初めての経験
出現した障害物に足をとられ、そのままヘッドスライディングさながらに雑草生い茂る地面へとダイブした。そして地面に倒れ込んだ少女目がけて上から覆いかぶさるように左右の茂みから緑色の塊が飛び出してきた。
「なんすか! こ、こいつらどこから!?」
俺は俺で目の前ので起きた咄嗟の出来事に対して思わず足をとめてしまう。まずい、と思う間も無く背後から飛び掛かってきたゴブリンによって地面に押し倒されてしまった。
「クソ、離しやがれ――――ッ」
腕を振り背中にしがみついているであろうゴブリンを引き剥がすべくもがこうとしたところ、目の前で大きな火花が散った。
「――――っがぁ!!」
衝撃と視界の明滅。額から鼻先にかけて生温かく馴染み深い液体が流れきたのを確認し、ようやく頭を殴られたのだと理解する。
そして少し遅れて重く響く様な痛みが頭蓋の内側にじわじわと広がっていく。思い切り殴り付けやがって、動くなって事かよ。後頭部は危ないんだぞ、分かってんのかクソ野郎。
頭部を襲う痛みに耐えながら少し先で同じようにゴブリンに取りつかれている少女を見やる。
うつ伏せの俺とは逆に仰向けの状態で地面に転がされており、ゴブリンの数も腹の上に一匹、両腕に一匹づつ、両脚を束ねてその上に一匹と計4匹ものゴブリンが下卑た笑いを浮かべながら圧し掛かっていた。
「このっ、離せ!! 離しやがれっす! ……て、ちょっと! どこ触ってるんすか、この化け物!!」
おいおいおい人間を襲うとは聞いてたけど……やっぱりそういう意味でもあんのかよ。
ゲッゲッゲゥ、と品性の欠片もない鳴き声を出しながら腹の上の一匹が丁度少女の胸元に当たる部分の衣服を手に持った短剣で引き裂いていく。
「嫌ぁあああ――――む、ムグッ!?」
女の子にとって当然の反応としてかん高い悲鳴を上げようとするが、腹上の一匹が短剣を持っている逆の手で少女の口を押さえつけその勢いのまま彼女の頭を地面に叩きつけた。
無残に引き裂かれた衣類の隙間からは傷一つない白い肌、そしてその奥には柔らかな双丘がさらけ出されていた。
「んんーッ!! んむぅぅッ!?」
押さえつけられたその口からうめき声が漏れる。
衣類を切り裂かれ肌身を露わにされた羞恥の悲鳴とはまた違った悲鳴。それは嫌悪感から来るものだった。
腹上の個体が服を切り裂いたの見てか、両脚の上に乗っていた個体も同じように短剣で彼女の脚部を守る皮の防具を膝から太腿にかけて大きくスリットを入れる形で裂いていた。そしてその隙間から覗く健康的な太腿から始まり、少女にとって最も触れられたくないないであろう部分に向けてべったりと悪臭を放つ涎まみれのざらついた舌で舐め上げていく。
「んんんんんんッ!!!」
羞恥か嫌悪感かあるいは恐怖、ぐちゃぐちゃに感情が入り混じっているであろう涙をその目浮かべこちらを見る。助ける求める表情でこっち見ていた少女だが、俺が額から血を流している事に気づくと酷くショックを受けたような顔を見せた。
そして、掴まれたままの口を大きく開けるとそのまま勢いよく閉じた、口元を押さえつける緑色の指を巻き込む形で。
「ゲギィイイイイッ!! ゲギ、ググギィ!」
腹上のゴブリンが悲鳴を上げ少女の顔から慌てて手を離した。皮膚の強度は人間と大きく変わらないのかその小さな手にはくっきりと人間の歯型が残っていた。
ようやく言葉の自由を得た少女が息を吸いこみ、喉が裂けるんじゃないかという程の大声を上げた。
「逃げてくださいっす!! こいつらはあたしがなんとかするんであなただけでも逃げて欲しいっす!!」
何言ってるんだこいつは。スライム一匹倒した事も無さそうなド新人冒険者がゴブリンの群れに捕まり身動きできない状態で、逃げてくださいって? 助けてくれの間違いじゃなくて?
