表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
副官サマの日記帳  作者: 茅嶋ときわ
17/50

副官サマとメイドと皇子とお姫様 前編

 衣装掛けから裁縫師まで、全ての物と人が居間へ収まると、見計ったようにイリア様が話し始めた。

 

「私ね、この間からずっと気になっていたことがあるの」

 

 両手を合わせて少しだけ斜めに倒し、頬の少し下あたりに添えて話すイリア様は、ここ最近で一番楽しそうな表情に見える。

 イリア様は言いながら、レティシアのつま先から頭の先までをゆっくり目で追った。

 レティシアはその視線に何かを感じたのか、気まずそうに一歩後ろに下がり、肩をすぼめて両手をスカートの上で重ねて固まってしまった。イリア様はそれを見て、慌てた素振りでレティシアに言葉をかける。

 

「あらあら、怖がらないでちょうだい。ただちょっと、あなたの衣装が気になるの」

 

 僕はイリア様の言葉を聞きながら、レティシアの服装をじっと観察した。

 漆黒とまではいかないが、黒に近い色のドレスに肩口に薄手のフリルがついた白いエプロン。宮廷の物ほど細かなレースは(ほどこ)されていないが、見劣りするほどではない。だがまぁ、給仕のそれと言って括ってしまえば、特に変哲もないただのお仕着せだ。しかし、これのどこが気になるというのだろう?

 そんな疑問を込めてレティシアの服からイリア様へ顔を向けると、イリア様が僕に気づいて答えをよこした。

 

「ここの給仕服……お仕着せというの? ちょっと宮廷の物と形が似ているのよね。ルカは気にならなくって?」

「いえ、特に……そんなに似ていると思っていませんでしたので」

「あら、そう? けっこう似て見えるのよ?」

 

 困るのよねぇ、と最後にぽそりとつぶやいたイリア様は、侍女に目配せをして、衣装掛けから宮廷のお仕着せを取り出させた。お仕着せを取り出した侍女は、そうするのが当然といった自然な動作でレティシアの横に並べて見せる。

 レティシアはそれに驚いて動こうとしたが、イリア様に「そのままで居てちょうだい」と穏やかに言われ、驚きながらもその場にじっと留まった。しかし、とても居心地が悪そうだ。さっきよりもいっそう肩をすぼめて床に視線を落としている。

 

「イリアちゃんはね、ぱっと見で〝ルカくんのメイド〟だってわかるようにして欲しいんだって」


 レティシアに気を取られていると、いつの間にかどっしりとソファに腰掛けていたアレス皇子が、足を組みながら僕に言った。

 僕はレティシアと宮廷のお仕着せを交互に見る。

 並べてみると、確かに少し形が似ているかもしれない。特にエプロンの形が似ているだろうか。しかし、パッと見てわかるようにとして欲しいというのは、どういうわけだろう?

 僕が再びイリア様を疑問めいた顔で見ると、イリア様は衣装掛けを見ながら言った。

 

「形をね、もう少し特徴的にして欲しいの。少し手前のお部屋にいらっしゃる、ケイレブ大臣のメイドさんたちって、一目でわかるでしょう? 一目でどこのメイドさんかが分かった方が、私はとっても声をかけやすいのです。特に、頼み事をする時にね」

 

 イリア様の言い方から察するに、どうやら何度か間違えて声をかけたことがあるようだ。おそらく宮廷のメイドに頼み事をしようとした折に間違えたのだろう。きっと、その時にかなり恥ずかしい思いをしたのだろう。そうでなければこんなことを言ってはこない。

 それにしても、ケイレブ大臣といえば、宮廷でもお洒落で有名な人物だ。けど、使用人の服装までは僕はよく知らない。一目でわかると言われても、どこがどう違うのかピンとこない。

 

「派手じゃない色のね、柄付きのお仕着せだよね? あそこのメイド」


 僕が黙り込むと、アレス皇子が説明するように言った。

 皇子は昔から良く人を観察することに長けていて、服装なども覚えているが、まさか使用人の衣服についてまでも記憶しているとは、恐れ入った。

 イリア様がアレス皇子の言葉に頷いて、その先を続けた。

 

