朝は穏やかに迎えたい
「……きて……くださ……」
朱莉は誰かの声で意識が浮上した。
まぶた越しに感じる外は暗いようだ。
さらに言えば人のしかも男性の声が聞こえるのはおかしい。朱莉の暮らす部屋の隣は男性が住んでいたがこのような声ではなかった。壁が薄いから聞こえてくるのだ。
しかも今日は休みだったはず。
「起きてください。朝になりました。……ですがあなたの寝顔を拝見できる機会ですし、もう少し眺めるのも良いでしょうか」
照れを含んだその言葉に、朱莉は昨夜の災難を思い出し、ぱちりと目を開けた。
そこは薄暗い部屋だった。明かり取りのための小さな窓が数個あるだけの部屋である。
広々とした室内の壁には所狭しと棚が並べられ、箱状の棚の一つにつき一冊、まるでご神体のように様々な形態の書物が奉られていた。
まるで、ではなく実際にご神体なのだろう。
何せこれらはすべて神魔魍魎が宿る言語りなのだから。
この部屋は言語りを保管する書庫で、常に清浄にし一定の気温湿度を保つように部屋が作られているためきれいにされていた。
と、昨夜説明されたのを朱莉は徐々に思い出す。
嫌いな物語しかも神々と眠るなんてと思わないでもなかったが、ここ以外に眠れそうな場所がなかったのだ。比較的マシな寝具を持ち込んで、朱莉はようやく一日を終えたのだ。
そして目の前には、秀麗な顔にうっとりとした喜色を浮かべる青年がいた。
一分の隙もなく、昨日と同じような洋装を身につけている。
「おはようございます朱莉様」
「起こしてくれるのはありがたいけど、次は普通に声をかけてくれないかしら」
寝顔を見られるのは百歩譲って許すとして、正直寝起きにぶつぶつとつぶやかれるのは気色悪い。
朱莉が苦言を呈すれば、智人は首をかしげる。
「普通、とはどう言ったことでしょう」
「初対面に等しい女の寝顔を堪能しようかと言わないこと」
「だめなのですか」
「そもそも女性が寝ている部屋に入るのも非常識よ」
「そうなのですか!?」
智人に心底驚かれた朱莉は朝からどっと疲れた気がした。
厳密に言うのであればそもそも部屋に無断で入るのも非常識なのだが、人間に見えてもこれは言神、人あらざる者なのだなと納得もした。
自分が女学生だったらきゃあと叫びもしただろうが、まるで色気のない彼の態度を見れば手を出される心配もないのは明白だ。
それにと朱莉が考えていれば、驚きから脱した智人が神妙な顔で進言してくる。
「ですが僕はあなた様にお仕えする身ですので、入室と寝顔を拝見するのはお許し願えればと」
「なら夜行様と呼ぶけど」
「以後気をつけます」
昨日の夜、呼び捨てされるのにこだわっていた事を思い出して言えば、智人は即座に手の平をかえした。
そんなに嫌か敬称付けは。
「言神とは西洋で言う使い魔のようなものです。神ではありますが同時に弁士に仕える従者ですから、僕に敬称を付ける必要はありません」
「つかいま? と言われてもよく分からないけど……分かったわよ」
早くも彼の軌道修正法を理解してしまうことに微妙な気分になりつつ起き出しかけたのだが。
朱莉は自分がたたんでいた着物を広げて、にっこりと微笑む智人に能面のような顔になった。
「お召し物はこちらでよろしいですね。お着替えを」
「今すぐ着物を置いて出て行かなければあなたに敬語を使い続けますわ」
「はい?」
「着替えは一人でできますから出て行ってくださいと言っておりますの!」
「ああっせっかくの従者らしい仕事なのに!」
朱莉に着物を取り上げられた智人は、この世の終わりのような声を上げたのだった。
着替えと言っても昨日と同じ銘仙の着物だ。
下着のたぐいもすべて燃えてしまったため少々気になるが仕方がない。
若干すすけた着物をはたきたい気持ちになったが、ここでははたくのは控える。寝床にしたのも気が咎めたのに、そんなことまでしたらなんだか罰が当たってしまいそうだ。
着替えを終えた朱莉が扉を明ければ、しゅんとしながら待っていた智人がぱっと表情を輝かせてたちあがった。犬の幻覚が見えた気がした。
「改めましておはようございます。朱莉様。朝食を用意しております」
「ちょうしょく」
朱莉の声が渋くなるのは仕方がないと思うのだ。
