おかえりなさい
疲れた――――
何で俺ばっかりこんなに頑張らなければならないのか。
「二ノ宮、悪いけどこの資料まとめるの手伝ってくれないかな。」
お願いという名の命令。
「はい、いいですよ・・・・」
「助かるよ。今日中にまとめて明日の朝の会議に使うんだけどさ・・・」
『え?それって残業じゃん・・・また、ハメられた・・・。』
俺の上司は、こういう手を時々使う。
タチが悪いのは”時々”というところだ。
いつもならば警戒も出来るが、時々だから断る事が難しい。
先に”いつまでですか?”とか聞けばいいと思うかもしれないが、そう言わせない気軽な雰囲気とテンポは天才的だと思う。
『絶対この人は詐欺師になれる』
ハメられた時は毎回そう思うが、結局は後の祭りだ。
「げ、もう11時だよ・・・・」
当の依頼主はだいぶ前に、
『ごめんな、あとお前の資料足すだけだら、無理しない程度にな。あとよろしく!』
と、”必ず終わらせろ”という言葉は使わずにさっさと帰ってしまっている。
「ぜってーあの人詐欺師に向いているよ!」
もう自分一人しかいない事務所で、虚しく大きな声で不満をぶちまけた。
結局、詐欺師にメールで資料を送れたのは12時少し前。終電ギリギリの時間だった。
今から帰ると家に着くのはまっすぐ帰っても1時頃。
電車で30分の駅だが、駅から徒歩で20分近くかかる場所に住んでいる。
普通はバスを使うのだが、この時間ではもうバスは使えない。
タクシーを使うのももったいないが、俺の駅はいつもタクシーがいるわけではないので、待ち時間を考えれば歩いた方が早く着く。
いずれにせよ一人の部屋に帰るには虚しすぎる状況だ。
木曜日という事もあり、帰りの電車はガラガラだ。
駅に着くと予想通りタクシーはいなかった。
「腹減ったな~・・・飯食って帰るか。」
家と駅の中間のあたりに2時頃までやっている味のある(さびれた)居酒屋がある。
定休日は日曜と月曜だが、たまに気まぐれで平日も休んだり、早々に店を閉めている事がある自由気ままな店だが、安いしつまみも美味しい。
家までの道はこの時間ではその店以外は、電柱の明かりくらいしかない。
海が好きだから、海の近くに住みたいなどと不便さもスパイスと思って決めた俺の城も、2年も住めば不便さしか感じられない牢獄になってしまっている。
「お、やってるやってる!」
これで、一人の部屋でお湯を沸かし、虚しさをかみしめながらカップラーメンをすするという悲劇は回避された。
暗い夜道に赤い提灯とほの暗い店の明かりはいつもながらにほっとする。
なんだかんだでこういう事も気に入っているから引越ししないのかもしれない。
「いらっしゃ~い。今日はもうすぐ閉めるからね。
最初に食べ物は頼んじゃってね。飲み物はギリギリまでいいから。」
「じゃぁ、生ビールと・・・」
お気に入りのつまみと、〆のモツ煮メシ(ご飯にモツの煮込みをかけただけだが、これがクセになるくらいに旨い)を頼む。
直ぐに生ビールとおつまみ、そして”これサービスね。遅くまでご苦労さん”と、枝豆の小鉢と、いろいろな種類の刺身の切れ端が盛られた小鉢が出された。
若干不愛想だが、この店の大将は俺の顏を覚えてくれていて、いつも何かサービスしてくれる。
こういうところもこの場所を引っ越せない理由の一つになっている。
この時間だと、常連客が2,3組しかいないのだが、今日は少し違っていた。
カウンターの端に初めて見る女性が一人で座っていた。
この店に一人で飲みに来る女性はたまにはいるが、大抵明るく大将に話しかけたり、悩み事を相談したりと騒がしい常連ばかりだ。
少し美人な雰囲気はあるが、白っぽい服を着ていた事だけ印象に残った。
何も話さず、静かに飲んでいるのが少し気になったが、疲れていた事もあり、食事に集中して早く帰る事だけを考えていた。
一人、また一人と店を出てく。
店に入って30分ほどで、残っている客は自分とあの女性だけになっていた。
〆のメシを喉の奥に流し込み。グラスに残ったアルコールを一気に空にする。
「うまかった~! ごちそうさま!」
店の片付けをしながら、大将がぼそっと呟く。
「1,500円。」
そんな値段のはずはない。
この大将は俺を引っ越しさせないように、あの手この手で攻めてくる。
「いつもごちそうさまです!また来ます!」
「おぅ。がんばって。 お気をつけて。」
俺が店を出で数歩歩くと、すぐに店の提灯の明かりが消えた。
俺が店を出るのを待っていてくれたのだろう。
『あれ?でもあの女の人まだいたよな?・・・』
まぁ、俺が出た後すぐに出たのだろう。
一瞬頭をよぎっただけで、気分よく残り半分くらい距離となっていた俺の城へ足を速めた。
月が赤い・・・
下弦の月が恐ろしく赤い。
月はその輪郭と模様まではっきりと見え、月明かりで照らされる周りの景色も少し赤いように感じる。
思わず後ろを振り返ってみる。
店の明かりはもう見えない。電柱の明かりは、逆に夜道の暗さを濃くしているようだ。
また前を向いて歩き始めようとした視界の隅―――
2本ほど後ろの電柱の下で、何かが揺らいだ。
慌ててもう一度振り返り目を凝らすがそこにはぼんやりした電柱の明かりとそれに照らし出された地面しか見えない。
ほろ酔い加減な事もあり目の錯覚だと言い聞かせた。
歩く―――
歩く―――――
あるく―――――――――
家までこんなに遠かっただろうか?
