副官サマの城下視察4
夕食を終えて簡単に寝支度をしていると、洗面所から戻ってきたルカ様が眉をひそめて尋ねてきた。
「あなたもここで寝るんですか?」
私はうなずいて壁向こうにある部屋を指差す。
「兄の部屋を使おうと思ったのですが、不幸にもベッドがカビておりました」
この季節には良くあることだ。近くの森から強風に乗ってやってくる浪々菌というとても繁殖力の強いカビ菌が、しばらく使っていないベッドや服で繁殖してしまう。
換気や掃除がそれなりにできていれば問題ないのだが、兄は任務でだいぶ前から北の僻地に行っていて、父もおそらくそんなに頻繁に換気をしなかったのだろう。先ほど覗いたら目も当てられない状態になっていた。
「お父上の部屋は?」
「父の部屋はカビこそ生えておりませんが、もう一人が横になれる場所をすぐに作るのにはとても……」
服やら手拭いやらが床を占領していて、片付けるのには数時間かかるだろう。きっとそんなことをしているうちに朝になってしまう。
「台所はパンの仕込みで埋まってしまいますし、埃が売り物についてもいけませんので、寝るのにはちょっと……。私はここに椅子を並べてその上で寝ますので、どうかお気になさらず」
同じ部屋で寝るのはなんだか変な感じだが、外で寝るわけにもいかないので仕方がない。
「あなたがそう言うのなら良いですが……なんだか申し訳ないですね。僕が元気ならベッドを譲るべきでしょうに」
申し訳なさそうな顔をするルカ様に、私は首を横に振った。
「いいえ、ルカ様。私は使用人でございます。そのようなお気遣いは無用です」
「……そうですか?」
複雑そうな顔をするルカ様だが、なぜそんな顔をされるのかわからない。
ルカ様はこれ以上この話題に留まるのは良くないと思ったのか、少しだけ自分の前髪に触ってから話題を変えた。
「そうそう、先ほどセオドールに明日の朝戻る旨をダートで伝えたら、来た時に降りた場所に馬車を待たせておくと返信がありました」
ダートは、魔導師が良く使う通信手段だ。ダーツのような形をしているが針はなく、代わりに楕円形の魔石が付いている。
「いつ頃ここをお立ちになる予定ですか?」
「そうですね……馬車が八時前後と書いてありましたから、七時ごろに出れれば良いですね」
「どこかお寄りになるご予定が?」
中央区の境までは近道を使って三十分強。一時間も前に出る必要はない。
「隠した石を回収したいと思いまして」
そういえば、ルカ様に言われて料理店の茂みに石を隠したのだった。取りに戻ると言うことは、何か重要な石だったのだろうか。
「あれを街中に放置しておくのは良くないですからね」
「それならば、今取りに行きましょうか?」
そう尋ねると、ルカ様は少し考えてから「いいえ」と首を横に振った。
「朝まで雨でしょうし、止めておきましょう。まぁ、あの場所であの石の存在に気付いていたのは僕くらいでしょうし、盗まれることもないと思いますから」
ルカ様がそうおっしゃるのであれば、従うほかはない。
ルカ様がベッドに腰掛けて「ふぅ」と息をついた。そうしてベッドサイドにある棚から水の入ったカップを取りあげて一口飲み込む。
「そうそう、以前に渡した僕の昔の日記、読みましたか?」
さも普通の会話だと言わんばかりの投げかけをされたが、私はどう答えようか少しだけ悩んだ。
雇われるきっかけになった日記を、読んでいるとすぐに頷くのをつい躊躇ってしまう。まだ詰問された記憶が薄れないからだ。
頭にその時の記憶が蘇りかけて、私は慌てて大きく首を縦に振り、蘇りかけた記憶をかき消して、「夜に少しずつ……」と読んだことを肯定した。するとルカ様は少しだけ微笑んで、さらに尋ねてきた。
「どのあたりまでです? まだ東の帝国ですか?」
「はい。東の帝国のギルドで冒険している時の……」
あの夜強烈な体験をさせてくれた日記の内容について、まさか話をする日が来るとは思わなかったが、きっとそれはルカ様も同じだろう。
自分の日記の内容を他人と共有し話題にあげることになるなんて、思わなかったはずだ。
「四大国家の一つに、まさか公的な訪問以外で訪れることになるなんて夢にも思いませんでしたけど。まぁ、今となればそれなりに楽しい思い出ですね」
何を思い出しているのか、今までで一番穏やかな顔をしている。
東の帝国――― ネレストリア帝国は、東の大陸を統べる国で、私たち西の帝国に匹敵する規模を持っている。そうして、四大陸と同じ名を持つ四大国家は、その大陸を統治していると言っても過言ではない。
大陸と同じ名を持つことは、その力の強さを表しているのだ。
東のネレストリア、西のアストラル、南のアルスウォルトに北のウィレンティア。今でこそ平和な時代だが、過去には海を跨いで壮絶な争いがあったと言う。
そういえば、東の帝国はここ何年か前に反乱軍に政権を奪取されたことがあった。もしかして、ルカ様はその時期に訪れていたのだろうか?
