帝都名物はお断り
文明開化もとうに過ぎ、科学と絢爛と退廃が同居するも、神魔魍魎も衰えず近しき世。
これは神魔と人が友となり得た時代。稀代の弁士となりし乙女と、彼女に従いし言神達の記録である。
その日、御作朱莉は機嫌が良かったのだ。
まず朝が早く起きられた。次に仕事が早く終わった。さらに今日が給料日で懐があたたかくなった。
朱莉はこの帝都、東華で職業婦人なるものをしているが入社してまだ半年の事務員だ。
女は家に居るもの、という意識がまだ強い中、自分で働いてお金をいただく職業婦人への風あたりは強いが、同時に洋装を華麗に着こなすとても華やかな存在だと認識されている。
だがそれは一部のモガだけで朱莉の職場は洋装ではなく地味な着物姿であるし、お給料も微々たるものだ。
それでも自分で稼いだお金は嬉しい。
表情にそれほど出なかろうが、嬉しいものは嬉しいのだ。
「今日のご飯はお肉を奮発。焼き鳥でも買って帰ろうそうしよう」
髪を三つ編みにしてお団子にしたエゲレス結びに、花の散った銘仙を着込んだ朱莉は足早に土道を歩く。
空ではごろごろと雷が鳴っているから、雨が降る前に家にたどり着きたかった。
なにせ降ったら最後、道が泥でぬかるんで悲惨な事になる。
街のそこかしこに電線が張り巡らされたいていの家では一つ電球が使えたとしても、まだまだ土道が多いのが帝都東華である。
一応足下だけは靴で固めているとはいえ、着物の裾が泥まみれになるのは目も当てられない。
そうして途中、焼き鳥を数本あがなった朱莉は、足取りも軽く家路についたのだが。
たどり着いた寮は燃えていた。
脱兎のごとく逃げてくる住民たちに囲まれながら朱莉は呆然と立ち尽くす。
あの中には一応自分の全財産があるわけなのだが、見事に燃えていた。二階だから火の海だ。
「雷獣が出たぞおお!!!」
野次馬の声に朱莉が顔を上げれば、近くの屋根に紫電に包まれる獣がいた。
大きさは2メートルはあるだろうか。紫電に包まれているために獣である以外は判別しがたく、しかし生き物のように脈動をしているのが見て取れる。
西洋から入ってきた物理学、生物学、科学でも不合理だ、非科学的だと頭をかきむしられ、それでも受け入れられる人知の外の存在。それが神魔魍魎のたぐいだった。
なまなかな武力では退けることもかなわないそれは、前の時代ではひたすら過ぎるのを待つばかりの病魔災害と等しいものだ。
しかし文明開化も久しく技術も進んだいまでは、人は対抗手段を生み出していた。
「活動弁士を呼んでこい! 俺たちじゃどうにもならねえっ」
拳銃を引き抜いていた警察の一人が誰かに叫んだ。
そうだ、逃げなければと朱莉は我に返る。
餅は餅屋、神魔魍魎のたぐいは活動弁士に任せるのが一番だ。
だが、最近ちまたを騒がしている雷獣を見るためか、野次馬が恐怖とも興味ともつかない表情で物見高く眺めていて動きは鈍い。
しかしそれも、雷獣の纏う紫電が無差別に周囲へ走るまでだった。
ばん、と大砲を撃つような音と共に、木製の電柱が焼け焦げて倒れてくる。
その電柱の周囲に居た野次馬は、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
ようやく朱莉も走り出す事に成功したが、その足は遅い。
仕方がない。朱莉は女学校でも運動は甲乙丙のなかで最低の丙しか取ったことがないのだ。
しかし無情にも、雷獣がバチバチと紫電を振りまきながら体をたわめて屋根の上から降りてくる。
読みあさった科学の本の知識が朱莉の脳裏に走馬燈のように並ぶ。
雷と同じであれば、おそらく一瞬で距離を詰められてしまうだろう。
そして、電気ショックと言うやつは簡単に人間を焼いてしまうのだ。
なにせ、光の速度は人間よりも遙かに早いのだ。
ああでも。
「せめて、やきとりたべたか……」
炎の橙がかき消されるほどの閃光に目をつぶる。
が、ぐるりと体が回った。
転んだかと思ったが、腰にしっかりと腕が回されているのを感じておやと思う。
さらに膝の裏に手が回され体が浮いた。
朱莉が目を開ければ、見知らぬ男性に抱きかかえられていた。
朱莉は時代の最先端を行く職業婦人であるが、男性に触れられたり抱きかかえられたりするのは初めてであるし驚くのだ。
さらに付け足すのであれば、雷と炎に照らされるその横顔はたいそう美しかった。
年は若い。二十代後半くらいだろうか。
