副官サマの日記帳 後編
「ねぇルカくん。なんで今日はそんなにため息が多いの?」
珍しく机に向かっていたアレス皇子が、うんざりした顔を上げて僕を見た。
僕は気が付かなかったと口元を押さえ、羽ペンを置く。
「ため息、ですか?」
「さっきので三十五回目だな」
資料棚に本を戻しながらクスクスと笑う同僚のルーイ。僕のため息になんて、さして興味がないだろうに……数えるなよこのサディスト魔導師!
「なんかあったの?」
僕が心中ルーイに毒づくと、間髪入れずにアレス皇子が僕に尋ねてきた。
ゆっくりと頬杖をつきながら僕の返答を待つアレス皇子に、僕は口元を押さえたままゆっくりと机の上に視線を落とす。
ため息の理由を考える素振り。だが、知らずについていたこのため息の、その理由は考えなくてもわかっている。
とあるメイドが僕の日記を読んだことに始まった昨夜の出来事。それが原因だ。
普段なら〝出て行け、おまえは入室禁止だ〟で済ませるのに、なんで僕は、昨日に限ってあんなことをしてしまったのか。
やはり、彼女だったから——— だろうか。
以前から気になっていた宮廷メイド。よく見かける彼女の、真面目に仕事をする姿に好感を覚えたのはだいぶ前のことだ。いつか話をしてみたいなとは思っていた。だけどそれがまさか、あんな状況で叶うとは夢にも思わなかった。
規則破りをした上に、私物を盗み見た彼女の行動。僕はそれに失望を覚え、多少だが怒りも覚えた。
自分の日記を他人に読まれたら、誰だってそんな感情を抱くだろう。けど、まぁ……だからといって、昨夜、僕が彼女にしたことが正当化されるわけじゃあない。
最初はちょっと懲らしめてやろうという、軽い気持ちだったのだ。それなのに、ついつい興が乗って悪ノリしてしまった。
彼女の目からぼろぼろと零れ落ちる涙を見つけ、やり過ぎたと気付いた時にはもう、言い訳が通用する状態ではなかった。我に返って彼女の上から身を引いて、泣きながら部屋を出ていく彼女の背中を見て、残った感情は後悔以外にはない。
それを思い出しての重いため息だ。
はぁ……と漏れ出るため息に、アレス皇子がまたうんざりした顔を僕に向けた。しかしすぐに執務室のドアがノックされ、皇子の意識は僕からドアへと向けられた。
僕は口元から手を離し、咳払いをしてから扉に向かって「どうぞ」と返事をする。
扉から顔を覗かせたのは僕の密偵だった。
「ご苦労さま」
密偵は音もなくさっと僕の机まで歩き、封筒を手渡して早々に部屋を後にした。
僕は受け取った封筒から一枚の紙を取り出して眺める。
紙に書かれた内容は、件のメイドの新しい資料だ。
対象名: レティシア・スプリング
生誕: 碧ノ月九日
年齢: 十九歳
職業: アストラル帝国城ハウスメイド
評価: 仕事は丁寧。同僚・上司とも関係は良好。
家族: 本人を含め四人。父親は城下西区のパン屋
ヒートアップの店主。
過去傭兵をしていた記録有。しかし流転が
多く詳細は不明。
母親は元アストラル帝国宮廷魔導師。
退所時に禁名を願い出たため経歴不明。
現在は旅に出ている。
兄はアストラル帝国騎士団員。二ヶ月前か
ら北の僻地に駐屯している。
「ほぼ変わりなしか……」
実のところ、彼女の調査をするのはこれで二度目だ。
一度目はおよそ二年前。初めて彼女が宮廷の政務官区に配属された折りだ。ただこの時の調査は彼女にだけではなく、配属されている全使用人に行った。あの時はアレス皇子が次期皇帝になると正式に決まった時期で、情勢が今よりも不安定だった。だからそれをするのが非常に重要だった。
家族関係・交友関係・本人を含む政治思想。様々な危険を防ぐためには徹底して調べておかねばならない。もしも何かされたらと、不安のつきまとう使用人を側に置きたくはない。
そう、僕は初めから彼女が内通者でない事はわかっていた。調べていたわけだから。なのに、僕は話の成り行きで彼女にその疑いをかけてしまった。
「なぁんだ、女がらみのため息か」
突然背後からルーイの声がして、僕は報告書を自分の胸元に伏せて振り返った。
いつから覗き込んでいたのか。僕はルーイから距離を取ろうと椅子から立ち上がる——— のだが、グイと上から肩を押され椅子へと戻されてしまった。
顔を上げればアレス皇子がニマニマした顔で僕を見下ろしている。
「女がらみだなんて、ルカくんも男の子だったんだね!」
うんざりした表情からうって変わった好奇心爛々の顔つき。なんか腹が立つ。だいたい男の子って、僕はあと七日で二十歳になるんですが? そういう表現は止めてもらえませんか皇子殿下?
