副官サマと刺客 前編
西区から戻った翌朝、ルカ様は再び高熱を出された。
セオドール様も私も、一日しっかり休むべきだと意見したが、ルカ様はそれを聞かず執務室に赴いてしまわれた。
セオドール様いわく、高熱が出たのは〝ちょっと酷い風邪〟が原因なのだそうだ。魔力についてはもうすでに回復しているとのことだった。しかし、風邪だからと言って大丈夫ということはない。途中で倒れでもしたらと思うと心配でならない。
「はいはい、レティシア。考え事は後にして下さいね」
台所でぷりぷりと怒りながら薬湯を煎じていたセオドール様が、ゴブレットにドロドロとした液体を注ぎながら言った。
もう少しで昼食時。おそらくこの見た目の悪い薬湯はルカ様の物だろう。
「まったくルカ様には困ったものですよ。仕事が立て込んでいるといつも休んで下さらない。今回は完治に二日三日は要しそうですねぇまったく。あぁ、本当まったく」
嫌味と共にゴブレットにたっぷり注がれた薬湯からは、とてつもなく苦そうな匂いがしている。
セオドール様が引き出しから小さな袋を取り出して、中身をひとつまみパラパラと薬湯に落とした。
「それは?」
「私の内緒のお薬です。さて、こぼさないようにお願いしますよ。ルカ様はいつもの執務室にいらっしゃると思いますので」
小さなトレイにゴブレットを乗せたセオドール様は、私にスッと差し出した。
私はテーブルの上からトレイを拾い上げ、左手に乗せる。
「あぁ、冷めてはいけませんので蓋をしましょうかね」
踵を返しかけた私にセオドール様が言って呼び止め、引き出しから小さな蓋を取り出してゴブレットに乗せた。
湯気が遮られたことで、立ち上る苦い匂いがわずかに減った。これならば、廊下で嫌な顔をされることはないだろう。
「では、よろしくお願いしますね」
にっこり微笑むセオドール様に頭を下げて、私はルカ様の元へと向かった。
居住区を出てまっすぐ進み、政務区へと足を踏み入れる。
ピリリと張り詰めた空気感が漂うここは、行き交う人たちも皆そんな空気を纏っている。来たのは初めてではないが、まだまだ慣れない場所だ。周囲の緊張をもらってついつい身が引き締まる。
ルカ様がおられるはずの執務室は、この政務区の中央にある。
「何か?」
執務室の前まで来ると、目つきの鋭い兵士が声をかけてきた。
扉の両側に一人づつ立った兵士は他と服装が違う。きっと特別な護衛官なのだろう。
私はゴブレットに視線を少し落として言う。
「ルカ様へ薬湯をと、セオドール様より言付かりました」
「確認を」
反対側の兵士が言うと、私に声をかけた護衛官が扉の中へ入っていった。少しだけ空いた扉の隙間からくぐもったやりとりが聞こえる。すぐにチャリチャリと腰に下げた剣の音がして、護衛官が戻ってきた。
「どうぞ」
大きく扉を開けられて、中へ誘われる。
緊張しながら部屋に足を踏み入れると、正面にアレス皇子の姿が見えた。
遠目でしか見たことがなかった皇子の姿をこんなに間近で拝見できる日が来るなんて、なんて嬉しいことだろう。
「レティシア」
窓の外を眺めているアレス皇子に気を取られていた私に、ルカ様が呼びかけた。
私は慌ててルカ様の元へとゴブレットを届ける。
ルカ様の席はアレス皇子の机の右手にあり、その前は開けた空間になっている。
「セオドール様が薬湯をと」
トレイごと差し出すと、ルカ様はゴブレットに被されている蓋を少しだけ持ち上げて中身を確認した。
こもっていた苦い匂いが部屋の中へと飛び出す。
「熱冷ましですか?」
詳しくは聞いていないが、風邪薬だとは言っていた。ルカ様の症状を考えれば熱冷ましの効果も含まれているのだろう。私が頷くと、ルカ様は蓋をトレイに置いてゴブレットを持ち上げた。そのまま飲むのかと思ったが、鼻を近づけて匂いを確かめている。
「おいルカ、早く飲め。オレはその匂いがあんまり好きじゃない」
ルカ様の向かい側、アレス皇子の左側に机を持つルーイ様が、鼻を摘んで手に持っている羽根ペンの先をルカ様に向けた。
