副官サマの日記帳 前編
新緑過ぎて、夏の気配を感じるようになったある日のこと。私は決して見てはいけない物を見てしまった。よりにもよって、数ヶ月後に新皇帝の戴冠式を控えたこの時期に、なんという失態を犯したのだろう。
私はスカートの上で重ねた両手をぎゅっと握りしめ、自身の軽率さを悔やんだ。
「読んだんですよね?」
普段よりもいっそう冷たく聞こえる声に、自ずと肩が震える。
目の前で私を畏怖させているのは、ルカ・ル・ラ・フレデリカ。このアストラル帝国の重鎮の一人で、次期皇帝の片腕と言われている副官様だ。
凍てついた目の白魔導師。
決して良いとは言えない彼の異名を、おそらくこの宮廷で知らぬ者は居ない。いったい誰がそう呼び始めたかは知らないが、実際にその目を見た人物であるということは確かだろう。
薄い水色の瞳。それは無機質で、まるで氷でできているかのように冷気を放っている。
まさに、凍てついた目だ。
直視することなんて到底出来ない。うつむいている今でさえ、背筋に冷気が這い上り、指先の熱が徐々に失われつつある。もしも視線を交わしでもしたら——— いいや、やめよう。そんな事を考えていても、現状は良くならない。
私は指先をこすり合わせ、今にもガチガチ鳴り出しそうな歯を強く食いしばった。
「どちらを見たんですか?」
ルカ様が冷ややかに尋ね、赤と黒、二冊の日記帳をゆっくりと順に指さして私をじっと見据えた。
ベッド脇に置かれた小ぶりの執務机。その上に置かれている二冊の日記帳。私はそれを眺めながらゴクリと喉を鳴らす。
ルカ様の二冊の日記帳。そのうちどちらを見たのか正直に言うなら、私は両方と答えなければならない。特に、黒い方の日記帳はけっこうな頁数を読んでしまった。
私は今は閉じられている日記帳の表紙をじっと見つめ、きゅっと唇を結ぶ。
見た、読んだ。そのことを認めたら、絶対にただでは済まない。
戴冠式の迫ったこの殺伐とした時期に、時期皇帝の副官様の日記を盗み見たなんて、どう考えても悪い結果にしかつながらない。しかも、宮廷に仕える使用人がそれをしただなどと……運が良ければお叱り・減給、良くて解雇、悪くて詰問、最悪ならば命に関わってくる。
「……黒い方に視線が長くありましたね。こっちは確実に読んだようだ」
ルカ様は日記帳に置いていた指をわざとらしくゆっくり持ち上げて、二冊の日記帳を机の端に移動させた。
なんてことのない一連の動作なのに、体中に緊張が走る。
「そもそも、メイドのあなたが何故ここに居るんです? 規則はご存じですよね? この宮廷では二十一時を回ってから、使用人が許可なく居室に入る事を禁じている。特に我々のような政務官の居室には——— そうでしょう?」
まったくもって仰る通りだ。
いらぬ醜聞が立たぬようにと、何代か前の皇帝が定めたこの規則。これは主に皇族と政務官の居室に適用され、緊急時以外は厳守しなければならい。
星明かり溢れる窓に、頼りなく垂れ下がる半開きのカーテン。そんな新人メイドのやり残した仕事がなければ、私はその規則を守っていたはずだ。いいや、違う。その規則を念頭において、断れば良かったのだ。たとえメイド長の頼みごとであったとしても。
私はカーテンを少しだけ睨みつけ、どう答えたら穏便に済むのか必死で考えた。
最低限、解雇は避けたい。
日記の件も無断入室の件も、言い訳をするつもりはない。ないけどしかし、今のこの状況で解雇を言い渡されたら今後どこにも雇ってもらえない。
規則を破り、副官様の日記帳を盗み見た使用人。そんな〝信用〟という二文字を欠いた使用人を、いったい誰が雇うというのだ。それに、家族にも迷惑がかかってしまう。
兄は帝国の騎士団員、父は城下街の小さなパン屋。宮廷の信頼を裏切って解雇された家族が居ると知れたら、彼らの評判もガタ落ちだ。
このアストラル帝国の民は他国よりも自国愛が強いのだから。
いったいどうすれば良い?
