お菓子な桃太郎
百崎健太郎は額の汗をぬぐった。九月ももう下旬にさしかかろうとしているのに、日ざしは衰えることを知らないようだ。
個人経営のスーパーを狙い飛び込み営業をかけたが、取り付く島もなかった。無名の零細企業〝猿川堂〟の商品をおいてくれるような店はなかなかなかった。
いつしか夏の盛りには、半そでのYシャツにノーネクタイが当たり前になっていた。それでも一日中外回りで営業をすると、汗が間断なく身体じゅうを流れしたたった。カバンには〝猿川堂〟が新たに開発したスナック菓子〝デリシャスティック〟がぎっしり入っていた。もともと和菓子専門の〝猿川堂〟が人気商品をまねてつくった棒状の駄菓子だ。
〝猿川堂〟は和菓子専門とする老舗で、社員三十人ほどのちいさな所帯。社長の息子が健太郎の幼なじみで、就職先がなかなかみつからないところを誘ってくれた。〝猿川堂〟で健太郎に与えられた仕事は、新規の販路を開拓する営業の仕事だった。入社から二年の月日がすぎていた。
来る日も来る日も成果の出ない外回りに疲れ果て、開発企画部への異動願いも社長には受け入れられなかった。
きっと次もまただめだろう。
新規開拓も、異動願いも。
やりがいがあるでもなく、給料もあがる見込みもなければ同棲している彼女に結婚をきりだせるのもいつになるかわからない。
首もとのボタンをひとつ外しひっぱっても、生あたたかい空気がただ出入りするだけだった。飲み物を買おうと自動販売機をさがした。視界に入ったコンビニに向おうと近づくと、小学生の男の子の一団が自動ドアから出てきた。手には何枚かの銅貨で買える駄菓子をもっている。
貧しかった健太郎は小学生のころお菓子を買う小遣いすら満足にもらえなかった。無頼漢の父は借金をつくって家を出た。顔さえ思い出せず、生きているかもわからない。
女手ひとつで健太郎を育てた母は、中学を卒業するころ身体を壊し鬼籍に入っていた。
駄菓子はどれも健太郎が入社できなかった有名メーカーの商品だった。先頭の小学生は棒状のスナック菓子を握りしめている。
〝うまー棒〟はかれこれ三十年以上前に発売されたロングセラーの人気駄菓子だ。軽快な食感と安価な価格設定は子供たちに大人気で、近年ではバラエティに富むフレーバーのラインナップが万人に支持されていた。
そんな人気商品の開発をすることが健太郎の夢だった。
うつろな目で小学生を追った。男の子は健太郎の前で立ち止まる。
見覚えのない配色の包装だった。
〝うまー棒〟のフレーバーラインナップはそらんじているが、この配色はみたことがない。
男の子が包みを破った。耀くような小麦色の中身がとりだされたとき、一陣の風があたりをさらった。
男の子の手をはなれた包装は健太郎の頭上を舞い、車道のほうにひらひらと落ちる。
何味だろう?
包装を拾うおうと車道に歩み出た健太郎の耳には、激しく鳴らされるクラクションが聞こえなかった。
やわらかな陽光が窓から伸び、男の頬をくすぐった。寝過ごしたことに気がついてあわてて身をおこした。
頭が重い。
なにやら夢を見たようだが思い出せない。
くり返される日常に絶望し、炎天下を歩き回り、そして最後に見たあれは……。
男はぼんやりとしたもやをふりはらうように頭を振った。今日は朝一番で長老様の館にくるように呼ばれていた。ぐずくずはしてられないと、支度をすませ長老の館に急いだ。
長老は村の長にして男の親代わりであった。村の外れにあるレーテの泉に流れついた桃から男は生まれた。館の大広間にひとりすわり長老は男を出迎えた。
「よくぞまいった。そこにすわりなさい」
「長老さま。大事なようとは一体なんでございましょう?」
長老は白髪混じりのひげをなでながら鷹揚に切り出した。
「お前をあの桃からとりだして、今日でちょうど二十年になるな」
男は桃から生まれたゆえ、桃太郎とあだ名されていた。
「はい。実の子供のように育てて頂いたことは感謝してもしきれません」
長老は「うむ」と首肯しながら、しばらく考え込んだ。
「桃の中におったおぬしは一本の杖をだきかかえておった……」
はじめて聞く出生の秘密だった。