僕は抗議めいた視線をアレス皇子に向けながら、そっと報告書を見られないように封筒へ戻し、鍵付きの引き出しへと押し込んだ。
「変な想像をしないでいただきたいです。少し気になるところがあっただけですから……」
僕の頭上でニヤニヤとニマニマと見下ろしてくる二人に、苛々が顔をもたげる。この二人の頭の中には下卑た想像が広がっているはずだ。……あれ? そういえば、よくよく思い出してみると、昨日は部屋に戻る前から苛々していた気がするな。いいや、昨日どころじゃない。ここ最近ずっとだ。それも、ほとんどがこの二人のせいじゃないか?
僕は頭上の二人を少しだけ見上げた。
戴冠式まであと数ヶ月。緊張感を持って機敏に動くべき時期なのに、二人ときたら今まで通りにヘラヘラふらふら。片付けておきたい仕事は一向に減らないし、むしろ増やされている。
アレス皇子が皇帝になることを良く思っていない貴族・政務官は数多く、副官と呼ばれる執政官補の僕とルーイを追い落とそうとしている者も然りだ。
そんな連中に、この二人は餌を与えすぎじゃあないか?
ぼんくら皇子、色ボケ魔導師というこの二人の異名はまったく否定できない。
「なぁ、相談なら乗るぜ?」
ルーイが僕の背後から半身覗かせてヘラりと笑った。
何を相談しろというのか。彼女のことをか? 絶対にごめんだ。昨夜のことをこの場で喋ったら、からかわれるのは目に見えている。
あぁまったく! 二人とも僕に構わず仕事に戻ればいいのに! ヤキモキしているのはいつも僕だけだなんて理不尽だ!
どんなに頑張っても自分が思ったようには報われない、この職がそうだとわかってはいるが、たまには報われたいと思ってしまうのが人間じゃないか。
部屋を出ていく彼女の姿が脳裏を過ぎる。
どうしたものか。
醜聞が立つのは避けたい。
昇給・昇格・金品の授受。彼女はそういった取引をどう思うだろう。そんな提案をしたら、よけいに嫌われやしないか? いや、もう取り返しがつかないほど嫌われているか。
あぁ、もういいや。悩んでも仕方ない。新しい資料で内通者ではないと裏付けされたし、潔く謝ってしまおう。それでダメならあとは彼女が望む通りにすればいい。うん、それがいい。
「僕、ちょっと疲れているようなので、今日はこれで失礼します」
僕は手早く机の上を片付けて立ち上がった。
アレス皇子とルーイが何か言いかけたが、無視して執務室の扉へ向かい開く。それから勢いよく廊下へ踏み出すと、警備で立っていた兵士が少しだけ驚いた顔をして僕を見た。
なんで驚かれたのかよくわからないが、兵士はすぐに視線を逸らし、正面に向き直ったのでそれ以上は考えないことにした。
僕は閉まる扉を背に、足早に廊下を歩き始める。
居室に戻ったら、執事に彼女を連れてきてもらおう。
* * *
アストラル帝国城の堅物鉄仮面といえば、副官であるルカ・ル・ラ・フレデリカの他にもう一人、ソレーユ・パンゴの名が上がる。数名いるメイド長の一人である彼女が、声を荒げて部下を呼びにくる。それだけで、宮廷の使用人達は何か良からぬ事が起こったのだと悟る。
誰が何をやった?
どんなことをしでかした?
当人以外はそんな好奇心にそそられ、耳をそばだてずにはいられない。
「レティシア! レティシア・スプリング! ちょっとおいでなさい!」
リネン室にシーツを運んでいた私は、ソレーユさんの声に危うく洗濯籠を落としそうになった。
居合わせた使用人達がいっせいに私へ視線を向け、ソワソワし始める。
ソレーユさんが廊下から人差し指をまげて早く来るようにと急かした。
私は動揺しつつも籠を置いて、呼ばれるがままに廊下へと出る。
「着いてきなさい」
ツカツカと廊下を歩き始めるソレーユさんの後ろにおずおずと続き考える。
なんで呼び出されたのだろう?
鉄仮面とも言われるこの人が、わずかにでも表情を崩すなんて非常事態だ。
何かとんでもない事件が起こったのだ。でもそれに、私がどう関わっているというのだろう?