こんな道だったろうか?
もうすぐ先にあるはずの壁の角を右に曲がれば切れかかって明滅しているアパートの蛍光灯が見えるはずだ。
この壁はこんなに続いていただろうか?
角がなかなか見えてこない――――
背筋に何か冷たいものが流れる。
その冷たさに全身に鳥肌が立った。
まだ夜は蒸し暑い。
しかし、暑いから流れた汗ではない。
何かが自分の後ろを付いてきている気がする――――
心拍数を上げるモノ、背筋を冷たくさせるモノが――――
『あの人・・・』
店でカウンターの端に座っていた女性が頭に過った。
『ど、どんな人だったっけ?
女性で・・・、白っぽい服着てて・・・あと、あと・・・』
何故かそれ以上の印象が思い出せない。
あの人はあそこに本当にいたのだろうか?
他の人に彼女は見えていたのだろうか?!
そんな考えがぐるぐると頭の中を巡り始める。
やっと壁の角が見えた!壁の角に手を伸ばそうとした瞬間・・・・
生暖かい何かがふわっと、自分の脇をすり抜けていく
「うわぁぁ!!」
首筋に何かがまとわりついたような感じがして、あわてて拭い落とそうとするが、首や顔を払う手には何の感触も感じられなかった。
電柱の明かりの下で、もう一度周りを良く見渡す。
酔いはすっかり抜けてしまった。
さっき通り過ぎたモノが、すべて持って行ってしまったようだ。
アパートと反対側にあるガードレールの向こうには、砂浜と海が見える。
赤い月に照らされた、紅く黒い波が自分に迫ってくる。
そこから、何かが押し寄せてくるような感じがした。
『早く家に!』
もうそれしか頭になかった。足は自然と速足から駆け足に変わっていた。
あの角を曲がれば1分もしないうちに玄関に辿り着く。
ドアの鍵を開けなければいけない。
しかし、立ち止まった瞬間に何かに追い付かれるかもしれない。
鞄の中の鍵を指先の感触で探す。
冷たく固い金属の感触と、なじみのあるキーホルダーの柔らかい感触が指先に伝わり、それをしっかりと手のひらで握りしめた。
アパートはもう視界に入っている。
『よし、あとは・・・』
カキン―― カキン・・・ チリリリリ・・・
『!!』
鞄から取りだした鍵は何故か指先から逃げ出し、アスファルトの上で硬質な金属音を奏でた。
「マジかよ!!」
”拾わず部屋に逃げ込むか?! いやいや、鍵が無ければ部屋に入れないだろ!!”
『馬鹿か俺は!』
アスファルトに両手両ひざを突き、手探りで鍵を探す。
『来る・・・来る!!』
なにが? そんなの知らない! でももうそこまで来ている!!
手になじみのある感触が触れる。
「あった――― あった!!!」
思わず上ずった声がでる。宝物を見つけたように心が躍る。
次の瞬間アパートのドアに向かって全力で走っていた。
『もうそこまで――――!』
鍵はすんなりと鍵穴に吸い込まれ、ドアもスムーズに開き体はその隙間から絶妙なタイミングで部屋の中に滑り込んだ。
ドアを背に手探りで鍵をかけ、”フゥー”と肺の奥から息を吐き出した。
酔いは完全に抜け、身体は変な汗をかいていた。
Yシャツは冷たく、息は荒い。
『―――小学生のガキじゃあるまいし、なにビビってんだよ俺は・・・・』
激しく脈打っている心臓は、走ったせいなのかそれとも違う原因なのか?
しかし、そんなことはもうどうでもいい。
後はシャワーを浴びて、また明日の朝仕事に向かう為に布団に潜り込むだけだ。
部屋の奥のカーテンの隙間の窓は、あの赤い月の色に染まっていた。
「ただいま。」
口癖で一人の部屋に挨拶をして明かりのスイッチに手を伸ばしたとき―――
「おかえりなさい・・・・・・」
明かりが点く前の部屋の奥から、優しい声が聞こえてきた――――