「その杖がなにか?」
もったいぶる長老をせかすように桃太郎は身をのりだした。
「杖はまがまがしい魔力を放ちわしにこう語りかけたのじゃ!」
『我は破滅の杖なり。いまから二十の年月を経て、我をもとめ封じ込められた魔王が復活する。魔王の欲望何人たりともとめがたし』
「あの伝説の魔王が! この世はどうなってしまうのですか?」
桃太郎は子供のころから、この世を支配しようとたくらむ恐ろしい魔王の存在を聞かされていた。
「落ち着け! 杖はこうも語りかけたのじゃ!」
『我が消滅すれば魔王も消える。われを消滅させたければはるか北、魔界の一番奥にある永久氷壁の断崖の底に我を投げ落とすべし』
長老がゆっくり立ちあがった。
「破滅の杖とともに生まれた赤子よ! 今すぐ魔界に向って旅立つのだ!」
長老が手をかざすと、部屋の奥の扉が開き祭壇が現れた。祭壇はひもにつるされたお札で結界がはられ、破滅の杖が祭られていた。進み出た桃太郎は破滅の杖を手にとった。
再び激しい頭痛が桃太郎を襲う。勢いよく頭をふると、霧が晴れるように手にとるものが何であるか理解した。
どうみても破滅の杖は、ロングバージョンの〝うまー棒〟たこ焼きフレーバーだった。
長老は旅立つ前に、村の外れの賢者の森にあるレーテの泉で身を清めるよう桃太郎に指示をした。賢者の森に向う桃太郎にいつしかお供の動物たちがつき従っていた。
桃太郎が生まれた同じ日に、レーテの泉のほとりで拾われた忠犬ケルベロス。
道中猟師の罠にかかっていたところを桃太郎が助けたキジのゆりこ。
〝うまー棒〟の臭いにつられお供を申し出た猿のケンジ。
ほどなく、一人と三頭は賢者の森に分けはいっていった。そのようすをうかがう一つ目の存在に、桃太郎は気づいていなかった。
――魔界・鬼岩城王の間
「魔王様。やつらレーテの泉にむかっているようです」
何もない暗闇から声がひびいた。
照明は部屋の中央にくべられたたかがり火だけだった。玉座に座り、ぼんやりとしたあかりにてらされて不敵な笑みを浮かべるこの男こそ魔王だった。燃えたぎるような湯気をあげる液体の入ったワイングラスをくゆらせ注げと命じた。
「すべては魔王様の思い通りに……」
暗闇から声に続き、ひりだされるように奇怪な一つ目があらわれた。魔王の配下、小悪魔ピエロは魔王のグラスのワインを注ぎながらくつくつと笑った。
「手はず通りにな。行け!ピエロ」
「はっ!」
「奴らのなかに一人邪念をもったものがいる。その心を利用し破滅の杖を奪うのだ!」
魔王は目を見開き、ピエロの消えた闇にむかってひとりごちた。
桃太郎一行はレーテの泉をさがし、賢者の森を奥へと進んだ。
「桃太郎の旦那。そろそろ休みましょうぜ?動物虐待じゃあるまいし」
「だいぶ暗くなってきたし、そうしようか」
勝手についてきたくせに猿のケンジは不平不満ばかり言う。それをキジのゆりこがとがめ、雰囲気は険悪になる一方。
罠から助けられはじめはしおらしかったゆりこは、ケンジとそりが合わずことあるごとにつっかかった。
犬のケルベロスは鼻息あらくただ先頭をつき進んだ。
樹齢百年はこえる広葉樹ばかりが枝葉を交錯させ、賢者の森は日中から薄暗かった。日が落ち行き、細った陽光は葉間を抜けられず夕暮れがあたりを支配しつつあった。レーテの河の支流が流れ込みつくられたよどみなき泉が、この賢者の森深くにあると言われていた。
レーテの泉の場所はわからず日もすっかり暮れ、一行は適当な木立の下にテントを張った。ロウソクを消すと、目をつむるより深い闇が広がった。一日歩き通した疲れから、桃太郎たちはあっという間に眠りに落ちた。
暗闇に目玉がひとつ浮んだ。
「キキキ。何も知らずによく寝てやがる。わかるぞぉ! そこのいびきをかいているやつだ!」
標的を見つけた小悪魔ピエロは、黒いかたまりになり大いびきをかく猿の口に飛び込んだ。
「キ…キキ……ウキキ――!!」
「ちょっとうるさいわね!」
ケンジとキジのゆりこがまた口喧嘩をはじめたのか。桃太郎が目をこすりながら身を起こすと、ケンジがゆらゆらと背中を向けて立ち上がった。
