言語り「マヨイガ」
「とりあえず掃除をしましょう」
朝ご飯を綺麗に平らげ、不良軍人宗形の簡素な手紙を一読した朱莉はそう宣言した。
何せ家財道具の一切合切を失ってしまったので、買い出しも始めなければならないが、まだ朝は早く、たいていの店は開いていない。
ならばその前に自分の寝床を確保するのが良いだろう。
ぶっちゃけあんな心臓に悪いところで二晩眠るのは勘弁したいのだ。
ちなみに宗形がよこしてくれた封筒には朱莉の月給の約半分が入っていたので不良軍人よびは封印することになった。資金は正義。
一応隅又商事の男から休暇をもぎとっているため、その間に朱莉はなんとかしてこの屋敷を建て直すのが任務だ。
「あの玄関の荷物もどうにかしたいし、最低でも部屋は一つ開けたいし、お手洗いも掃除したいわ。智人、掃除道具はどこかしら」
台所以外の水回りがひどかったのだ。ただ内風呂があったことは拳を握ったため、なんとしてでも使えるようにしたい。
「では、この家の言神を呼び出してみましょうか」
まずは掃除から始めようとたすき掛けしていた朱莉が酸っぱい梅干しに当たった顔で振り返れば、智人は眉尻を下げていた。
「そんなに言神がお嫌ですか」
「嫌なのは物語を読むことよ。弁士のまねごとをしなくて良いって言っていたじゃない」
朱莉が抗議すれば、智人は少しだけほっとした色をうかべながら言った。
「はい、もちろんその通りなのですが。この家は言神によって整備されていますので、家の中をいじるのであれば彼女の許可が必要なのです」
「言神が管理しているって、戦うだけじゃないの?」
「確かに言神に荒魂が多いのは確かですが、言神次第では対神魔言神以外にも能力を発揮します。僕も非戦闘要員の言神ですよ」
言神はてっきり神魔を調伏するだけかと思っていた朱莉が驚いていれば、智人は丁寧に続けた。
「この文庫社は特殊な術式が張られていますから、名を呼ぶだけでも実体化することができます。ここでは言神も住民となりますので挨拶だと思って呼び出していただけませんでしょうか」
朱莉は昨日泊まった書庫に並んだ言語りの列を思い出して少し考え直す。
確かにこれからしばらくの間世話になるのに、住民に挨拶しないのは良くない。
「本当に、名前を呼ぶだけで良いのね」
「はい。ではこちらを」
微笑む智人が早速と言わんばかりに言語りらしき書物を差し出してくる。用意周到だと苦々しく思いつつも朱莉はその言語りを受け取った。
装丁は丈夫そうな厚い紙の和綴じ本で、題名には「言語り マヨイガ」と墨書きされていた。
「言語りにははじめの数頁に封じられている言神の概略が乗っており、その次の頁から彼らの逸話が描かれています。言神を呼び出すにはまずはじめの頁を開き、封じられている言神の分類と、名付けられた名前を呼んでください」
逸話、と言う言葉に朱莉はこくりとつばを呑んだが、なんとか墨色の表紙をめくり、はじめの頁に太字で描かれたそれを見る。
そして宗形の呼び方を思い出して声に出した。
「”定義されしはマヨイガ、名を真宵”」
開いた頁から、墨色の文字が緩やかに立ち上った。そして朱莉の前に渦巻くように凝っていく。
ぱちりと朱莉が瞬きをしたとたん、眼前に浮かび上がるように現れていたのは、5歳ほどの少女だった。
日の光すら吸い込むような黒髪は体を覆いつくすように伸び、床でとぐろを巻いている。その隙間から垣間見える彫りの浅いあどけない顔立ちに表情はなく、まるでつくりもののようだ。
着ているのは肩揚げされた黒い振り袖だったが、朱莉は袖や襟にレースがあしらわれていることに驚いた。
しかし影のようにたたずむ様は和式と洋式が混合する奇妙な屋敷の中で妙にしっくりきていた。
未だに突然人が出てくるというのに慣れずに見入ってしまった朱莉だったが、自分がやるべきことを思い出す。
「はじめまして。昨日から住み込ませてもらう事になりました御作朱莉です」
「しってる」
あ、しゃべったと朱莉は身もふたもない事を思ってしまった。あんまりにも綺麗だったから仕方がない。
「じゃあその、これから掃除と片付けと不要品の整理をさせてもらうわね」
ただ声の幼さに似合わないその硬質さに少々朱莉は違和を覚えていれば、真宵は黒々とした瞳でじっと恨めしそうに見上げてきたのだ。
「てつだわないから」
「真宵っ!」
智人が咎めるように名を呼べば、真宵はぎっと彼をにらみつけると、黒髪を翻して姿を消してしまったのだ。
敵愾心たっぷりのその態度に妙な沈黙が降りる中、智人が朱莉の足下に膝をついて頭を下げた。
「申し訳ありません朱莉様! 真宵が失礼なことを」
「その前に質問」
もはやこの言神の唐突な行動に慣れつつある自分を感じつつ、朱莉は顔を上げる智人に続けた。
「あの子はあなたと何年前から居るの」
「ええと、僕がここに来てからですので、もう10年ほどになるでしょうか」
「仲は良かった?」
「一応僕は管理人という立場でしたので毎日顔を合わせて会話をする程度は」
「そりゃ当然だわあんたが悪い」
信じられない言わんばかりに目を見開く智人に、朱莉は痛む気がする頭を抱えたくなりつつ言った。
「ねえ、言神っていうのはずいぶん人間くさいと言うか、意思があるわよね」
「言語りに封じられることで存在を定義されますので、その時に多かれ少なかれ自我が生まれますので」
「それなりにつきあいの長い相手が、何の相談もなくいきなり知らない人間を連れてきたら拒否反応起こすわよ」
親を亡くして親戚の間を渡り歩いた朱莉だからよく分かった。
智人の話によれば彼女はこの屋敷の持ち主のようなものなのだろう。それならば自分の仕事場を荒らされるような物だ余計受け入れられないに決まっている。
ただいつどうやって朱莉の名前を知ったのだろうと疑問は残るが。
朱莉が考えていれば、なぜか智人がおそるおそる訊ねてきた。
「怒って、おられないのですか。命に従わない言神ですよ」
質問の意味が分からず朱莉はきょとんとしたが、そういえば相手は人あらざるものであり、人間に従うように作られた存在だと思い出す。
「だって私は弁士じゃないわよ。ただの居候。私だってあんなかわいい子従えたいと思わないし家だけあれば良いんだもの」
むしろ言神などという未知の存在と暮らさなければならない中で、自分にも分かる反応を返してくれた真宵は大変に親しみが持てた。
この奇々怪々な言神よりもずっと。と朱莉はじっとりと智人を見下ろす。
「それにこういう事態を考えてなかった私も悪いし、もっと悪いのはあんただもの」
「僕ですか!?」
「だってあんたあの子裏切っているのよ、わかってる? 昨日冷たくされてなかった?」
「そう言えば、昨日の夜はいくら話しかけても応じなかったような」
困惑気味に考え込む智人の表情に理解が及ぶのにやっとかと思いつつ、朱莉は腰に手を当てた。
「とりあえず、彼女には悪いけれど私はここに居させてもらわなきゃいけないの。片付けも掃除もしちゃだめとは言われなかったからするわよ。掃除道具はどこ」
「は、はあ。こちらです」
困惑しながら立ち上がる智人の案内に朱莉は付いていったのだった。