ルカ様はまだゴブレットの中身を分析したそうだったが、ルーイ様の表情を見て覚悟を決めたように薬湯を飲み始めた。
匂いだけでもかなり苦いのだ。飲んだらことさら苦いだろう。
徐々に眉間に皺の寄っていくルカ様を見ていると、こちらも口の中がだんだん苦くなってきた。
私は唾を飲み込んでルカ様から視線を外し、机の上を観察する。
適度に片付いてはいるが、忙しいからか、使い潰したペン先やインクを拭いた紙などがそのまま机の端に置いてある。こういったものに目がいくと、ついつい捨てたくなってしまうのは性分だろうか。
「何か気になる箇所でも?」
薬湯を飲みながらルカ様が私を見上げた。
なぜそんな事を尋ねるのだろうと首を傾げると、ルカ様が目の前にある少し大きめの紙を指でさした。
まだ乾いていていないインクの乗るその紙は、どうやら西区の整備表のようだ。
机の上を見ていた私が、これを見ていたのだと思ったのだろう。
私は首を横に振って半歩後ろに下がる。
政務官の仕事にメイドが意見するなどあり得ない。
「言いたいことがあるのならば構いませんよ? あなたは西区の出身ですし、僕より詳しいでしょう? 参考になるかもしれませんから臆せず言って下さい」
そもそもが誤解なのだというのはもう言えない空気だ。
私は机の上の整備表をじっと見つめて考える。
そういえば、西橋周辺の下水が人口が増えたことで溢れ気味だと誰かが言っていた気がする。
確かに、久しぶりに訪れた西区は、私が宮廷に上がった時よりも人が増えていた。
知らない住宅も何軒か建っていたし、公共の設備である下水管や水道管は前のままではいささか心許ないだろう。台所で使う火や夜用の灯りに使用する魔石も、もしかしたら蓄えを増やしたほうがいいかもしれない。多くの人は国が提供する公共の魔石を定期的に交換して使用しているのだから……あと気になるところといえば、西橋の土手だろうか。
大きな川の上にある西橋。その両側の土手は広くなだらかだ。そんな土手を、夜半に転がり落ちる者が多い。これは付近に飲食店が増えたことが原因で、転げ落ちていくのは酔っ払いがほとんどだ。水門で調整された川の水位は少なく溺れることは滅多にないとは思うが、怪我人は出る。父たちが寄り合いで飲食店が並ぶ箇所だけでも防止用の手すりか柵を作るべきかもしれないと言っていた。
そんなことを思い出しながらルカ様に言うと、ルカ様は頷いてゴブレットをトレイの上に戻した。
中身は綺麗に空になっている。
「なるほど。やはり下水は気になっているんですね。土手に手すりというのは、少し考えてみましょう。参考にします。ありがとうレティシア」
改まって礼を言われるとこそばゆい。私は顔ごと視線をゴブレットに向けて蓋を被せた。
「今日は早めに戻るようにすると、セオドールに伝えてください。それと薬湯はあまり色々と混ぜないようにと」
ルカ様は整備表を眺めながらそう言って、ペンを持ち仕事を再開した。
私は頭を下げて静かに廊下へと向かう。
扉の前で一度止まり、室内に向けてもう一度ゆっくり礼をして外へと出る。
護衛官にも頭を下げて廊下を歩き出すと、肩から緊張が抜けて変な脱力感に見舞われた。
こういうことも、慣れなのだろうか。
* * *
レティシアが去っていく中、整備表についてあれこれ考えていた僕はちょっとした満足感に浸っていた。
レティシアは僕が考えていたよりもずっと使える人間のようだ。
過度に意見を言うこともなく、そつなくまとめて現状を伝える。それができる者は意外と少ない。
自分が新しく雇った人間が有能だとわかるのは、かなり心地の良いものだ。
それにしても、酔っ払い対策の手すりというのは考えになかったな。普段から落ちる人間がいるということだし、夏至祭で賑わう中で押されて落ちる可能性はかなり高くなるだろう。きっとこういうことは西橋の川だけではなく、高低差のある場所でも起こりうるはずだ。予算はまだ残っているようだし、夏至祭の時だけでも簡単な柵を配置してもいいかもしれない。あとで議題に上げてみよう。