メイド長からの仕事でも、無許可で入室したことをルカ様は許さないだろうし、日記の件はどうあがいても穏便にはいく気がしない。
日記の内容が面白かったから、ついうっかり読んでしまいました! などと正直に言ったら、その瞬間に首が飛びそうだし……あぁ、あぁ! もう……、もう無理だ。
どんなに考えても良い案は浮かばない。それに、そもそも浮かんだところで私のつたない対話術ではうまく伝えられるはずがない。
私とルカ様の間には、充分すぎるくらいの沈黙が過ぎた。
苛立った気配が周囲に色濃く滲む。
「顔をあげて質問に答えたらどうです!」
声を荒げたルカ様は、怒りまかせにその手を伸ばした。
——殺される!——
と、そんな言葉が私の脳裏に駆け、思わずその手を払い退ける。
ゆっくりと宙を漂うルカ様の白い手。
あっ! と思わず顔を上げ、払い退けてしまったことに後悔を覚えた。
否応なく目に飛び込んでくるルカ様の表情。それはまるで人形の様に微動だにしていない。
普段通り寄せられたままの細い眉根に、静かに横に結んだ唇。頬も額もどこもかしこも、まったくもって普段通りで、廊下ですれ違う時と何ら変わりがない。ただ一点、目だけを除いては。
じっと私を捉えて離さない水色の冷たい瞳。そこにだけは、強い感情が宿っている。
凍てついた目のその奥にある苛立ちと怒り。そうしてそこに走る赤く冷たい光に、私は思わず身構える。
瞳に走った赤い光は良くないモノだ。
動かなければと本能が叫ぶ。
ルカ様が後退し、椅子に立てかけている錫杖を取り上げようとしている。
私はそれを阻止すべく、必死で錫杖の柄へと手を伸ばす。
この状況でルカ様に魔法を使わせてはいけない。
私は魔法が使えない。だから、魔法で何かをされたらもう逃げることは出来なくなる。
ルカ様が錫杖を持ち上げるのとほぼ同時に、私は錫杖の柄に手をかけた。
錫杖はピクリとも動かない。
私はほっとした。でも、周囲の気配はさらに悪化した。
冷気が増して、空気が重い。
「ただのメイドのとる行動じゃないですね」
ルカ様のその発言に、
——しまった!——
と、再び後悔した時にはすでに遅かった。
「あなた、本当にメイドですか?」
ルカ様の質問に冷や汗があふれる。
これは確実にまずい方向に進んでいる。
疑いの眼差しが身体中に刺さる。
ルカ様は私を内通者とでも思っているに違いない。
メイドにございます! ただのメイド以外の何者でもございません!