大体俺の状態見てから言えよ、そっちより数は確かに少ないけど頭割られてマウントとられて逃げたくても逃げようがねえんだ。出会ってここまで、ほんの僅かな時間で薄々こいつは馬鹿だと思い始めていたとこだったけどここまで馬鹿とは。
つーか心配するなら自分の事を心配しろよ、甚振ってた相手に歯型残る程噛みつかれたんだ。そいつらが黙ってると思ってるんじゃないだろうな。
「ぐげえええええ!! ギッ! グギッ! ゲギ!!」
腹上のゴブリンが歯型の残る手を握りしめ少女の顔面を打ち付ける。その傍らではほかの三匹が間抜けを晒した同族を指さしゲラゲラと笑い声を上げていた。
何度も、何度も、まぶたが腫れ、鼻から血を流し、口から折れた歯がこぼれ落ちても、怒りの形相で顔を歪ませたゴブリンは拳を打ち下ろすことを止めなかった。
「ひ、グぅ、……がぎゅッ、いぎィ」
少女の端正な顔立ちが一振りごとに歪んでいく様を眺めながら、地面を握る指に力を籠める。
……だから言わんこっちゃねえ。なんでそこまでして俺を助けようとしたんかね。出会って半日も経ってない、文字通りの赤の他人のこの俺を。結構可愛い系だった顔をあんなにしちまってまでさ。
「に……逃げてくださいっす……。あたしは、ぼう……けんしゃ、だから!! あなた、みたいな人、を守るのが……役目っす……だから……っ!!」
…………。
そんな理由で。
そもそもお前、冒険のぼの字も知らないルーキーだろ。
それをそんな理由で。
………………。
「あぎ、あがぁあああああああッ!!」
少女の絶叫が俺の思考に突き刺さる。
少女の左腕を押さえているゴブリンが剣などまともに握ったことも無いであろう手の平ごと地面に短剣を突き立て腕の自由を奪っていた。傷口から溢れる血が周囲の草を緑から赤へと変えていく。
痛ましい傷口からとめどなく流れていく血を見た時に、俺の中の何かがカチリと嵌った音がした。
「なあおい、ゴブリン共。言葉が分かるかどうかどうでもいいけど、一つ言わせてもらうぞ」
ぎり、と地面を掴む手に力が入る。
俺を組み伏せている個体が小さく喚き、俺の血濡れた頭を掴み地面に押し付ける。
そのゴブリンの片手には短剣が握られているのか見えない首筋にひやりとした感触を感じる。
「多分だけど、俺は禁煙とかできないタイプだわ。いや、煙草吸った事ねえんだけどさ」
頭に掛かる重圧が増し、短剣の切っ先が喉元を撫でる。
「俗に言う異世界転生? 生まれ変わった訳じゃないから転移か? まあ、それは置いといてこれが丁度いい機会だと思ってさ…………控えようとしてたんだよ」
頭上でのゴブリンの喚き声が一段と荒くなる。
「ゲゲッ」
短い鳴き声の直後、左肩の辺りに激痛が走る。痛ってえなこの野郎。
でも。
「それをお前らは揃いも揃ってよお。禁煙中の人間の前でぷかぷか煙吹かす様な真似しやがって……いい加減我慢の限界でな。後ついで教えといてやるけど、それくらいの刃渡りのナイフじゃそこ刺してもしこたま痛くて血がでるだけで大事な筋も無事だし腕も問題無く動かせる。本当に殺したいならどうするか」
俺ならこうする。地面を強く握りしめていた手を少し浮かせ、背にいるゴブリンの視線の高さと同じに持ってきた。
そして、ぱちんと指を鳴らした。
「ギ……?」
ふと思わず、そんな風な仕草で音を発した手先を注視したゴブリンに向けて握り込んでいた手の中身を至近距離から投げつける。その中身は土、地面に倒れ組み伏せられいる間に用意しておいたものだ。
「ギ、ギギィッ!?」
眼球目がけて異物が飛んできた時の行動は人間もゴブリンも大差がないみたいで。両目を閉じ片手で顔を覆ったそいつは一瞬だが確かな隙を晒す事になった。
それで十分。
こいつと対面した時に腰から短剣を2本ぶら下げていたのを覚えてる。少しの記憶を頼りにうつぶせのままゴブリンの体をまさぐっていく。うん、気色悪いわこれ。
そんで確かこの辺に――――、あった。
手探りで短剣の柄を探し当て速やかに鞘から引き抜く、そして――――。
ひゅん、と腕だけの最低限の動きで短剣を振り切った。
「グっ……グゲ……?」
