちんと振り向いた。
「聞かせて下さい」
真っ直ぐな視線が私の正面を捉え、逃げることはできない。
話すしかない。
私は顔を上げ、視線をルカ様へと向ける。
「あの——— 夏至祭の時のあれは、告白だったのですよね?」
そうだろうとは思っているが、未だ心のどこかで〝違うのでは?〟という疑問が残っている。まずそれをきちんと確認したかった。しかし尋ねると、ルカ様は呆れた顔で眉を寄せ、「他にどう取れるんですか?」とため息をついた。
「恋人になって欲しいと、そう言ったつもりだったんですが……」
ルカ様は自身の言い方が悪かったのかと悩む素振りで軽く腕を組んでしまった。
私は悩ませるつもりはなかったので、慌てて「ただ確認しただけでございます!」と首を大きく横に振る。そんな動作を見てルカ様は考え事を止めたが、寄せた眉と組んだ腕はそのままだ。
私は深呼吸してからできるだけ落ち着いた声で静かに言葉を送り出した。
ここしばらく、ずっと胸に溜め込んでいた言葉だ。
「私は、ルカ様をお慕いしております」
心臓が胸を突き破りそうなくらい内側で跳ねている。
気持ちを伝えるのにこんなに動揺したことなんて今までになかった。でも、はっきりと自分の気持ちを言葉に出すと、自分が本当にルカ様を慕っているのだと改めて実感が沸いた。
「……それはどういう? 国の重鎮としてですか?」
眉根を寄せたままで私に尋ね返してきたルカ様は、どうやら〝告白だったのか?〟という質問に囚われているようで、ずいぶんと勘繰っていらっしゃる。
「いいえ! いえ……それもそうなのですが、お慕いしているというのは、男性としてでございます!」
素直に口から出た自分の言葉に恥ずかしさが込み上げて、空いた手で口元を隠す。
冷たい夜風が熱くなった頬を冷ますように掠めていく。
私の答えにルカ様は一瞬嬉しそうに表情を緩めたが、すぐにそれを隠すようにわずかにうつむいた。
「だけど——— と、続くんでしょう?」
ルカ様はどうやら悪い返事に落ち着くであろうと予想しているようだ。それは、あながち間違いではないが、本当にそうなるのかどうかは私もわからない。
この話がどう転ぶのかなんて、予測できない。
「ルカ様は、身分について、どうお考えですか?」
私の質問に、ルカ様が顔を上げた。
「私は平民で、ルカ様は貴族様でございます。受けてきた教養も育ってきた環境も全然違います。周りからの目も、求められる物事も全然違うでしょう。私は、互いに好きでも、ずっと続くとは思えないのです」
ルカ様は少し長く考えてから少しだけ首を傾げて尋ねた。
「あなたが言わんとしていることが分かりませんね」
「私は、ルカ様の隣に並ぶのは話術に長けたご令嬢の方が良いのではと——— 」
そうはっきり言うと、ルカ様は「あぁ」と合点がいったと頷いた。
「あなたは、社交界や政治の付き合いのことを言いたいんですか?」
「そうでございます」
ルカ様は何がおかしいのかクスクスと笑った。
「僕はあなたにそういうことは求めませんよ、レティシア。確かに僕は、あなたにずっと側に居て欲しいと言いましたが、それは社交の場でもということじゃあありません。そこは僕に合わせる必要はないですよ。今まで通り、僕は僕の仕事を、あなたはあなたの仕事を。それを変える必要はないでしょう。まぁ、あなたがメイドを辞めたいというのなら話は別ですが……」
「いいえ! 辞めたくはありません!」
最初こそ、働かないとと思い給仕職に応募したが、仕事を覚えていってこの仕事の楽しさに気づいた。教えてくれた人がソレーユさんだったからかもしれない。
気持ちよく整えられた空間で過ごす人たち。その人たちのくつろいだ姿を見るのがとても好きだ。
メイドを辞めたくない。
でも、ルカ様の言い方だと、使用人と主人、今のままのこの関係を続けていくということになる。
そんなことが許されるのだろうか?
悩んでいると、ルカ様が私の顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
「逆に尋ねますが、今のままで何が悪いんですか?」
あっけらかんとした言い方に、当惑してしまう。
何が悪いと言われると、直ぐに答えられない。
「まぁ、雇用関係がと言われると、恋人になるのは不適切な気もしますが……その辺は、僕もあなたもうまく住み分けができるんじゃないかと思うんです。仕事は仕事、ですからね」
「それは……でも、周りは反対するのでは? セオドール様は?」
相談に乗ってくれた様子からすると、セオドール様は反対しそうにないが、その他はどうだろう?
アレス皇子やルーイ様、ご両親やお仕事関係の方々はなんと思う?