「それに、トリリア外相のところもですよ、ルカ。あそこは色は黒だけど、袖やエプロンの形が宮廷とだいぶ違ってわかりやすいの」

 

 イリア様はどうしてもレティシアのお仕着せを変えて欲しいんだろうが、僕はどうしたものかと悩んだ。

 

「ここのそのメイド服ってさ、フレデリカ家のと同じでしょ?」

「え? えぇ、そうですが……」


 特に直近でメイドを雇う予定はなかったら、メイド用のお仕着せは用意がなかった。だから城下にある実家の別邸からセオドールに持ってこさせたのだが、いけなかったのだろうか。

 アレス皇子が組んだ足を下ろし、両膝の上に両肘を乗っけて言った。

 

「フレデリカのそのメイド服ってさ、宮廷の形を模してるんだよね。知ってた?」


 知らなかった。アレス皇子は良くそんなこと知っているな。それにしても、メイド服って、このお仕着せはそんな名前なのか? そんなことを疑問に思っていると、イリア様に名前を呼ばれてレティシアを見るようにと促された。

 僕はレティシアに顔を向け、その横に立つイリア様の身振り手振りをじっと見る。

 

「ね、ルカ! 特にここよ。この肩紐にあるフリルね。宮廷のはこう、しっとり下方へ垂れ下がっているの」

 

 イリア様は侍女が吊下げているエプロンのフリルに沿って、右手を動かして見せ、その勢いを無くさぬままにレティシアの身につけているエプロンのフリルにも手を伸ばす。

 びくりレティシアが驚いて肩を震わせたが、イリア様に遠慮してか動こうとはしなかった。

 

「ほら、ルカ! レティシアが身につけてるのも、こう、ね? 垂れ気味でしょう?」

 

 イリア様の手元を追ってレティシアのエプロンのフリルを見ると、レティシアと視線がぶつかってどきりと心臓が大きく鳴った。しかし、フイ と、レティシアはあからさまに僕から視線を外し、衣装掛けに吊る下がる衣装に顔ごと向いてしまった。

 僕はそのあからさまな避け方に動揺し、わずかに震えた声でイリア様に返事を返した。

 

「え、えぇ、そうですね……そう……形はわかりましたが、しかし、イリア様……その、要は一新せよということですよね?」

「そうね。そうできたら良いけど……やっぱりもったいないわよね?」

 

 僕が一新しようとすぐに言わない理由を、イリア様は十分承知のようだ。

 質素倹約。以前ほどではないにしろ、宮廷ではまだまだこの標語が良く飛び交っている。そうしてこの先、その先頭に立つのはアレス皇子と僕らだ。形がどうのこうのという理由だけで、まだ使える衣類を一新するのはよろしくない。だいたい、レティシアが今着ている物はまだ袖を通して一月(ひとつき)も経っていない新品だ。標語がなくともおそらく僕は躊躇っただろう。

 僕が難しい顔をしていたからか、イリア様が僕の顔を覗き込むように首を傾げて見て、少しだけ(おど)けた口調で提案をしてきた。

 

「ですからね、今着ているのを少しだけ、仕立て直したらどうかと思っているの」

 

 イリア様の言葉にレティシアが「え?」と不安げな顔をした。それは、(かたわら)の裁縫師が測り紐を指で持ち上げ、採寸するような動きを見せたからかもしれない。

 

「あとちょっと、裾上げしてあげたらどうかなってさ。これは僕の意見ね」

 

 アレス皇子がレティシアの足元を覗き込むように見て言ったので、レティシアは更に不安な色を顔に浮かべて身を後方へのけ反らせた。

 アレス皇子はレティシアの様子に、()()()()()を与えたと思ったのか、身を正してレティシアに向けて咳払いをし、言い直した。

 

「今のままだと動き辛いんじゃないかとね! ほら、最近よく動くでしょ? まぁ短くって言っても、宮廷の使用人だから極端にはできないけどさ。ブーツの縁が見えないくらいまでだったら裾上げしてもいいんじゃないかなって」

