牛飯がうらやましかったわけではない
家財道具一式をなくしてしまったのは手痛いが、不良軍人はありがたいことに軍資金は豊富に用意してくれた。自分がひと月にもらう給料の半分にもなったのがしょっぱい気分になるが、このさいだ、買い物を楽しんでしまおう。
そんな風に開き直った朱莉は、周辺の散策もかねて外に出た。
文庫社のある周辺は閑静な住宅地のようで、隣の住宅まで距離があった。
正直、昨日はあたりが暗くてどこだか把握できていなかったが、智人の案内で大通りにでた朱莉は、その猥雑で繁華な雑踏に察した。
「このあたりってもしかして親宿?」
「はい、この辺りは以前は都心から離れていたらしくて、多くの文庫社が立てられました」
「都心から離れてって、近いほうがいいんじゃないの?」
「万が一に言神が暴れ出した時でも被害が少ないですから」
「あーなる、ほど」
改めて自分が厄介なことを引き受けていることを思い知り朱莉は顔をひきつらせたが、智人は気づかなかったようだ。
「今では繁華街になってしまいましたが、軍人や弁士も数多く住んでいるようですよ」
朗らかに言った智人の背後の大通りを人力車が駆けていった。
親宿は東華の端に位置し現在急速に発展し始めている区域だ。
路面電車の駅ができて都心からの交通の便が良くなったために、百貨店や劇場、カフェーなどが進出し、新しい文化を求めてダンスホールに若い男女が集っていた。
また安価な住居も多かったことから、文士や画家など芸術に従事する人々が集まり、すこし不良めいた混沌とした文化の発信地となっていたのだ。
少々治安に関しては不安になった朱莉だったが、それも含めて確認すれば良いだろう。
一歩後ろを歩いていた智人が問いかけてくる。
「なにを購入されますか」
「軽いものから行きたいわね。仕事用の着物と、化粧品も買わなきゃ」
「お着物でしたら文庫社内にいくつかございましたが」
「……さすがに血のしみがついた着物は着れないわよ」
「すでにあやしの者は言語りに封じられておりますが」
「そういう問題じゃないのよ」
心底不思議そうにする智人に朱莉は肩をすくめてみせた。
ただ古道具の中には使えそうな櫛などがあったのも事実なので、ありがたく使わせてもらうことにした。
智人が言うには処分に困っていただけで使う分には問題ないらしい。
来歴を聞いては使えなくなる気がしたので説明しようとする智人の口はふさいだものだ。
「さて、まずは腹ごしらえね。ってそういえばあなた、ご飯は食べられるの」
2人で食事処に入ろうと言うのに、1人前しか頼まなければ怪しまれるし店の人にも失礼だ。
朱莉がしまったと言う気分で見れば智人はあっさりと言った。
「必要ありませんが食べられますし、その間だけ言語りに戻っていることもできますよ。……戻っていましょうか?」
「そんな捨てられた犬みたいな顔しなくても言わないわ。むしろ前に座っていて」
「居ても良いのですか! 僕と歩くのが嫌なのだと思っておりました」
嫌がりように気がついていなかったわけではなかったのか、と朱莉はきまり悪く苦笑したが、驚いた顔をしている智人に説明する。
「女はお店で一人で食事もしないっていうのが世間の認識なの。だからあなたが視線よけになるのよ」
職業婦人が浸透してきたおかげで女性への風あたりは少しだけ和らいだものの、白い目で見られることはなくなっていなかった。
働いているのだからいろいろな場所に一人で行くのも外で食事を取るのも当たり前だろうと朱莉は思うのだが、世間はそうは思ってはくれないのだ。
実際、女性を雇っているはずの隅又商事ですら外で食べてくると言えば顔をしかめられるのだから不思議なものである。
それを聞いた智人は不思議そうな顔をしていた。
「そのような、ものなのですか」
「ま、職場の近くでは気にしてられないけどね。解決できる方法があるのなら利用したいわけ」
「とても不可思議な事ですがお役に立てるのでしたら喜んで、視線よけにお使いください」
嬉しそうに頭を下げる智人に朱莉は少しほっとしたと同時に心の中で苦笑した。
本当に人間の常識を知らないらしい。男性と女性が一緒に歩いていれば夫婦、または婚約者と取られるのだが、知り合いが誰も居ないのだから全く問題ない。
それに一応男性に見える智人が、不思議な顔してくれたので朱莉は少し気が紛れた。
「ねえ、牛飯の店どこかにないかしら」
とりあえず、昨日の牛飯がうらやましかったわけではない。