「セオドールは反対しないでしょうね。あなたとならば特に。けどまぁ、確かにこの国はまだまだ貴族主義が根強いですから、うるさく言う人も居るとは思っています。でも、それはほんの一部ですよレティシア。家同士の結婚とか、そんな政略的な話もまだまだありますが、今はそれは一つの選択肢でしかない。けっきょくは当人同士がどうしたいかによります」
選択肢の一つだと言われてしまうと、私が考えすぎているだけなのかという気もしてくる。いいや、気にしすぎと言うことはないだろう……多分。きっと、この時代では私が気になっている事もルカ様が言っていることもどちらも正しいのだ。
身分や立場を気にして付き合わないといけない。気にしなくても問題ない。そんな相反する考えが同時に存在している。
だけど、どちらにしろ中傷はされる。
「……ルカ様は、傷つくのが怖くはないのですか?」
ただ雇われただけでも悪い噂がたった。それ以上になったらどうなるのだろう?
本当にそういう関係になって、今以上にもっと何か言われたら?
自分本位かもしれないが、ルカ様が傷つくのも自分が傷つくのも、それに巻き込まれて家族や知り合いが傷つくのも嫌だ。
ルカ様は一度口をつぐんでから、わずかに硬い声で尋ねた。
「反対されるから、噂が立つからと言って、あなたはその気持ちを捨てることができるんですか?」
水色の鋭い瞳に射抜かれ、息が詰まった。
気持ちを捨てる?
そうか、断るということは、そういうことだ。
できるのだろうか? もし諦めると決めて、キッパリと諦められるのか?
告白の返答を〝断るべきだ〟と頭でわかっていても、結局できなかったのに?
頭が考え始めたけれど、すぐに「できない!」と胸の奥が切なく叫んできた。
「今の生活の中で、単に僕とあなたが恋人になるってだけの話です。僕が望んでいるのはあなたであって、話術に長けているご令嬢でも政治的に得のあるご令嬢でもない。都合がいい話かもしれませんが、今は単純に、お付き合いすると——— それで良いと思いませんか?」
柔かく言って、ルカ様は穏やかに私との距離を詰めて目の前に立った。
ゆっくりと、私の空いた手に触れて軽く握る。
「一つ一つ、これから話し合って解決していけば良いと僕は思うんですが、どうでしょう?」
視線を外せない。
真っ直ぐ見つめてくる瞳は夏至祭の時と同じ、想いのこもった瞳だ。
水色に落ちた白い月の光が揺れる。
「え? ルカ様!」
唐突に、ルカ様が舞踏会の踊りのように、私の腰を軽く誘導してくるりと半周回らせた。
回ったせいで揺れたからか、驚いて思考が止まったからか、頭にあった不安が消える。
視界がルカ様と入れ替わり、私の視界に月が入り込んだ。
回転して広がったスカートの裾がすべて戻る前に、抱き寄せられて近づく互いのまつ毛。
「さて、告白の返事は〝はい〟で良いですね?」
穏やかで優しい問いかけに、私は素直に頷いた。
月下で触れ合う唇。
その口づけは、図書室の時よりもとても甘かった。
* * *
翌日、私は久しぶりにすっきりと目が覚めた。
夏至祭以来ずっと悩んでいた告白の返答をしたことで、こんなにも心が軽くなるなんて思ってもいなかった。
なんだか体も調子が良い気がする。
私が告白を素直に受けなかった理由について、そのすべてに答えが出たわけではないし、まだ不安はあるが、今は少しずつそのことが解決していきそうな予感がしている。それも、お互いにとって一番良い結果になるためのだ。
ルカ様がそう言ったからだろうか?
一つ一つ、これから解決していけば良いと。
私は朝の支度を済ませ、部屋を出て台所へと向かう。
今日はまだセオドール様の姿はそこにはない。
『そのままの気持ちをお伝えなさい。悩んでいることについても全部』
セオドール様の言った通り、そのままの気持ちを伝えることはとても大切なことだった。
あのまま一人で考えていたら、きっと今も返事を返すことなく暗く沈み込んでいただろう。
セオドール様が起きてきたら、お礼を言いたい。
蛇口をひねって野菜を洗いながら、私はセオドール様が起きてくるのを待った。
けど、この日、お礼を言う機会は訪れなかった。
それどころか、私の気分は夕方には簡単に元に戻ってしまった。いいや、夏至祭以前よりもずっと悪くなった。
やっぱり、私とルカ様はどうにもなれない!
そんな思考が再び私の頭の中を支配してしまったのは、たった一通の手紙のせいだった。
夕方ルカ様が一度お戻りになられた折に、見計らったように現れたフレデリカ侯爵からの使者。その使者はまだ十代前半くらいで、大切そうにルカ様の父上様からの手紙を手に持っていた。
セオドール様が手紙を受け取りルカ様へと渡し、受け取ったルカ様はその場でおもむろに手紙を開いた。
ルカ様の半歩後ろに居た私は、目を反らせるのが遅れて手紙の一文が目についてしまった。
その文は、決して私にとって良いものではなかった。
〝メイドにうつつを抜かしていては、お前の先は開けぬぞ!〟
5/10はメイドの日! ということで、月曜更新してみました!
みなさん良いメイドの日をお過ごしください!