 

 なるほど。アレス皇子はレティシアの剣の稽古について気を使ってくれたわけか。彼女を疑っているという割には気がきくことを言う。

 この間の立ち回りを見るからに、レティシアは今のままでも十分に動けるとは思うが、つま先に布が当たらない方がやはり楽だろうか? なにぶん僕はスカートを履いたことがないからまったく想像がつかない。

 僕はレティシアに尋ねてみることにした。

 

「レティシアはどう思いますか? 裾が少し短いだけでも、動くのは楽になりますか?」

 

 尋ねてみると、レティシアは困った顔をして考え込んでしまった。しかし、そう長くは考え込まなかった。おそらく自分の答えを全員が待っているとわかっていたからだろう。すぐに顔を上げて答えを返した。

 

「そうですね……少しでも、短い方が動くのは楽でございます」

 

 レティシアの返答を聞いたイリア様の顔が明るくなった。

 

「ならお直しは決まりね! ところで、レティシアは何枚変えを持っているの?」

 

 首を傾げて尋ねるイリア様に、レティシアは頭を下げ気味に答える。


「今着ている物と合わせて、二着でございます」

「あら、そうなの?」

 

 レティシアの答えを聞いて驚いた顔でアレス皇子を振り返るイリア様に、アレス皇子は軽く右肩を上げて見せて答えを返した。

 

「そんなもんだよイリア。宮廷でも普通の給仕に支給するのは二着だし。ちなみにエプロンも二着だよ。汚れ仕事用のと普段用のと」

 

 備品についてまで詳しいとは、もしかして過去に何かの理由で調べたことがあるのだろうか。

 アレス皇子はさらに続けて言った。

 

「ちなみにね、イリア。その襟と袖の白い部分は外せて取り替えられるんだよ」

「まぁ、そうなの?」

 

 アレス皇子が指さしたレティシアの襟もとを見て、イリア様が興味深げに背伸びをして覗き込んだ。その姿を見た裁縫師が、ささっと動いてどこから取り出したのか、取り外し可能な襟をイリア様の目の前にぶら下げてにっこり笑う。

 

「イリア様、宮廷の物はただの詰襟でございますから、このように、折り曲げ式の襟にしたらどうでございましょうか?」

「まぁ、可愛い!」

 

 今まで黙っていた裁縫師が、ここぞとばかりに襟について助言を始めた。

 イリア様は裁縫師が取り出す色々な形の襟を、レティシアの首元に当てて見ては「これかしら、こっちも良いわね!」と悩み始めた。

 

「これは、どこにどうついているの? ボタン?」

「そ、そうでございます。ここにボタンが……」

 

 襟を当てながら疑問をぶつけるイリア様に、レティシアが自分の襟もとを触りながら説明している。どうやら逃げられないと観念した様子だ。

 しばらくイリア様とレティシアたちのお仕着せ選びを見ていると、アレス皇子が僕を見上げて言った。


「ねぇルカくん。なんか飲み物ちょうだい」

 

 そうか、レティシアはイリア様に捕まっていてセオドールもいないから、給仕をする人間がこの場にいないのだ。お茶なんていくら待っても出てはこない。

 僕は仕方なく席を立って尋ねた。

 

「何が飲みたいんです?」

 

 そう尋ねると、レティシアが慌てた顔を向けてきた。けど、僕は首を横に振り、イリア様の相手をしろと視線で促す。レティシアはオロオロした様子を見せたが、僕の指示に従ってイリア様の元にそのまま留まった。

 アレス皇子が催促するように僕をもう一度見上げ、「水以外なら何でもいいよ」と付け加えるように言ってくる。

 僕は「わかりました」と返答しながらイリア様にも尋ねた。

 

「イリア様は?」

「私? 私はお水でも何でも良いわ。皆さんの分も用意してくださる? ルカ」

 

