言神「真宵」
「僕は朱莉様以外にしたがう気はないので、文庫社に赴任してきた弁士たちからは距離を置いていましたが、真宵はその全員に従っておりました。言語りを握られたからではなく、彼女の意思で」
うん?さらっとものすごいことを言わなかったか?と朱莉は引っかかったが、ともかく黙って智人の話を聞くことにした。
「彼女はマヨイガとして定義されて能力を得たことで、文庫社の管理をする言神としての役割を与えられました。元々家に着く霊であり、家を保つこと、住みよい環境に整えることを喜びとしていましたから異論はなかったようです。ですがここに赴任してきた弁士たちは皆、彼女に無理難題を押しつけたのです」
「どういう意味? あの子に暴力でも振るったの?」
「あの家がいびつだと思いませんでしたか」
「まあ確かに、無理な増改築をしたみたいだな、とは」
話が飛んで朱莉は眉をひそめたが、智人は曖昧な表情を浮かべた。
「あれはすべて弁士に命じられて、間取りを作り替えた結果なんです。それがマヨイガであり、座敷童である彼女の能力なので」
「なんだって?」
「彼女が定義された逸話は、座敷童とマヨイガの2種類です。ゆえに家を整え、その中に住まう者に幸運を届けることができます。だから弁士たちは求めました。『よりよき住処と幸福を』と。真宵は弁士たちの願いにその能力の限り答えようとしました。それが彼女の存在意義ですから。ですが弁士たちの欲は際限はなく、最後には叶えられないと知ると文庫社から離れていったのです」
智人から淡々と語られるそれに、朱莉はぐっと眉をひそめた。
「よかったじゃない。無理難題を押しつける奴らとは離れたほうが賢明だわ」
「ですが、真宵にとっては……いえ、言神にとってはとても受け入れがたいことなんです。『読まれない』と言うことは」
朱莉はいくら納得できずとも「そんなわけあるか」とはいえなかった。智人の声音がとても重いような気がしたからだ。
「当時のことが知りたければ、屋敷内に弁士たちが残した日誌がありますし、真宵という言神については言語りを読めばほぼすべてを知ることができます」
「言語りを読め、と?」
それでもつい、突っかかってしまった朱莉だったが、智人は全く気にした様子はない。
「はい。朱莉様は少々勘違いしておられるようですが、言語りは物語の形を借りた言神となる前の来歴です。強調されることはあれどそこに書いてある事に偽りはないものです」
「偽りないって事実ってこと?」
「はい、他人に書かれた履歴書のようなものですよ。他人が書くからこそ客観的になる、と僕を封じた弁士が言っていました。物語とは少し違うとはいえ、お嫌でしたら、強くは勧めませんが」
「……まあ、かんがえとくわ」
智人が引き下がったことに、朱莉は少しほっとした。
どうやら言語りに対する認識を若干改めなければならないようだと考えつつ、朱莉はあの長い髪に埋もれるような童女の姿を思い返す。
そのような事があってもなお、彼女は家の守り役として居続ける事を望んでいるのだろうか。聞いただけでは分からないことだらけだ。
今すぐ結論を出すのはやめようと決めた朱莉は、だが智人に視線を向けた。
「最後に一つだけ。話からすると、彼女が弁士とやりとりしている間も一緒に居たのよね」
「ええ、彼女があの屋敷の管理を任されて、一度目の主の時からですから」
「なら、弁士がいた間、あんたはどうしていたの」
「なにも。彼女がそうしたいと望みましたから。僕にも己のすべてをかけて仕えたいと思う気持ちは分からなくはありませんでしたので」
「……そう」
綺麗に微笑む智人からは後悔も逆になぜ聞かれたのか分からないというような困惑も読み取れなかったが、朱莉はそれ以上の答えを求めなかった。
なんとなく聞いても無駄な予感がしたからだ。
「わかった。まあ、とりあえず考えておくわ。後は夕飯を買って帰りましょう」
「かしこまりました。今日の夕食はなににいたしましょう」