そう頑張って叫ぼうとしたが、言葉は口から出てこない。
ルカ様の殺気のこもった威圧的な目に恐怖心が一気に膨れ上がり、瞬き一つ出来ない。
私は錫杖を掴む手にぐっと力を込める。
もうこれだけが命綱だ。この錫杖を振らせなければ、もしかしたらなんとかこの部屋から逃げられるかもしれない。
「沈黙を続けると? ならば、仕方がない」
ふいに、ルカ様は執務机に視線を配らせた。なんだろうと釣られて視線を動かすと、錫杖を強く引かれ奪われてしまった。
なんでそんな簡単に奪われたのか、まったくわからない。
しゃらり と錫杖の杖頭に飾られた装飾が鳴った。その直後、息を吸い込むのがつらいほどに、体の筋肉が硬直した。
まるで凍てついた氷に閉じ込められたかのように、指先までピクリとも動かない。
幻惑魔法。それの一種にかけられたのだとすぐ悟ったが、気づいたところでもはやなす術はない。
ルカ様が動きを封じられた私に一歩踏み出し、唇を弧に吊り上げて静かに笑った。
「さて……あなたを答える気にさせるには、どうしたらいいのでしょうね?」
新しい玩具を与えられた子供のように、好奇心に満ちた顔。しかし、そこには冷ややかな殺気が渦巻いている。
鉄仮面——— とルカ様を呼んでいる政務官達が、今の彼を見たらなんと思うだろうか。
ルカ様は空いた手をあごの下に軽く置き、うーんと小首を傾げてわざとらしく悩んだ声を上げると、錫杖を軽く床につけて頷いた。
「そういえばちょうど昨日、うってつけの本を読みましたね」
クックッと喉の奥でおかしそうに笑い、もう一歩だけ私に近づいて一呼吸置く。
短い沈黙が妙な緊張感を漂わせ、みぞおちの奥がキュッと締め付けられる。
「頑固な内通者の口を割らせる方法が書かれた本なんですが、せっかくですから試してみましょうか?」
にっこり と細められた目。
自分が何をされようとしているのかすぐに理解できたが、再び伸びてきたルカ様の手を、今回は防ぎようがなかった。
胸ぐらを強く鷲掴みにされ、ルカ様との距離が一気に縮む。
さらりと揺れる色素の薄い髪から、ふわりと良い匂いがした。
蜂蜜に似た香りの甘い果実酒。
部屋に戻る前に誰かと飲んだのかもしれない。
「素直に話すなら今のうちですが?」
ほんの少しだけ柔らかい口調で言ったルカ様に、私の唇が小さく動く。
言えば良いのだ何もかも。
もう解雇でもなんでも良いじゃないか。今ならまだ命は助かるだろう。
けれど、そんな気持ちとは裏腹に、私は声も出せず微動だに出来ない。
そんな私を見て、ルカ様は小さく鼻で笑った。
「では、遠慮なく」
そう滑らかに唇を動かしたルカ様は、胸ぐらを掴んでいた手を離し、私のエプロンの紐を掴んだ。
しゅるり と結び目がほどかれる音が耳に響く。
「ル、ルカ様! 誤解でございます!」
駆け上るように私の羞恥心が声を絞り出した。
嫁ぐまでは一生生娘で通すのがこの帝国の古くからの習わし。今の時代にそれを真面目に守っている事は珍しいが、私は真面目に守っている派だ。
出来る事ならこの先も守りたい。
「何が誤解なんです? 無断で僕の部屋に入って、僕の日記帳を読んでいた。事実ですよね?」
楽しくて仕方がないと言った声音に総毛立つ。
ルカ様の手は会話中も休まず、給仕服のボタンに指をかけてくる。
私が事実を否定することができずに押し黙ると、ルカ様が囁くように言った。
「本当は日記ではなく、お目当ての書類があったんじゃないんですか?」
「いいえ! とんでもございません!」
「いいえと言うならば何故、僕の日記帳を読んでいた?」
グイと首の後ろを掴まれ顔を寄せられ、凍てついた目に射抜かれる。
心臓が止まりそうだ。
——返答次第では容赦しない。
貞操どころか命すら危うい。
目の前がチカチカする。
頭の中は真っ白だ。
ルカ様が私をベッドに突き飛ばし、掛け布ごと私の身が跳ねた。
冷気を背負って覆いかぶさってくるルカ様に、ギュッと目をつぶる。
魔法さえなければ、華奢なルカ様を跳ねのけることができるのに!
「ルカ様、ルカ様! お止め下さい! 無実でございます!」
頬に涙がつたう。
対抗手段がまったくない。それが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
頬につたった涙がポロポロとこぼれて掛け布に染みを作っていく。
ルカ様が息を飲んで手を止めた。
不意に軽くなる体に、私は飛び起きてベッドから這い下りる。
部屋の外へ、とにかく遠くへ。
そう必死で逃げる私に、ルカ様が何かを言ったように思えたが、私は構わず部屋を後にした。
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