あれこれと考えていると、コツリと頭に何かが当たって机の上に落ちた。
机の上を見ると、丸められた紙屑がコロコロと揺れている。
「ニヤニヤしちゃって」
声の方を向くと、アレス皇子がそれこそニヤニヤした顔つきで僕を見ていた。
「あれがルカくんが雇ったメイドちゃん? なんだか良い拾い物だったみたいだね〜?」
興味ない——— と言った素振りで窓の外を眺めていたのはやはり演技だったか。僕からしたら逆光なのに、アレス皇子の目はきらりと光っている。
早く紹介してほしという思いがもろわかりだ。
「そうですね。良い拾い物でしたよ」
「なにそれ! 僕のとこからとってったんじゃない!」
「殿下が拾い物って言ったんじゃないですか……」
「使えそうなら返してよ」
「え? 今更ですか? 嫌ですよ。せっかくセオドールも気に入っているのに」
だいたいアレス皇子の所と言っても、明確に言えば皇帝陛下の所だ。だから、アレス皇子が返せと言うのは筋が通らない。何せまだ戴冠前なのだから。
「使えるメイドなんて、良いねぇ」
真向かいからルーイが言いながら背伸びをし、背もたれにゆったりと背を預けた。その顔は、アレス皇子同様にニヤニヤしている。
僕はだんだん頭が痛くなってきて、二人から視線を外して整備表に意識を戻した。これだけでも部屋に戻る前に終わらせておきたい。無視するのが妥当だ。熱のせいでただでさえ頭がぼーっとしていて進みが悪いのに、二人の会話に巻き込まれたら時間が無駄になってしまう。
「ちょーっとくらい聞かせてくれても良いんじゃないの? そのメイドちゃんについてさ」
アレス皇子がささっと自分の椅子から立ち上がり、さかさかと素早く僕の机まで動いてきて、僕の右側に積んであった書類に雪崩を起こした。そうしてニヤニヤの止まらない顔で僕を見上げてくる。
「それ、まだ署名していないやつなので丁寧に扱ってください」
雪崩の傍で頬杖をついているアレス皇子を睨むが、アレス皇子は怯みもしない。
「まぁまぁ、聞かせてやれよ。そうすりゃ大人しくなるって」
椅子ごと僕の机の真向かいに移動してきたルーイが、アレス皇子同様に僕の机に頬杖をついてにっこりと作り笑いを浮かべた。ご婦人方相手に良く浮かべている外向きの笑みだ。
「何を聞かせろと言うんですか?」
僕は整備表に書き込みながら二人に尋ねる。
本当は僕のメイドの話なんて聞かずに仕事を進めて欲しいが、それを言ったところでこの二人は引かないだろう。
「西区出身の優秀なメイドってのは、そんなに育った地区について耳ざといものなのか? オレの所のメイドなんて実家の近所くらいしか知らないぜ?」
「ルーイ、それは君のところのメイドが単に興味がなかったからじゃあないの? 宮廷のメイドはめっちゃ色々知ってるよ?」
アレス皇子がルーイに言うと、ルーイは「そうか?」と片眉を上げた。
「それにほら、ルカくんのメイドちゃんの実家はパン屋なわけじゃない? 地域の会合とかも出てるだろうし、色々耳に入ってきてもおかしくないじゃん?」
「ずいぶんと詳しいじゃないか、アレス皇子」
本当にお詳しいですね、アレス皇子。
僕に聞く必要なんてないんじゃないかと思う。
僕はレティシアの実家がパン屋だなんて言った覚えはない。西区出身という情報を先ほど初めて明かしたくらいに、この二人には何も教えていない。
「お兄ちゃんは騎士団だっけ?」
前髪をいじりながら言うアレス皇子に、僕は手を止めて顔を向けた。
「お調べになったのならば、僕に聞く必要はないのでは?」
アレス皇子がする身元調査は抜かりがないだろう。多分、ルーイも調べてあるのだと思う。なら何故、僕に問いかけて来るのか。何か気になるところでもあるのだろうか。
ルーイが僕の顔を見ながら腕を組んだ。
「騎士団って言っても、黒騎士団だろ? 今頃は北の僻地で調査中だ。妹がおまえに雇われたってのは知らないのかね?」