 イリア様の言葉にレティシアの顔が青ざめたが、僕は気付かぬふりをして「では持ってまいります」と頭を下げて居間を出た。

 レティシアにしてみたら、主人に全員分のお茶を用意させるなんてどうかしている……といったところだろうが、姫と皇子の言うことを聞くのは僕の仕事みたいなものだ。何せ僕は皇子に仕えているのだから。図式にせずとも単純明快な力関係だ。

 僕はさっさと台所まで行って、冷蔵庫を開けてみた。中は普段通り綺麗に片付いていて、片端にガラスのポットが入っている。手にとって匂いを嗅いでみると、冷やしたお茶のようだ。昨夜見た時には無かったから、おそらくセオドールが朝作ったのだろう。

 僕は戸棚から適当にグラスを取り出し、お茶を注いだ。そろいのグラスが四つしか無かったので、二つだけ別の物になってしまったが、まぁ良いだろう。

 僕はお茶をトレイに乗せて慎重に移動する。

 こうしてお茶を運ぶのは、一体いつぶりだろうか。扉を開ける時が少し怖かったが、なんとか倒さずに居間まで戻ってこれた。

 

「わ、それって白嶺(はくれい)茶じゃん? やったね!」

 

 アレス皇子の側に寄るや否や、皇子が立ち上がってトレイからグラスを取り上げた。急に重みの少なくなったトレイが左右に揺れて、僕は焦って両手でしっかりとトレイを掴み直す。

 

「イリアもちょっと休憩して飲んだら? この白嶺茶、けっこう甘みがあって美味しいよ」

 

 僕がわたつく横で、アレス皇子はごくごくと喉を鳴らしながらグラス半分まで一気に飲み干し、そのグラスを軽く掲げてイリア様に見せた。

 イリア様はどうしようかと悩む素振りをしたが、すぐにくるりとアレス皇子の方へと向き直り、小さな歩幅でこちらへやってきた。

 グラスに氷は入れていないが、冷蔵庫で十分に冷やされていたお茶は、外気と反応してグラスにしっとりと水滴をつけ始めている。

 イリア様はそれに気づいてポケットからハンカチを取り出し、グラスを包むようにして持ち上げた。何滴かグラスの底からトレイに水滴が落ちていく。

 

「お座りになっては?」

 

 立ちっぱなしでグラスに口をつけるイリア様に言うと、一口飲んでから「そうね」とクスリと笑った。

 アレス皇子とイリア様が並んでソファに腰掛けると、侍女がやってきて僕にトレイを渡すようにと促した。僕は侍女にトレイを渡し、自分の分のグラスを持ち上げて一人掛けに腰掛ける。

 

「レティシアも、少し休憩しましょう?」

 

 イリア様が半身振り返って衣装掛けの側にいるレティシアに声をかけると、振り向いたレティシアと視線が合った。しかし、またすぐに逸らされてしまった。やはり図書室でのアレが原因だろうか……。

 侍女が裁縫師とレティシアにもお茶をすすめ、それぞれがグラスを手に一息つき始める。

 一口二口(ひとくちふたくち)とお茶を飲み込む。

 午後のゆったりとした時間を彷彿(ほうふつ)とさせるが、今はまだ正午前だ。そんな時間の取り違えを覚えるのは、バルコニーからの日差しが(かげ)り始めたからだろう。きっとこれからまた雨が降り始めるのに違いない。

 

「ねぇ、あなたたち、何かあったの?」

 

 バルコニーを眺めていると、ど直球な質問がイリア様から飛んできて、思わずむせ込んだ。その弾みで飲み込もうとしていたお茶が気管の変な場所へと侵入し、ゴホゴホとよけいにむせて酷く咳き込む。その様子を見ていたレティシアが、慌てた様子でどこからか手ぬぐいを持ってきて僕の前に差し出した。

 僕はそれを素早く抜き取るようにして口元まで持っていき咳を塞ぐ。

 

「間違いだったからしら? だとしたらごめんなさいね」

 

 イリア様はむせ込む僕と心配するレティシアを見て小さく肩をすくめた。

 始めほどではないが、まだむせ込み続ける僕の横で、レティシアはどうしようかとワタついている。一瞬背中をさすろうとする素振りを見せるが、躊躇うように手を引っ込めてしまった。

