始まりは人それぞれで②
「…………やられたッ!!」
十数メートル続く直進の先にあるのは、遮断機の下りていく踏切だった。
この雨と自分の走る音で警報音も聞こえなかった、そこまで計算づくで!?
…………関係ない。ここで立ち止まれば背後から追いついてくる絶望に呑まれて死ぬ。このまま進めばやがて来る絶望に轢かれて死ぬ、かもしれない。
そうだ。まだ間に合わないと決まった訳じゃない。警報音が鳴り始めて電車が来るまで数十秒はあった筈、遮断機が下り切っても直後に電車が来るわけじゃない、ほんの少しでも可能性がある!
だったらここで足を止めるな、諦めるな。
僅かでも可能性のある方を選べ、前に進め!
止まりそうになる脚に気合を入れ直し再び駆ける。
まだ間に合うまだ間に合う。
頭の中で念仏の様に繰り返し自分に言い聞かせる。
背後にはあいつの足音が迫っている、かなり近い。
この距離なら確実に命中するであろうナイフが飛んで来ない所を見るに、自慢の飛び道具は弾切れなのか。
踏切まで数メートル、電車のライトが線路を照らす。
近い、でもぎりぎり間に合う! ここさえ越せば後ろのあいつは間に合わない、逃げ切れる! そう確信した俺は最後の力を振り絞り遮断機を飛び越えようとした。
そこに―――――――――
ギィンッ!! と、甲高い音が響いた。一瞬の事に事態の把握が遅れる。
見れば踏切に備え付けられている非常用の緊急停止ボタンに見覚えのあるナイフが突き刺さっていた。直後、ギキィィィィィイイイ! と耳をつんざくような金属音が鳴り響く。
電車は直ぐ近くまで来ていた。いくら停止ボタンを押しても到底踏切までには止まれない距離まで。だが僅かでもスピードが落ちれば踏切に到達するまでの時間に遅れが生じる。
そして俺のミスは鳴り響いたその音にほんの一瞬気を取られたことだった。
俺の一瞬の油断と停止ボタンが生んだほんの僅かなタイムラグがあいつが追いつく為の十分なロスタイムになったんだ。
ガッ、と後ろから首ねっこを掴まれる。その事に対し何か反応を見せるよりも速く、俺の脇腹に何か……冷たい何かがするりと入ってきた。
「え……」
冷たい何かは入ってきた時と同じくらいあっさりと脇腹から出て行った。
「……あ」
熱い、熱い、熱い。じんわりと脇腹周辺が熱を持ち始める。
熱い、あつい、これはまずい、まずい、とにかくまずい。
身体に力が入らない。かくんと、糸の切れた操り人形の様に膝から崩れ落ちる。
冷たい線路に顎を強かに打ちつけたが気にならない。
「いやあ久々に楽しかった。やっぱ逃げるにしても抵抗するにしてもお前くらい歯ごたえがある方がやりがいあって良いな。おっとそんな話してる場合じゃなかった、じゃ、俺は行くから、あと数秒の人生を悔いの無いように……達者でな!」
黒いレインコートがこちらに背を向けひらひらと手を振る。
「……ま、が……ばぁ……れ……」
待ちやがれ、そう口にしたつもりだったが俺の口から出るのは血と空気が混ざって泡立った様な音だけだった。
なんだこれ、どこで何を間違えたらこうなるんだよ。なんで普通の高校生が学校帰りに殺人鬼に追いかけられて殺されなきゃいけないんだよ。
やりたいことだってたくさんあるんだよ。バスケだってこの前レギュラー入りしてまだ一回しか試合に出てないし勉強だって今やってる数学のとこが全然わかんねえかもっと勉強しないといけないし彼女だって……高校生活3年間で一回くらいは女子とつきあってみたいし。
まだまだやりたいことがたくさんあったんだよ。それを――――
全身の感覚なんてとうに無くなった。腹から血流して雨に打たれて一足早く死人みたいに冷たくなった体が自分の意思通りに動いてるかどうかも分からない。
それでも。
それでもこのままあいつを行かせてたまるか。その気持ちだけが血も失い、心臓も止まりかけた俺の体を動かす原動力になった。
「うぉ、びっくりした。急に脚掴むなよ、線路から出られねえだろ」
殺虫剤をかけた虫がまだ生きていた、そんな程度の感想だろうこいつにとっては。
「おい……いい加減離せって。電車来てんだろほら、ホームの白線の外側でお待ちくださいってやつだ。だから……」
ドス、と背中に何かが突き刺さる。熱いし痛い、普通なら転げまわって絶叫する程の激痛を感じる筈なのだろうが既に死にかけの俺からしたら些細な問題だった。
痛かろうが苦しかろうが、関係ない。この手だけは離さない。
「おいおいまじでふざけんなよ! つかどこからそんな力でてんだよ、既に死人みたいな顔色してるくせによ??」
金切り音が近づいてくる。多少スピードは落ちているとはいえ人体を粉々にするくらいの勢いは十分に残っている鉄の塊だ。
このままここに居続ければどうなるかくらい誰にでも分かる。それはたとえイカれた殺人鬼であってもだ。
レインコートの脚が俺の顔面を踏みつける。何かを大声で喚きながら何度も何度も踏みつける。鼻が折れようが目が潰れようがどうでもいい。とにかくこの手だけは何があっても離す気はなかった。
そして強烈な光が俺たちを照らしだす。視界が真っ白に染まり、目の前に終わりが来た事を悟った俺はゆっくりと目を閉じた。
「ざまあ、みろ」
俺の力ない呟きとは対照的な、力いっぱいの絶叫がどこか遠くから聞こえたような気がした。