黒髪を襟足あたりで切り、陶器のような肌には染み一つ見られず、鼻筋の通ったかんばせは人形の気品と、刃のような鋭さを兼ね備えている。ほんのりと切れあがった眼に彩られる瞳は炎で揺らぎ星のようにきらめいていた。
人じゃないみたいだと思った朱莉だったが、こちらを向いた青年の顔は焦りと動揺に慌てているように見えて、ぐっと人間くさかった。
「大丈夫ですか!」
「だい、じょうぶですが」
朱莉があなたはと訊ね返す寸前、青年が顔を上げる。
道の向こうで困惑の雰囲気でうろついていた雷獣が、朱莉と青年の方へ狙いを定めようとしていた。
だが、一刻も早く逃げなければならないにもかかわらず、青年はなぜか朱莉を地面に下ろしたのだ。
朱莉が面食らっている間に、一冊の本を押しつけられる。
とっさに握ったそれは、表紙が固く作られた西洋式の本だった。
厚みはそれほどないが、丁寧に作られた高価な物だと一目で分かる表紙を見る間もなく、青年にたたみかけられた。
「お願いです、その本を開いていてください! 最初の頁だけ!」
「さ、最初の頁?」
疑問に答える前に男は雷獣へ向けて駆けだしていて朱莉は目を剥いた。
なにをしているのかと思ったが、とにかく表紙をめくる。
開いたとたん、頁から金の光が吹き出した。
炎にも負けぬその光の筋が一つ一つが文字だと朱莉が気づいたとたん、金の筋は鮮やかに男へと向かいその髪を染め上げる。
同時に、雷獣が消えた。
どんっと大砲を何倍も大きくしたような音が響く。
朱莉は律儀に本を開いたまま、髪が金に染まった男が雷獣を真正面から受け止めているのを唖然と眺めた。
男は触れるだけでただの人なら命を落とすだろう獣の顔を素手でつかまえ、その細い体にも関わらず押しとどめている。
人ではあり得ない光景。だがそれを可能とする存在を朱莉は知っていた。
「言神?」
朱莉がつぶやいたのを合図とするように、男は、車ほどはあろうかという雷獣を投げ飛ばした。
雷獣はまだ燃えていない建物に叩き付けられると、素早く屋根へ上ってどこへともなく走って行った。
逃げていく雷獣を見送った朱莉のもとに、それを成し遂げた金の青年が戻ってくる。
青年は雷獣を押しとどめた時とは打って変わって柔らかな表情で丁寧に言った。
「もう、本を閉じていただいて大丈夫です。ありがとうございました」
「あ、はい」
言われるがままぱたんと朱莉が本を閉じれば、青年の髪は金から黒へと戻る。
表紙の題名を確認しようとすれば男に回収されてしまったが、「言神」の部分だけは読めた。それだけで十分だ。
それは、言語りとよばれる特殊な書物の中に封じ込められた神魔魍魎が顕現した姿。
「言神、なの」
朱莉が頭一つ分は上にあるその秀麗な顔を見上げれば、青年は少しだけ眼を細めてうなずいた。
「はい。夜行智人と申します」
一言ずつ、かみしめるように告げられて、朱莉は息を飲んだ。
近年、神魔魍魎による災厄が減少しているのは、彼らを封じることのできる「言語り」とよばれる書物。そしてそこから顕現する言神のおかげだった。
曖昧模糊とした恐ろしきものを物語によって定義し、奉る事で和魂となった彼らは、人が語ることで力を貸し与えてくれる。
ただ言神は顕現させるためには彼らの物語を語る者が必要だ。
ならば彼を語った存在が居るはずだ、と朱莉は見回しかけたが、夜行智人と名乗った男に再び抱き上げられた。
「うわっ」
「申し訳ありません、ですが火の海なので逃げましょう」
その通りだと思った朱莉は、ようやく到着した火消したちと入れ違うように走る智人にしがみついたのだった。
幸いにも火は燃え広がらず、火は消しとめられた。
しかし朱莉の寮はものの見事に全焼である。全く幸いでも何でもない。
「まあ今回の事は気の毒だったが、会社としてはすぐに何かができると言うことはないね。いったん社に持ち帰って検討しなければ」
「いえ、ですが」
自社の寮が燃えたと聞きつけて駆けつけた隅又商事の社員のなんともいい加減な言葉に、朱莉はなんとか食い下がろうとする。
しかし社員は顔にうっとうしげな色を浮かべると、ぞんざいに言った。
「そう食いさがられてもできることはないと言っているんだ。実家に帰って待機して」
「いえ、私両親とも死別して天涯孤独の身ですから」
朱莉が言えば、社員は気まずそうに口をつぐんだがすぐに続けた。
「ほら先ほど君を助けていた青年、ちょうどよい年齢じゃなかったかね、ああやって抱き上げられる位だから、近しい仲なのではないか? 異性交遊は感心しないが」