それを知ったところで兄が何かするとでも言うのか? 雇用主が変わることは良くあるし、給料や待遇は前より良いのだから問題ないだろう。パン屋の父親は特に突っ込んで聞いてこなかったし。
「パン屋のお父さんは傭兵あがり、遠方に旅に出ているお母さんはうちの元宮廷魔導師、なんだか不思議な組み合わせだね」
「ご懸念はわかりますが、僕もあらかたは調べてありますよ? 問題ないはずです」
アレス皇子の言い方は気に食わないが、心配してくれているのは伝わる。だが言った通り、調べてある。
普段なにかしら問題があれば言ってくる鼻のきく部下も、特に何も言ってよこさなかった。レティシアの身辺にはアレス皇子が懸念しているような脅威は無いはずだ。
「報告書の内容に空白が多いのに、おまえは気にならないのか?」
ニヤニヤしていたルーイが眉根を寄せて真顔になった。
こんな心配げな顔を見せられるだなんて思っていなかった僕は、面食らって思わず書き物の手を止めた。
僕はアレス皇子の顔も見る。こちらはルーイほど心配してそうには見えないが、どこか疑いを持っている顔つきだ。
「二人とも、何がそんなに心配なんです?」
羽ペンをペンたてに戻し、僕は机の上で指を組む。
ニヤニヤしていた先ほどの顔つきからは全く別の方向へ話が進んでしまった。もっと下世話な内容かと思っていたのに、思わぬ展開だ。
「両親の肩書は明白なのに、彼らの経歴はほぼ白紙でしょ? 父親の傭兵って仕事は確かに経歴をつけるのは難しいのはわかるよ。けどさぁ、ネレストリアでの活動だけ明確になってるってのがちょっとね。冒険者ギルド関係だってことだけど、あんなことがあったあとだし疑いたくなるじゃない? それと母親の元宮廷魔導師っていうのも、禁名になってて実績や業績はまったく調べがつかないし? そもそも二人ともどこの国の出身かも定かじゃないじゃない。それでいて、子供二人は優秀なわけでしょ? 兄は黒騎士団だからめっちゃ強いだろうし、メイドちゃんはあれでしょ? ソレーユが構ってたくらいだから仕事はできるわけじゃん? セオドールも気に入ってるならかなりでしょ?」
「オレはソレーユからは勤務表やら計算作業も手伝ってたって聞いたぞ? 耳ざとく余計な言動は慎み、上司や同僚にも気に入られるが存在感は薄いって。メイドの基本だからと言えばそうだが、これで腕でも立てば疑いたくならないか?」
まぁ、そうだな。二人が疑うのはわからないでもない。けど、何故二人がここまで疑いを持つのか僕にはまったくわからない。
「お二人は、どうしてそこまでレティシアを疑っておいでで?」
おそらく僕の持っている情報は二人と大差ないだろう。いや、一つだけあるか。
レティシアの腕が、そこそこ立つのではないかということだ。
最初の夜、レティシアは僕の錫杖を素手で制止した。咄嗟の判断だろうが、素人ができるものではない。きっとそのことを話したら、この二人は完璧にレティシアを監視対象に入れるだろう。絶対に言えない。
「別に君の目を疑っているんじゃあないよ? けどさ、どうにも慎重になっちゃうじゃない」
戴冠式のことを言っているのだろうが、それならばなんで僕がレティシアを雇った時に言わなかったのか。
彼女を雇ってもう二週間だ。二人とも調べたのはもっと前だろう。それを今更? それとも視察が終わるまで待っていたとでもういうのだろうか。視察と称して監視して、泳がせていたとでも?
「ま、別に、オレは騙されたら騙されたで仕方ないって思うけどな。世の中は女の方が上手にできてるんだから」
「その意見には賛同しかねるけど、いちよ忠告はしとこうと思ってさ。僕は夏至祭後にあるルチアーノ公の夜会までに何かあったら嫌だからね」
遠回しに要らぬ種を増やすなと聞こえるのは、体調のせいで考えが憂鬱になりがちだからだろうか。だが、まぁここは、心配をありがたく受け取っておこう。
「わかりました。身辺には気をつけます。彼女についてはセオドールと様子を見ることにしましょう」
それでいいですか? と二人を交互に見ると、二人は小さく肩をすくめて見せた。