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第一話

 それでは馬車が来るまでの間、私の身の上話を聞いて下さいませ。


 私は二十七年前、ペンファーザー侯爵家の三女として生を受けました。

 ご存知かも知れませんが、ペンファーザー家は七百年続く家柄で、王家との縁組も多い名門です。私もいずれ王族か高位の貴族に嫁ぐものとして、相応の教育を受けてまいりました。どこへ嫁そうともペンファーザーの女として、ペンファーザーにふさわしいふるまいをするように、とは死んだ母の口癖でしたし、私自身そうあろうと強く願っていたのです。


 ところが15になった春、私はひとりの男性と運命的な出会いを果たしました。

 彼の名はグレアム・ストラットン、私の家に出入りする成り上がりの商人です。


 グレアムは私の知っている殿方――父や兄や幼馴染たちとはまるで違っておりました。その浅黒い肌にがっしりした体つき、いたずらっぽい微笑みや、思いもかけぬ強引さ、きわどい冗談もなにもかも、当時の私にはこの上もなく新鮮で魅力的に映りました。


 また彼の方も私のことを「あんたは他の人形みたいな貴族の女とは違う生身の女だ」と言ってくれまして、私にはそれが大層誇らしかったのです。




 親しくなってから、彼は私をいろんな場所に連れ回しました。屋台で買い食いをしたり、下町の酒場で葡萄酒を飲んだり、芝居小屋で卑猥な踊りを見物したり。

 今思えば金もかからない実に安易なデートでしたが、籠の鳥だった私にはワクワクするような冒険でした。


「俺はあんたに生きた人間の世界を見せてやりたいんだ」


 グレアムは口癖のようにそう言いました。実際のところ、私にとって彼はまさに新しい世界を見せてくれるヒーローそのものだったのです。


 父からある王族との縁談を持ち出されたのは、そんな折のことでした。


「ごめんなさいお父さま。私にはすでに将来を誓い合った方がいるのです」


 私は父にグレアムを紹介し、当然のことながら猛反対を受けました。兄も姉も、叔父も叔母も、みながこの不釣り合いな結婚に反対でしたが、私の決意は揺らぎませんでした。

 そして私はペンファーザーの名を捨てて、グレアムの妻になったのです。


 



 幸いなことにグレアムの事業は順調で、侯爵家ほどではないにしても、なに不自由ない生活を私に約束してくれました。

 新居はかつて男爵家が所有していた屋敷で、すでに家具も揃っていました。それは派手なばかりの安物だったり、骨董風のまがい物だったりしましたが、その雑多で猥雑な感じが、かえって面白く感じられたものです。

 また用意された使用人たちは洗練された所作こそ身に着けていませんでしたが、みな温かくほがらかで、奥さま奥さまと私を慕ってくれました。


 思えばあれが私にとって一番幸せなときだったのかもしれません。

 様子が変わり始めたのは、結婚して半年ほど経ったころのことでした。


 


 最初のうち、私は仕事というグレアムの言葉を素直に信じておりました。しかしあまりに頻繁に家を空けるようになったことや、彼のまとう甘ったるい香水のにおい、そして寝言でアマンダと呟いたことでついに私は確信を得ました。

 彼は外で浮気をしていたのです。


 私は泣きながら彼をなじって責め立てました。今思えば実に愚かなことですが、当時の私は必死でした。

 対する夫は私に謝るどころか開き直り、「お前みたいなつまらない女はもう飽き飽きなんだ。貴族のお嬢ちゃんなんかより元踊り子のアマンダの方がよっぽど美人でいい女だ」と言い放ちました。

 そしてその後は堂々とアマンダを別宅に囲い、私の居る本宅には滅多に寄り付かなくなりました。


 そんなグレアムの態度に影響されたのか、あるいは彼からなにか言われたのでしょうか。使用人も次第に私の言うことを聞かなくなりました。いえそれどころか、いじめといっていいような、酷い態度を私にとるようになったのです。


 出される食事は冷たかったり、焦げていたり、わざと味付けを間違えたような酷い代物になりました。また日によってはそれすらも持ってこないこともありました。

 三度続けて食事を抜かれたことに耐えかねて、自分から厨房に行きますと、使用人たちは「ちょっとくらい待てないのか、うちの奥さまは豚のようにガツガツしている」などと聞こえよがしに悪口を言うのです。


 私が使っている部屋は別の用途に使うからという理由で、執事から狭苦しい屋根裏部屋に移るように言われました。ほとんど日も差さず、壁にはカビが生えているような部屋で、家具もろくにありません。


 また私だと浪費してしまうからという理由で、生活費はすべて私ではなく執事に渡されるようになったうえ、執事は私には一切お金を渡しませんので、私は新しい服を作ることも、ちょっとした小物を買うことすら出来ないようになりました。