「入って」
足早に廊下を進んで着いた先は、ソレーユさんの小さな執務室だった。
小綺麗に片付いた部屋には大きな机と中型の本棚があり、入り口に背の低い小棚が二つ並んでいる。
ソレーユさんは廊下の様子を伺ってから扉を閉め、神妙な面持ちで私に振り返った。
「アンタ、昨日何かやったの?」
私はなんでそんな事を聞かれるのかと眉を寄せ、首をかしげる。するとソレーユさんはほっとしたように表情を緩め、左手を軽く、はたはと振った。
「その感じじゃ、私の思い過ごしかしらね。いやね、フレデリカ様の諜報兵が、レティシア・スプリングのことを調べてるって小耳に挟んだものだから——— 」
ソレーユさんの言葉はまだ続いたようだが、私の耳には届かなかった。
フレデリカ様の諜報兵がレティシア・スプリングのことを調べている。
その言葉に瞬時に昨夜の記憶が蘇り、背筋が凍った。
悪い夢であったならと、昨夜からずっと頭の奥に押し込めていたが、やはり逃れることはできないようだ。
「え、ちょっと……アンタ、本当に何かやったの⁉︎」
明らかに様子の変わった私に、ソレーユさんの表情が曇る。
爪先が自然と戸口に向くが、ソレーユさんは逃がさないと扉の前に立ちはだかった。
「て、帝国を裏切るようなことはしておりません!」
思わず口をついて出た私の言葉に、ソレーユさんの眉がぴくりと動き、矢継ぎ早に問い返された。
「裏切るって、そんな単語を持ち出す必要がある何かはあったってことよね?」
さすがに宮廷のメイド長ともなると勘が良い。その勘の良さがあるからこそ、メイド長にまでなれたのかもしれない。
私は昨夜のことを説明して良いものか悩み、床に視線を落とした。
「かばってあげられる事かもしれないでしょ? 言ってみなさいよ」
宮廷に雇用されてからこれまで、ソレーユさんは何かと目をかけてくれている。本人が言うには、似たところがあるからつい面倒を見たくなるらしい。変に真面目な所や、表情による感情表現が乏しいところが特に共感を覚えるのだそうだ。
給仕同士の信頼関係をもとに結ばれた友情。信頼を一度でも失えば、簡単に崩れてしまう関係だ。だからよけいに、昨夜のことを説明するのをためらってしまう。
規則を破り、日記を盗み見て、内通疑惑まで持たれてしまった。
信頼を裏切る事ばかりだ。
——結果がどうなるか考えて行動せよ。目先の至福に飛びつく事なかれ。
宮廷に雇用される者が必ず教えられる教訓。
昔から政治がらみの企みに多くの使用人が関わってきた。それを抑制するために出来たこの教訓を、守れぬ者は多い。
金銭・物品・地位に名声。欲につけ込まれ弱みを握られ脅される——— なんてこともあるそうだ。
企みに加担して捕まれば、一生を台無しにするとわかっていても、強い欲には勝てないのだろう。
実際、私も欲に負けてしまったのだ。
開いてあった日記帳を覗いてみたいという欲に。
日記帳を覗いたあとのことを考えていれば、きっと今、こうして悩むことはなかっただろうに。
「ちょっと、大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
心配そうに覗き込んでくるソレーユさんに、申し訳なさが募る。
話すべきかどうか私が悩んでいると、ソレーユさんの背中からコツコツと扉を叩く音がした。
ソレーユさんはちょっとだけ驚いて頬を引きつらせ、ぎこちなく振り返ってからドアを少しだけ開けて廊下を確認した。
「失礼しますよ」
扉越しに聞こえる艶やかな低い声。その聞き覚えのある声に、私の肩がびくりと跳ねた。
「セオドール様。どうかなさいましたか?」
「いえ、ちょっと……」
ヒソヒソと小声の会話が聞こえるが、内容はわからない。しかし、あまり良い展開ではない。
セオドール・フィアカルナ・アバレスカ。今ソレーユさんと話しているのはルカ様が個人的に雇っている執事だ。
ソレーユさんのスカートが揺れ、扉が大きく開かれる。
「お話中に失礼。レティシア・スプリングに用がありまして」
そう言いながらソレーユさんの背後から顔を覗かせるセオドール様に、思わず身構えてしまう。
にこにこ絶えない口元の笑みが妙に胡散臭い。
「レティシアはこの子ですが、まだ城内の仕事が残っております。御用向きを教えていだけませんか?」
ソレーユさんがセオドール様を見上げて不審そうな目つきで尋ねた。
セオドール様は苦笑いを浮かべてソレーユさんを見下ろし、それからゆっくりと視線を私に向けた。
「いえ、私はルカ様に昨夜「ま、まいります!」
セオドール様の言葉を遮って声を上げた私に、ソレーユさんが怪訝な顔で振り向いた。
私はソレーユさんと視線を交わさないように逸らし、壁の角を凝視する。
ソレーユさんは昨夜のことをまだ何も知らない。けれどもし、私をかばってくれようとしたら、彼女もただでは済まない。
ソレーユさんには何も知られない方が、かける迷惑が少なくて済むだろう。
「ふむ。本人が〝まいります〟と言っておりますが、どうですかね? メイド長?」
セオドール様の問いに、ソレーユさんが眉間にしわを寄せながらゆっくりうなずいた。
「早めにお返しくださいましね」
連れて行かせたくないという空気を滲ませるソレーユさんに、セオドール様は「えぇ」とうなずき返してから、私に廊下へ出るようにと促した。
私はソレーユさんの横を通り廊下へと静かに出る。
心配げな面持ちのソレーユさんをしっかり見ることができない自分が歯がゆい。
セオドール様はほどよい速さで廊下の先へと歩いていく。その後に遅れないように続き、しばらく黙々と歩いた。
見慣れた給仕区を抜け、宮廷の豪華な窓が横目に映り込む。そうすると、石の床に踵が鳴った。
給仕区の床とは違う、よく磨かれて艶のある滑らかな床。普段歩き慣れている廊下だが、私はふと、どことなく違和感を覚えて眉を寄せた。
靴音が一つしかない?