朱莉は無事見つけた牛飯の店を満喫したあと、智人の案内で足りないものを買いそろえていった。
幸いにも親宿という街は流行の発信地だけあり、古着屋から百貨店まで歩いていける距離にあったのが幸いし、覚悟していたよりも歩き回ることはなくそろえることができた。
衣類をはじめとして、ぼろぼろになっていた布団の覆いや、細々とした生活用品はもちろん、通勤に必要な化粧道具は特に奮発した。
「いや、分かっていたけど疲れたわ……」
「お疲れ様でした、どこかで休憩されて行きますか」
「いや8割ぐらいあなたが原因なんだけど、ま良いわ」
よろよろと最後の古着屋を制覇した朱莉は、若干恨めしく傍らを歩く智人を見上げた。
買い物自体は大変順調だったのだ。なぜなら資金は潤沢、贅沢はできないものの欲しければ悩まずに購入を決められた。
だがやたら顔の良い男をつれているとやたら目立つ、というのも完全に忘れていたのだ。
智人は止めない限りどこにでも付いて来る上、さらに智人の終始丁寧な言葉遣いである。二度見三度見は当たり前。どこでも朱莉が女中の立場ではないかと珍妙な顔をされたのだ。
さすがに下着の布を買うときは追い出したが、それ以外は一体どんな関係だと毎度見比べられ辟易した。
特に百貨店の化粧品売り場では美容部員たちの視線がとても痛かったな、と遠い目をした朱莉だったが、責める気はしない。
なぜなら、智人には今まで買ったすべての品を風呂敷に包んで背負ってもらっているからだ。
とてもきちんとした格好をしているのにも関わらず庶民的な大風呂敷が似合わないことこの上ない。
「と言うか、そんなに持って大丈夫なの」
「ええ、重さとしては全く負担になりませんのでお気になさらず。朱莉様には言語りを持っていただいてますから」
なんとなく強くもいえず、朱莉は肩から斜めに下げている本鞄を撫でた。
今この中には智人と真宵の言語りが入っている。
鞄は飴色をした革製で、しっかりとした作りのためそれなりの重さがある。とはいえそれ以外がもてないほどでもない。
荷物持ちにすると宣言していたものの、さすがに気が咎め荷物を分けてもらおうと進言したのだが、智人は頑として譲らなかったのだ。
結局朱莉が持っているのは化粧品などの細々としたものだけである。
「僕ら言神にとって言語りというのはそれだけ大切なものなのです。だから万が一の時は守っていただけましたら助かります。その鞄は多少の水濡れならば問題ありませんので。肌身離さずいてくだされば十分です」
「……一応言っておくけど、会社には持って行かないわよ」
「駄目、ですか」
朱莉がいちおう釘を刺してみれば智人は眉尻を下げたが、ここを譲る事はない。
本当にしょんぼりとしているが、仕事に関係ないものを持って行けるほど余裕はないし、これほど目立つものを仕事場で下げていたら聞かれることは明白だ。
没収でもされたら目も当てられないだろう。
「そんなに大事なら、なにがあるか分からないところになおさら持って行けないわ」
「なる、ほど。そういうことでしたら仕方ありませんね」
朱莉が言えば、智人はかすかに目を見開いた後、納得してくれたようだ。
この言神はよくわからないと思いつつ、朱莉は買い物に夢中になって意識の外に追いやっていたことを思い出す。
「それにしても、真宵ちゃん、家でどうしているかしら。なるべくなら私の使う部屋に荷物を詰め込んで居ないと良いんだけど」
「いえ、真宵は今そこに居ますよ」
あっさりと智人に言われた朱莉は、一瞬聞き逃しかけた。
智人の視線はしっかり本鞄を向いている。
「待って、どういう意味」
「言神は本体である言語りから一定以上離れると言語りに戻りますから。真宵は今言語りの中で眠っているはずです」
「だからあんたは持ち出すのにこだわっていたのね……」
どれだけの惨事と対峙しなければならないかと身構えていただけに、朱莉は安堵のような肩すかしを食らわせられたような気分だ。
朱莉が嬉しいはずなのにやりきれない気持ちをもてあましていれば、智人が迷うようなまなざしを向けていた。
「あの、真宵のことなのですが」
「そうよ、なるべく早く関係修復しときなさいよ」
「いえ、その朱莉様は僕が原因と考えられているようですが、おそらくもう少し根が深いと思います」
「何か知っているの?」
朱莉が訊ねれば、智人はこくりと頷いた。
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引き続き帝都コトガミ浪漫譚。よろしくお願いいたします。