「アレス皇子の破天荒ぶりには色々困りましたけど」
クスクスと思い出し笑いをするルカ様は、懐かしそうに目を細めてぼんやりとカップの水を眺めながら先を続けた。
「風の精霊に愛された国とは聞いていましたが、ネレストリア帝国はとても綺麗でした。この大陸とは違う多様な植物は興味をそそられたし、景観だって色彩にあふれて美しかった。四季折々の景色はきっとどの大陸にも勝るでしょうね」
「アーエンハイムよりも四季が豊かなのですか?」
西の大陸で一番緑にあふれて四季が豊かだと言われている国、アーエンハイム王国。子供の頃に何度か家族で訪れたあの国は、とても美しかった。
「アーエンハイムも美しい国ですが、やはりネレストリアには負けますね。西の大陸は四季のうち二つがとても短いですから」
夏と冬が長いアストラルは、秋の次に春が短い。大陸の各所でもその長さは違うが、他大陸と比べるとその差は明らかだ。
色とりどりの植物が咲くのは大抵春から夏至にかけてで、夏至を過ぎるとあっという間に質素な色味に戻ってしまう。
「気候や気温が安定しているというのもとても良かったですね。過去、四大陸で争奪戦が起こったのも頷ける」
ルカ様の話からして、ネレストリアはとても大地に恵まれているのだろう。
西の大陸は夏でも夜は冷え、秋ともなればすぐに冬のような冷たい風が昼間でも吹いてくる。だから育つ作物や植物の種類はそんなに多くはない。
南や北に行くとそれはもっと極端になると幼い頃に学舎で習った。
南の大陸は昼夜の気温差が非常に大きく、また砂漠地帯が多いため、人の住める地はアストラルやネレストリアに比べると非常に少ないそうだ。そうしてそれよりも土地が限られるのが、北の大陸だという。
高低さが激しく崖が多い土地には、春と初夏を除いてほぼ降雪がある。その地面から雪が消えることはないと、母から話を聞いたことがある。
「レティシアは他の大陸を見たことは?」
「いいえ。学舎で習ったものと、父や母から聞いた話の知識だけでございます」
「帝国城下から出たこともないですか?」
「アーエンハイム王国には子供の頃に何度か」
「へぇ。家族で?」
「さようでございます」
そういえば、訪れた何度かは母の仕事の関係だったような気がする。どういった仕事かはわからないが、城下散策はいつも兄や父としていた。
ふと気づくと、ルカ様はいつの間にかベッドに横になっていた。
青ざめていた頬にうっすら赤みが帯びている。体温が戻ってきたのだろう。
「寒くはございませんか?」
ほんの二週間前に訪れた初夏はもうそろそろ終わりを告げる。夜間、肌に纏う冷気には鋭さが増した。
ルカ様は足元の毛布を手繰り寄せて肩までしっかりと入ると、しばらく暖を取るようにじっとしてから答えを返した。
「この毛布で大丈夫そうです。お気遣いありがとう」
とろとろと降り始めたルカ様の瞼。
ぼんやりとした薄い水色の瞳を長い睫毛が隠す。
きっとまだ疲れているはずだ。雨の中を視察するだけでも疲れるだろうに、魔導師としても一仕事したのだ。魔力を急激に失うという経験はないが、倒れてしまった後の様子を見る限り、凄まじい疲労感があるのだろう。
ルカ様はすぐにぐっすりと眠り込んでしまった。私は床を鳴らなさいように気をつけて小棚まで歩き、灯りを消す。そうしてから、椅子の上に横になり毛布をかけた。
静かな寝息がする。
私は少しだけ不思議な感覚に包まれながら、見慣れた天井をぼんやり眺めた。
私が寝入るのにもそう時間は掛からなかった。どうやら私も、かなり疲れていたようだ。
翌朝早く、私とルカ様は父との別れも早々に、西橋の料理店を訪れた。
「本当にそこに置いたんですか?」
怪訝そうな顔で背後から覗き込んでくるルカ様に、私は静かに頷く。