「火は使えるんでしょ。そしたら自分で作るわ」
「朱莉様がお作りになられると……!?」
朱莉は唐突に話題を変えたにもかかわらず智人はまったく嫌な顔一つせず、ただ愕然とした顔をした。
まるで仕事を無理矢理取られてしまったような顔だったが。
「だってあなた火を使う料理は苦手って言ってたでしょ。ご飯と味噌汁も食べたいところだし……って。そうか。米と味噌と醤油も買わなきゃ」
「荷物持ちはお任せください! ですがせっかくのお世話できる機会を逃すのは」
「いや荷物は置いてからにしようよ」
重いと言うより邪魔だろうに。真剣に悩む風の智人に朱莉は呆れつつも帰路についたのだった。
文庫社に戻ってきた朱莉が玄関扉を開けたとたん、通路の奥に真宵の黒髪が翻るのが見えた。
「すみません、真宵はこの屋敷そのものでもあるのでこの屋敷内では比較的自由に出入りできてしまうのです」
智人の話を片耳で聞きながら、朱莉は夕食を用意することになった。
途中、おそらく真宵の妨害によってガスや水の出が悪いという困難や、朱莉の手順を見つめる智人の熱い視線が気になりはしたが、仕度できた夕食はいつもどおりの味だった。
洋風の食事も良いがやはり白飯が食べられるのは良いものだと思う。
そして身支度を調えた朱莉は、智人と別れまた言語りの書庫に布団を敷きのべていた。
「やっぱりここに戻ってくるのね。まあ今からあの部屋の荷物をどかすのは無理だからしょうがないんだけど……」
ちなみにこの屋敷に内風呂があり、存分に堪能したので上機嫌だった。
体は布で拭いていたが、それでも風呂に入れるのは格別だった。
近くの銭湯へ行こうすれば智人に止められてしまい、急遽風呂場を手入れして沸かしたのだが、この屋敷の風呂釜はなんとガス式だったのだ。おかげでたいした手間もなく入ることができた。
真宵によって水風呂になっている可能性も考えたが、幸いにもあたたかい風呂が楽しめたのもある。むしろ背中を流すとにっこり笑ってのたまうどこぞの言神の方がやっかいだった。
とすり、と布団の上に座った朱莉は、ぼんやりと周囲を見回した。
片隅にはどこか神聖で静謐な空気の漂う書庫内には不釣り合いな荷物がこんもりと積み上げられている。
朱莉が買い込んだ荷物だったが、彼女が風呂に入っている間も、そこから動かされてはいなかった。
「あの子、私の荷物を外に放り出したりはしなかったのよね」
他にも気づくところは沢山ある。だが真宵という言神について知るにはまだ弱い。
朱莉は本鞄から、真宵の言語りを取り出した。
墨色の、なめらかな手触りの表紙に手を滑らせる。
智人は、言語りとは物語調の履歴書のようなものだと言っていた。朱莉が苦手な物語とは違うもの、とも。
「正直、自分でも物語が嫌いな理由はよく分かっていないのよね」
智人には嘘を楽しめないからと言ったが、朱莉が物語を前にして感じるのは、忌避だ。嫌悪とは微妙に違う感情。
おぼろげながら両親が亡くなる前は童話やおとぎ話も普通に楽しんでいたような気がする。
でもひとりぼっちになり親戚の間を転々としているうちに、気がついたら物語を嫌がるようになっていた。偽りの世界を避けて手に取らなくなっていた。
ただ、それでも朱莉は活字が好きだ。新聞ももっと気軽に読みたいと思うし、図鑑や歴史の書物をなめるように読む時間は至福だった。
言語りの安置された棚とは別に、壁には無造作に積み上げられたノートがある。あれがおそらくこの屋敷に赴任してきた弁士たちの日誌だろう。
ご丁寧に閲覧用の机と椅子が用意されており、その上には電灯が下げられていた。
引き継ぎのために置いてあるのかも知れない。
何かを知るために読むのなら、妥協点ではないだろうか。
「問題は、読めるかなんだけど」
朱莉は閲覧用の椅子に腰をかけると、机の書見台に置いた墨色の表紙を撫でて指をかける。
電灯に照らされる中、すう、と紙のすれる音が響いた。