何が起きたかわからない、という素振りで自分の首元に手をやるゴブリン。
直後、生温かいシャワーが俺の頭上へと降り注ぐ、まさに血の雨としか形容できない景色がそこにはあった。
「ナイフの使い方もヘタ、刺す所もヘタ、武器の管理もヘタ。落第だぜ、ド素人」
背中に乗ったまま動かなくなったモノを振るい落しながらゆっくりと立ち上がる。ああ、なんか体が軽いな。
刺された傷から流れる血液が腕を伝い雫になって地面に落ちる。
「ギ、ゲゲギィ!!」
「ゲゲッグゲゲッ!」
少女の上の4匹が仲間の身におきた事態にようやく気付く。勿論あいつらの言葉なんて分からねえけどその声のトーンや表情、仕草なんかで怒り3割驚き6割そして大体恐怖が1割と大ざっぱな心境は把握できる。
驚きと恐怖が怒りに変わるとめんどくさい、感情を占める割合の怒りの部分が恐怖を超えると自棄になって襲い掛かってくる輩も多いからな。
だからそうなる前に手を動かすか。
さっきの奴の喉笛掻き切った短剣と、同じくそいつが俺の首筋にあてていた短剣の計2本、それぞれを両手に構え腕をしならせる様なイメージで一息に振りぬく。俺の手を離れた短剣はグリーンの的が反応を見せる前に、それぞれ少女の腹上と彼女の手に短剣を突き立てた個体の眉間に突き刺さった。
「……グ、グギギギ」
「ゲギィ、ゲゲギィ……!!」
瞬く間に仲間三人を失った連中は完全に心が折れてしまった様で、少女の上から飛びのくと一目散に森の中へと消えていった。しばらくは二匹が逃げ去っていった方角を眺めていたものの完全に気配が去った事を確認して少女の元に近づいていく。
そこに、ぽつりと雫が頬に当たるのを感じた。この世界でも雨は振るんだななんて事を考えている内に、二匹のゴブリンの死体に挟まれる形で倒れている少女の元にたどり着いた。
「おーい、生きてるかー?」
「はぁ……はぁ……、あの、ゴブリン達は……?」
「おお、まだ生きてた。あいつらなら二、三匹殺したら残りは逃げたぞ」
「そう、っすか……。あの、ありがとう……ございます……。本当なら、あたしがあなたを助けないといけなかったのに……」
「冒険者だから……ってやつか? さっきも言ってたけどその冒険者って言うのは……」
「冒険者って言うのは……げほっ、うぐ……」
咳込んだ少女の口から赤い塊が飛び出した。あーあー、そりゃあんだけ殴られりゃあそうなるわな。聞きたい事は山程あるが、今はそれどころじゃなさそうだ。
「とりあえず話は後だな、そろそろここを離れた方がいい。去り際のあいつらの様子を見る限り戻ってくる事は無いと思うけど万が一って事もある。……立てるか?」
ボロボロの少女が差し伸べた手を弱々しく掴み、ゆっくりと立ち上がる。
「すいませんっす……あたなたの方も酷い怪我なのに……」
俺の姿を見て目を細める。そういえば頭からゴブリンの血を被ってたんだった。確かに傍から見れば全身から血を吹き出して大怪我してる人みたいだな。
「ああ、これか。これ殆どゴブリンの血だから大丈夫だぞ」
頭と左肩が少し痛むが動かせない程じゃない。その時、ぽたりと俺の鼻から雫が垂れた。鼻血じゃない……これは、……やっぱり、雨だ。降雨が徐々に激しさをを増していく。
「……どうかしたっすか?」
「ああ、悪い……ちょっと雨を、感じてたんだ……肌で」
やっぱり雨は良いな、天から降り注ぐ無数の雫が俺とゴブリンの血がが入り混じった汚れを洗い流してくれる。
この短時間で色々あり過ぎた。
いつも通り朝起きて、いつも通り学校に行き、いつも通り授業を受けて、いつも通りの帰り道、ちょっとしたトラブルから電車に轢かれて死んだはずが、気づけば冒険者だのゴブリンだのが存在するファンタジーさながらの世界で目を覚ました。
その時に……これはまあただの気まぐれだったんだけど、こっちでは少し生き方を変えてみようとかそんな事を思いもしたけど…………やっぱり好きな物っていうのは変えられないもんだな。
空を見上げれば元いた世界と変わらない、雨空が俺を見下ろしていた。うん、これだけは異世界だろうがどこだろうが言える。
「今日もいい天気だ」