日の光が差し込む中で屋敷内を見た朱莉は、改めて荒れ具合に閉口する。
壁にヒビが入っていたり、床の塗装がはがれていたりするのは序の口だ。
廊下がひどく入り組み、次の廊下へ進むために部屋を横切らなければならなかったり、不必要な階段や扉が残されている。
おそらく智人がいなければ外に出るのも難しいのではないだろうか。
まるで子供が積み木を積み重ねるように思いつきで増改築を繰り返したような家だった。
これが標準的な弁士の住処なのであれば、弁士というのはたいそう変人だろう。
それはともかく。
このような設備に期待できない場所で、人間に対して全く常識が欠けている言神が出す朝食である。
生米でも食わされるのだろうか、と慣れた様子で歩く智人に朱莉は付いていった。
しかし食堂に着いたとたんあっけにとられて立ち尽くした。
「どうかなさいましたか」
「きれいだ」
そう、食堂は別世界かというほど綺麗だったのだ。
天井には蜘蛛の巣一つ床にはちり一つなく、空気も入れ替えられたのか澄んでいた。
さらに物は少ないが、長机と椅子は綺麗に磨かれており、綺麗な布がかけられている。
心なしか窓から差し込む日の光も清浄に思えた。
なんだこの違いは。
「どうぞ、お座りください」
朱莉が今までの空間との違いに呆然としながら智人に促されて椅子に座れば、そこに並んでいたのは絵に描いたような洋食だった。
曇り一つない陶器の皿に丁寧に盛られているのは小松菜や京菜などの若葉を合わせた生野菜だ。いわゆるサラダというものだろう。
隣の皿にはこんがりきつね色に焼かれたパンが盛られており、小皿にバターとジャムが添えられていた。
一緒に並べられている卵は、予想が正しければゆでられているに違いない。
女性雑誌で紹介されているような西洋の朝食風景がそこに広がっていた。
「今お茶をお持ちしますね」
「え、まって智人。あなた料理できたの? というかこの部屋だけどうしてこんなに綺麗になっているの」
朱莉が我に返って聞けば、智人は気恥ずかしげに答えた。
「その、昨日の会話で人になにが必要なのか全く無知だったと気がつきまして、昨夜、書物で人の生活についての知識を仕入れつつ、掃除をいたしました。ただ一晩だけでは厨房とこの食堂しかできなかったのですが」
「夜に掃除をしたの!? 本を読みながら!?」
「はい、言神に睡眠は必要ありませんので。本来ならここにスクランブルエッグなどを添えるとありましたが。火の扱いはうまくいかず、茹でたり湯を沸かしてお茶を入れるのが精一杯でした」
心底申し訳なさそうに言う智人に朱莉は絶句した。
よくよく見てみれば、テーブルに並んでいるのはただ手でちぎったり切ったりするだけで良いものだ。
簡単だと言えばそうなのだが、その単純な仕事を丁寧にやったことは盛り付け方で容易に想像が付いた。
「ちなみに食材は近くの店へ購入しにまいりましたから新鮮ですよ! 黒江にも確認してもらいましたから」
「くろえ、あ、あの不良軍人の言神様?」
「先に必要資金だけ届けられました。契約書類はまた後でだそうです。お金は一部使わせていただきました」
「いや、うん、かまわないけど」
智人が頭を下げるのに朱莉はうなずくので精一杯だった。
まともなご飯が出てくるとは思っていなかったのも一つだが、智人が彼なりにまじめに朱莉へ仕えようといるのがなんとなく伝わってきてしまったからだ。
伊達や酔狂で一晩かけて掃除して、慣れない調理をしようなんて思わない。
なにせことあるごとにめんどくさがって外食で済ませようとする朱莉が言うのだから間違いない。
智人という言神がますます分からなくなってしまった。
だがやることは山積みなのだ。深く考えるよりもこれからの事を考えよう。
「ありがとう智人。とりあえず、いただきます」
ひとまず腹ごしらえだ、と朱莉は目の前の朝食を神妙に食べ始めたのだが。
「……なに?」
「お礼を言ってもらえただけでなく、僕のご用意した物を召し上がられてる……」
「ごめん、早くお茶持ってきてくれるかしら」
見直しかけたがものすごく残念なのは変わらずでゼロに戻った。
ただ、ぱあと表情を輝かせて喜ばれれば悪い気はしない。
ちなみにお茶は緑茶で恐ろしく苦い代物が出てきた。なんだか少しほっとした。