前を行くセオドール様の足元からは、靴の音がしない。
見たところ革靴の踵は硬そうだから、音は鳴りそうなだけど……もしかしたら、鳴らないように何か細工をしているのかもしれない。そうかもしれないが、なんだか異様に思えてしまう。
漆黒に似た黒の執事服にも心がそわそわする。それにその背にゆらゆらと揺れる濃い灰色の髪も不気味だ。
何だか、おとぎ話に出てくる死神みたい……。
セオドール様の背に死神が重なって見え、私は慌てて左右に首を振った。
自分の身が危ないからといって、そんな想像はするべきじゃない。セオドール様に失礼だ。
「どうぞ」
「え?」
私は急に立ち止まって振り返ったセオドール様に驚いて顔を上げた。
もう着いてしまったのか。確かに目の前にある白磁の扉はルカ様の居室の扉だ。
給仕区から直接政務官区居住区へ入り、そこから一番遠い場所にこの部屋はある。
変な想像にとりつかれていたせいか、普段よりもずいぶんと早い到着だ。
外扉を開けたまま立っているセオドール様が、手のひらを返して中へ入るように急かした。
私はぎこちない足取りで扉をくぐり、扉から一歩のところで立ち止まった。
かすかにシトラスの香りの漂うこの部屋は、来客が必ず通る部屋で、普段セオドール様が執務室として使っている。
「レティシア・スプリング。こちらですよ」
慣れた様子で外扉を閉じたセオドール様が、私の横を風もなく抜けてさらに奥の扉を開けて誘う。
入り口よりも飾り気のないその扉の向こうは広い客間で、食事を取る際もそこを使っていると聞いている。
「ルカ様が戻られるまで、もう少しお待ちいただきます。どうぞあちらのソファにお座り下さい」
妙に丁寧なセオドール様の態度が不安を一気に押し上げてくる。
私はてっきりセオドール様の執務室で待つものだと思っていた。
なぜ客間に通されるのか……。
私の全身が客間に入ることを拒否して足が動かない。
昨夜のことを問いただすために呼ばれたのなら、こんなに丁寧な扱いは受けないはずなのに。
「まぁまぁ、そう固くならず。座って待ってらして下さればいいのですよ」
立ち止まったままの私を、セオドール様は呆れ顔で見て、強引に私の背を押してソファへと押し込める。
「さ! 何か飲み物をお持ちしましょう」
ソファで飲み物を飲みながら、ゆったりと待つような話では絶対にないと思う。
もしかして自白剤でも入れるつもりだろうか。
セオドール様を見上げるが、すでに踵を返していて表情が見えなかった。
緊張で胸が痛い。
「あ、そうそう」
セオドール様が退出間際に少しだけ立ち止まり、思い出したように付け加えた。
「目についた書類には触れませんよう、お願いしますよ」
さらりとした言い方だったが、その忠告に息が詰まった。
セオドール様は昨夜のことを全て知っているのだろう。でなければそんなことを私に言って寄こさないはずだ。
カチャリ と小さく扉が閉まる音がして、室内から物音が消えた。
——結果がどうなるか、考えて行動せよ。
脳裏に過ぎる教訓は、もう充分に身に染みている。
私は今まで座ったこともない柔らかなソファの上に、不安で爆発しそうな頭を抱えて深く沈み込んだ。