あれは非常事態であの青年は言神だったのだ、と反射的に言い返したくなるのを朱莉はぐっとこらえた。
この手の言葉は職業婦人をしていれば毎日のように遭遇する。
言ってもまったく取り合わないだろうし、何よりそれを持ち出したのが方便だと言うのがよく分かっていたからだ。
「いえ、あの方とは初対面です」
「そうか。君も良い年なのだから、これを機会に結婚を考えるのも良いんじゃないかね。まあ見舞金は出すから、なんとかしてくれたまえ」
社員がそう言い残して去るのを、朱莉は虚脱感に見舞われながら見送った。
「いや、分かってたけど、しょっぱいわねうちの会社」
しょうがないし腹が空いてしまったので、朱莉はがれきの一つに腰掛けて、奇跡的に無事だった焼き鳥をかじる。
完全に冷めていたが、鶏肉の弾力と甘辛いたれは腹を満たしてくれて、やさぐれた心がすこし癒やされた。
「とりあえず方針が決まるまで自分で何とかしろですって……。そもそもこちとら上京してる身なんだけれども。ことあるごとに嫁のもらい手とか結婚とかなに言ってるの。それしか頭にないのお花畑なの? 今の時代、結婚よりも経済基盤のほうが大事でしょうに」
文明開化も華やかなりし帝都東華でも女は家につくものという意識が根強く、働いている女性も仕事を結婚までの腰掛けと考える人が多い。だから女子事務員が軽んじられる事は日常茶飯事だった。
結婚よりも自活がしたい朱莉にとっては辟易するばかりだ。理解者がいない。
「はーあの調子だと代わりの寮用意してくれるのいつかしら」
いや、そもそも用意してくれるのだろうか。と最悪の想像がよぎる。
お給料が相場よりも低くともただで寮に住まわせてくれるところが、今の職場を選んだ一番の理由だったのだ。
これで格安の下宿を借りるにしても今のお給料では大変厳しいものがある。
「それに家賃安いところ軒並み怖いところばかりだったものね。それよりも今日の寝床どうしよう。銀行しまっちゃってるからお金は明日まで引き出せないし、今日は野宿? というか待って明日日曜日だし銀行おやすみじゃない……?」
ぴゅうと吹きすさぶ風に、身を縮めた朱莉はひしひしと感じていた。
あれ、これ、大変に危うい状況では、と。
「あの」
すでにあたりは夕暮れに沈もうとしている。行動は早いほうが良いだろう。
朱莉は一縷の望みをかけて無事な家財道具を掘り返してみるか、と思いつつ最後の焼き鳥串をもぐもぐしていれば。
「あの!」
一瞬、自分にかけられた声だと分からなかった朱莉だったが、顔を上げればそこには先ほど助けてくれた言神、夜行智人がいた。
あの騒動から連れ出してくれたあと、朱莉が隅又商事の社員をみつけて話し込んでしまったためろくにお礼も言えなかったのだ。
こうして落ち着いて見てみずとも大変に姿の良い青年だった。
長身のせいかそれとも均整のとれた体格のせいか、暗色のズボンに真っ白なシャツ三つ揃いのスーツという洋装がこれ以上なく似合っている。
さきほどは気がつかなかったが、その肩にはちょうど本が入りそうな鞄が提げられていた。
役者のよう、とでも形容すれば良いのだろうか。とぼんやりと思いつつ立ち上がった朱莉はぺこりと頭を下げた。
「ええと夜行さん。あのときは助けてもらったお礼も言わず失礼しました」
「智人で結構です。いえ、そのようなことは良いのです! ……その今日の宿に困っているとお聞きしました」
聞こえてしまっていたのか。と朱莉は若干決まり悪く頬を掻く。
行儀悪く道ばたで焼き鳥を食べているのは良いのかとどこからか突っ込まれそうだが、そこは別なのだ。
「まあ、なんとかします。生きていれば良いこともあるでしょう」
誰にも頼れないというのは分かっているのだ。強がりでも言わなければやって居られないが、口にすればなんとかなる気がしてくるから不思議だ。
なにせ焼き鳥はおいしかったし。
「……力になれるかも知れません」
「え」
さあ頑張ろうと気合を入れた朱莉は、智人の言葉に目を丸くする。
彼はどこまでもまっすぐなまなざしで朱莉を見つめると、す、とその膝を折ったのだ。
上等そうなスーツが汚れるのもかまわずである。
軸のぶれない見事な跪き方に朱莉があっけにとられていれば、智人はそのまろやかな肌を抑えきれない高揚に赤く染めながら言ったのだ。
「僕のご主人様になってください!」
朱莉はとりあえず蛇蝎を見るがごとき視線を投げた。