三話
ソレが目の前に現れるまで、予兆、というものは一切存在していなかった。
姿が見えなければ、音もない。
ただ気付いた時にはそこにいた。
まるで初めからそこに存在していたかのように。
一目見た時、少女に驚きはなかった。だってソレは映像で見るような化物と何ら遜色はなく、精巧なホログラムのようだったから。
だから、
「ゥウガァァアアッッ!!」
鋭利な牙が覗き唾液が垂れ滴る口から、鼓膜が破れるような音が聞こえるまで、恐怖というものが感じられることはなく、危機感も反応はしていなかった。
音が届いて初めて反応を見せる。
驚目し死を連想させさえする恐怖心、それでも意識は直ぐ逃げることへと切り替わった。
しかし、身体がとった行動は、硬直、だった。
(なんで! なんでなのよ! 動けよ、私の身体ッ!)
視線だけは逸らさず、必死に身体を動かそうとする。必死に両足を動かすように命令をかける。
だが応えは何も返ってこない。
その間にもソレは少女に近づく。
――死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬシヌしぬし…
頭の中はそれだけで埋められた。
けれど、
その存在を見逃せば、すぐ目の前に突然と現れてきたように、次見た瞬間にはもう隣にいるかもしれないと想像した。
だから、その存在に目を凝らす。
ならば、当たり前でさえあるが、脳はソレを深く認識し、時間が経つ毎に詳細な情報が入ってくる。
熊のようだと少女は思った。否、その存在から思い出せる似た生物に熊が近いと感じただけで、熊とは到底かけ離れている。
少なくとも少女の知る熊には、紅色のように禍々しく燃えながらも形どる角がなければ、二本の大きく鋭い牙も、触れただけで如何なる物も裂くような爪もない。
そもそも毛が赤色でもなかった。
自然と悟る。
(ここは異世界なんだ)
もう否定も何も出来ない。
ここは異世界だ。
日本ではない。
だから、といったわけではないが余計に死が近付いたように感じる。もとい死が本物だと理解した、という方が正しいだろうか。
こいつは今自分を餌だと判断している。
唾液をダラダラ垂らし、こちらの様子を伺っている。
もしくは、
(……遊んでいるのか)
見る限りヒエラルキー最高地の化物様がわざわざ此方の行動を見る必要はない。慎重な化物なのかもしれないが、いくら馬鹿でも分かる。あの牙で噛み付けば一瞬で勝敗はつくと。
それをあの化物が分かっていない筈はない。
あんな大きさになるまでにいくらの生物を喰ったのか。
ここら辺に何もいないのは、恐らくアレの仕業だ。
全部喰ったのか、化物から逃げ出したか。
どちらにしろ、あれは敵う存在ではない。
だからと言って逃げ出せる気もしない。身体の自由が効かないのだ。
「ハハ、……」
乾いた笑いが出た。
先程まで声も出なかったのに。
死を感じて覚醒でもしたのだろうか。
直後――
硬直しただ突っ立っていただけの身体が崩れた。
「え」
動かなかった身体が動いた。
その事実がしっかりと脳に刻まれる。
頭の向きはそのままだ。目線は反らしていない。
新たな思考、並びに化物との距離も測る。
あと五メートル。
化物の表情なんて読み取れないが、口から漏れる唸る声は喜びを現しているようにも思える。
何故か心が落ち着いていた。
化物の細かな仕草や身体のパーツまでもが頭に入る。
これ幸いと、視界からソレが消えないよう注意しながらも、辺りに目線を移した。
気味が悪い木に、そこにまとわりつく植物。地に落ちる暗緑の葉に、小枝。
「ふふ」
意識して出した訳でもないが自然と声が出た。表情にも似たような感情が表れているのだろう。
自分でも可笑しな考えだと思う。
だが、今の最善の手はそれしかないと判断する。理解する。
となれば今すべきなのは立つこと。
化物に歯向かう勇気を見せること。
「絶対生き残ってやる」
覚悟を噛み締めるように笑った。
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