 それでいて使用人たちは聞こえよがしに、別宅のアマンダさまはとても美しい上に気前が良くて、使用人に色々と心づけを下さるそうだ、自分たちも別宅に移りたい、こんなケチで辛気臭い奥さまのお相手をするのはうんざりだ、などと言うのです。私には自由になるお金なんてないことはみんな知っているはずなのに。


 たまにかえってくる夫はそれら全てを知っていましたが、けして彼らを叱りつけることなく、むしろ煽っているようでした。




 夫はそこまで私をないがしろにしながら、離縁する気はないようでした。


 なんでも奥方がペンファーザーの出だと言えば、商売で簡単に信用が得られるのだそうです。また街の女を口説くときも「お前は名門出の妻なんかよりよっぽどいい女だ」といえば喜ばれるし、悪友たちの間でも、貴族出身の奥方を面白おかしく冗談の種にすることで大いに盛り上がるのだとか。

 

 夫に利用するだけ利用され、使用人たちにはいじめられ、今さら実家に帰ろうにも、父や兄たちが許してくれるとは思えません。私にとっては地獄のような日々が続きました。


 

 しかしどんなことにも終わりというのはあるものです。

 そのきっかけになったのは、小物入れの奥から転がり出て来た小さな安ものの指輪でした。

 まだ優しい恋人だったグレアムに、下町で買ってもらった思い出の指輪。


「別嬪さんに良くお似合いだよ。安くしとくから買っとくれよ」


 そう言った相手はまだ十三にもならない赤毛の少女で、私は年下の少女が物慣れた様子で商売する姿にいたく感動したものです。

 グレアムによれば、下町では女性も七や八つのころから働くのが当然なんだとか。

 彼女らのたくましい姿は私にはなんともまぶしく思え、自分も彼女たちのように、自分の足で立ってみたい、そんな風に考えたことを覚えています。


 そうだ、私も下町で働いて暮らせばいいんじゃないか――そんな考えが天啓のようにひらめいたのはそのときでした。


 幸い私はまだ若いし、少し痩せているけど健康です。

 王都は好景気だと聞きますし、仕事だって探せばきっと見つかるでしょう。

 実家から持ってきた宝石を売れば、小さな部屋を借りるくらいはできるでしょうし、この長い金髪だって売れば多少のお金にはなるはずです。


 そうだ、家を出て自立しよう。

 そして貧しくとも人間らしい暮らしをしよう。

 毎日一生懸命に働いて、小さくつつましい部屋に帰り、自分で作った料理を食べる。

 もうドア越しの悪口に耐えることもありません。

 なかなか来ない食事を待ちわびることも、わざと味付けを間違えたスープに吐きそうになることもありません。

 ああ、なんてすばらしいのでしょう。



 決意を固めた私は一番地味なドレスを着て、髪をきちんと結い上げ、実家から持ってきた宝石と身の回りの物を鞄につめて、意気揚々と玄関へと向かいました。

 しかし運命はなんと残酷なのでしょう。

 私が荷物をもってまさに家を出ようとしたその瞬間、久しぶりに夫が帰ってきたのです。




 夫は私の荷物を見て、なにをするつもりなのか問いただしました。そして「下町で自立するつもりだ」という私の決意を聞くと、げらげらと笑いだしたのです。


「馬鹿馬鹿しい。根っからのお嬢ちゃんのお前が、下町暮らしなんか耐えられるはずがないだろうよ。言っとくが『お前は他の貴族の女とは違う』なんてのは、貴族女を口説くときの方便だぞ? なあシルヴィア、お前は酔っぱらいに尻を触られても笑っていなすことができるのか? 真冬の冷たい水で、あかぎれを作りながら洗濯することはできるのか? 垢まみれの共同浴場なんて行ったこともないだろう?」


 夫はひとつひとつ庶民の暮らしの過酷さを上げ、私の決意をあざ笑いました。

 私は夫に怒りを覚える一方で、高揚した気持ちがゆるゆると萎えていくのを感じていました。


 結局のところ、夫の言うとおりだったのです。


 私は七百年続くペンファーザーの家に生まれ、ペンファーザーにふさわしくあれと育てられました。庶民出の夫と駆け落ちもどきや新婚ごっこをしたところで、本質はなにも変わりません。

 ええそうです、哀しいことに、夫の言葉はまさに真実をついていました。

 私は骨の髄まで貴族の女であり、それ以外の生き方など今さらできるはずもないのだと、そう悟らざるを得なかったのです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 自分の生きてきた人生とこれからの人生を生き抜くために、正に自分のために生きることを始めた女の話ですなぁ…。 権謀術数が蠢く貴族の世界を何百年も生き抜いてきた一族の方々は、どのような心持ちで…
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