 咳がだいぶ治まってくると、アレス皇子がイリア様に尋ねた。

 

「メイド服については終わったの? イリア」

 

 アレス皇子の問いかけに、イリア様は小さくこくりと頷く。

 

(おおむ)ねは。あぁ、そうだわ! レティシア、変えの一着を持ってきて下さる?」

 

 レティシアはどうしたら良いかと僕を見下ろしてきた。僕は手ぬぐいを口に当てたままチラリと彼女を見返して、二度頷いて見せる。

 

「持ってまいります」

 

 僕の許可を得たレティシアが、足早に居間を出て行く。

 レティシアが出て行くのを見ていたアレス皇子が、イリア様を見て再び尋ねた。

 

「頭につけるやつは良いの?」


 侍女の頭に乗っている布の帽子を指さすアレス皇子に、イリア様がクスリと笑って答える。

 

「それは今のとは別に用意するつもりよ。ちょっと試したいことがあるの」

「試したいことって?」

 

とアレス皇子が聞き返すと、イリア様はグラスの縁で口元を隠して「それは内緒」と小さく笑った。アレス皇子は「フゥン」とつまらなそうに喉を鳴らしたが、そこまで重要視していないのか簡単に引き下がった。

 

「他に用事がないのなら、メイドちゃんから変えを受け取ったら戻ろうか」

「えぇ、そうね。そうしましょう、アレス」

 

 イリア様の返事があってから数分して、レティシアが変えのドレスとエプロンを手に居間へ戻ってきた。

 綺麗に畳まれたそれらを、侍女が受け取り衣装掛けに吊ってあった布製の鞄に丁寧に仕舞い込む。

 

「じゃあルカくん、そろそろお(いとま)するよ。お茶ごちそうさま」


 アレス皇子がソファから立ち上がると、イリア様も同じように立ち上がって、少しよれてしまったドレスの裾を丁寧に直した。

 レティシアが居間の扉に向かい、退出の準備が始まる。

 侍女と裁縫師が持ってきた衣装掛けを運び出し、その後にイリア様が続く。

 

「突然ごめんなさいね、レティシア。もしお仕事が滞ってセオドールに叱られたら、私のせいだと言ってね」

 

 廊下の扉付近で会話するイリア様とレティシア。レティシアは「そんな、とんでもございません」と頭を下げて首を横に振っている。

 僕が思うに、イリア様のことだ、ダートか何かでセオドールには今日の来訪を告げているだろう。だからレティシアが怒られることはないはずだ。

 

「あ、それとルカくん、僕は明日から二日間は外の視察だから、不在の間はよろしくね」


 廊下に出ていくイリア様の後に続こうとしていたアレス皇子が、急に足を止めて振り返った。

 僕は危うく前につんのめりそうになったが、なんとか(こら)えてアレス皇子を見上げる。

 

「えぇ、承知しています。そちらもお気をつけて」

 

 定型文のような見送りの言葉を口に出すと、アレス皇子は面白くなさそうに鼻を鳴らし、ズボンのポケットから何かを取り出して僕の左手に無理やり握らせた。

 

「あとそれ、捨てといてくれる?」

 

 左手を軽く開くと、二つ折りに畳まれたくしゃくしゃになった紙切れが見えた。

 僕は思わず顔を上げる。

 

「さ! イリア、お昼ご飯を食べに行こう」

 

 さっさと僕に背を向けて、イリア様の背中を押すアレス皇子。その表情に変化はない。

 僕は横目で左手の中にある紙をチラと見やる。

 紙に書かれた文字が、僕の思考を全て支配している。

 

〝黄金の蝙蝠は味方か?〟

 

 なぜ今、そんな問いがよこされたのか、今この場でアレス皇子に尋ねたい気持ちが込み上げる。しかし、それを出来ない理由がある。

 この質問を出してきたのは、今だからなのか?

 一つだけはっきりしているのは、僕は当面、この言葉を引きずり、存分に悩むことになるだろうということだけだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