確かに昨日、ルカ様に言われた通りに石を植え込みに隠した。目印になるようにと、植え込み用のランタンが置かれた葉陰の奥に押し込んだのを覚えている。
「魔力が乱される感じがしませんから、あの石はもうここには無いようですね」
そうルカ様に言われて、失くし物をしてしまった嫌な気分が頭に重くのしかかった。しかも、失くしたのはルカ様に頼まれた物だ。とても不甲斐ない気持ちになった。
「あの、少しお尋ねしますが、昨夜この辺りで何かありましたか?」
料理店から出てきた店員をルカ様が捕まえて話しかけた。
店員はルカ様を見て怪訝そうに眉を寄せたが、何かに気付いてパッと表情を明るくした。
「あ、昨日のお兄さんじゃないですか! 橋から落ちたの、大丈夫でした?」
「えぇ、彼女や運んでくれた方のおかげでこの通りです。それで、どうです? 何かあったか覚えていませんか?」
ルカ様は穏やかな声音で尋ねているが、その表情は柔らかくはない。まだ薄青い目元が調子の悪さを物語っている。
「うーん、何かって言われてもなぁ。お兄さんが柱に魔法かけた騒動くらいだったと思うけど……」
「その騒動のあと、この店に来たお客に魔導師はいませんでした? その魔導師たち、様子は変じゃありませんでしたか?」
店員は「うーん」と唸りながら考えていたが、「あぁ!」と目を見開いた。
「そういやぁ、夜に来たギルドの魔導師が、来るなりゲロゲロ吐きまくってたな。結局なんにも食べずに帰っちゃって。確か三組くらいだったかな。なんだろうなって他のやつと話した覚えがあるよ」
「なるほど。その三組目はいつ頃来たか覚えていますか?」
「え? そうだなぁ。二十二時かそこらかなぁ」
「それ以降は特に何もなかったと?」
「そうだね。昨日は深夜までやってたけど、確か一時くらいに来た常連の魔導師連中はいつもと変わらなかったよ」
「そうですか。では三組目のあと、この植え込み付近でうろうろしている人間はいましたか?」
ルカ様の質問に、店員が少し胡散臭そうな顔をした。
「いや、そこまではわからないね。お兄さんて宮廷魔導師なんだっけ? なんか調査してるのかい?」
尋ね返されたルカ様が、うっすら笑みを浮かべた。
「昨日あの時に落とし物をしましてね。どうもありがとうございました」
フードをかぶり直し、ルカ様が歩き出す。
私は後を追いながら尋ねかけた。
「もっと聞かなくて良かったのですか?」
「えぇ、あれ以上あの店員に聞いても情報は無さそうですから、良しにしましょう」
「昨夜働いていた他の店員や、来ていた客に話を聞くのは?」
「あとで配下に頼みますよ。僕らがあれ以上下手に質問をしても、変に疑われるだけでしょう? それに、隠した石が無くなったということは、あの石の用途を知っている人間が他に居たということです。まぁ、酔っ払いの仕業かもしれませんけど……ともかく、慣れない僕らが調べるよりも、調査に慣れている配下の方が早いでしょうから」
「そうでございますか……」
消えてしまうことがわかっていたら、やはり昨夜に取りに行けば良かった。そんな後悔が胸に滲む。
「レティシア・スプリング。あの石が無くなったのはあなたのせいではありませんよ。あまり考え込まないことです」
前を行くルカ様が振り向かずに言った。
気配で考えを読まれたのか、それとも魔法の類なのかはわからないが、それでも気遣いを感じる言葉に喜びの感情が沸いた。
中央区の境界まで来ると、城に戻るための馬車が止まっていた。
ルカ様の後に続いて馬車を上がる。
ルカ様は考え込まぬことだと言ったが、まだ気になってしまう私は一度だけ、西区を振り返って疑問を心で呟いた。
あの石は、いったい何処に行ったのだろう?