「やるき?」
「まて、ケンジの様子がおかしい」
羽をひるがえし身構えたゆりこを制止した。ゆっくりと振り返ったケンジの顔は、猿のものではなかった。
「うがー!」
飛びかかってきたケンジが桃太郎におおいかぶさった。振り払うとケンジは狂ったようにひと鳴きして、テントから転がり出た。
懐にしまっていた破滅の杖がなくなっていた。
「あいつ! 〝うまー棒〟をもっていったわよ! 借金のカタにするつもりよ」
「破滅の杖が!」
ゆりこがおかしなことを言ったのを聞き流した桃太郎は、ケルベロスを呼んだ。
「あれはケンジのアホ面じゃない! 何かにとりつかれているんだ。行け! ケルベロス!」
「バウバウ!」
テントの外で休んでいたケルベロスは、森の奥に消えたケンジを追って闇に飛び込んだ。
ケルベロスを追い必死に走るうちに、いつの間にか森を抜けていた。満月に近い月の光が水面をてらす。桃太郎はからずもレーテの泉を見つけた。土手の上で二頭の獣がもみあっている。ケルベロスは泉のほとりでケンジに追いついていた。桃太郎の後ろで、ゆりこが息を切らせながら羽をたたいた。
「ケルちゃん。やるじゃん!」
「よし! あ!」
もみ合った二匹は、バランスを崩し土手を転がり泉に落ちてしまった!
「まずいわよ。ケンジってカナヅチじゃ?」
「ゆりこ! このロープを投げてくれ! ケンジ! これをつかめ!」
投げ込まれたロープをケンジがつかむ。引き上げられたケンジをゆりこが責めた。
「あんた! 何やってんの?」
「はい?」
ケンジはもとのアホ面に戻っていた。
「早く〝うまー棒〟を返しなさいよ」
「はい??」
「ケンジ! 何ももっていないのか? 破滅の杖はどうした?」
「だから、はい??」
「もしかして泉におとしちゃったんじゃない? 何やってんの? どうするの?」
ゆりこはケンジの濡れた肩を羽でつかむようにし、激しくゆさぶった。桃太郎は途方にくれて、ケルベロスが犬かきで泳ぐ泉のほうに頭を振った。
水面に浮ぶ真円に近い月が、犬かきでできる細かな波でゆらぐ。そのゆらぎがだんだん大きくなったかと思うと、耀きが泉の全てをおおっていく。やがて耀きは容をなし水面にたちあがった。耀く美しく若い女性に桃太郎は目を奪われた。村に伝わる伝説のレーテの女神が桃太郎に優しく語りかけた。
「あなたがおとしたのは、この〝たこ焼きフレーバーのうまー棒〟か?」
レーテの女神は両手に棒状のものもちかかげた。
「それとも……この〝ジョジョ苑・超高級A5ランク霜降り松坂牛フレーバーのうまー棒〟か?」
芳醇な香りにケンジが目ざとく反応する。
「ジョジョ苑ですぜ!」
「ばか!」
ゆりこが罵倒しながらケンジを泉に蹴落とした。桃太郎は大きく息をすいこんでゆっくりと指差し答えた。
「女神さま、私がおとしたのは、たこ焼きフレーバーの破滅の杖です」
女神は輝きをはなつ笑顔を桃太郎に向けた。
「あなたは私が思った通りの正直ないい子に育ちましたね……これをあげましょう」
女神の手を離れた耀きがただよい、桃太郎の目の前にゆっくりととまった。まばゆい耀きの中から赤い箱があらわれた。
幼いころ母の給料日は銀色の硬貨をもらうことができた。それで月一度それを買うのが楽しみだった。赤い四角い箱をあけると、中には何本も黄金色のスティックが入っている。さくさくの食感にほどよい塩味。それでいてノンフライのローカロリーには若い女性も大喜び。これまたロングセラーの人気お菓子。
それはどうみても〝じゃがロング〟だった。
「女神さま! 違います! これは破滅の杖ではありません!」
「あら? わたしとしたことが、間違っちゃったわね。あながたいつも買っていたのはこれね」
「……??」
女神が指を鳴らすと、桃太郎の目の前に浮ぶ箱の色がかわった。
「たこ焼きフレーバーの〝じゃがロング〟よ!」
「女神さま! ものが違います!!」
「けけけ! 破滅の杖はいただいた!」
闇のかたまりはケンジから奪った破滅の杖をつかみ、ひとつ目玉の小悪魔の姿に変化し虚空に消えた。
桃太郎一行は旅を続け、極寒の魔界をすすんだ。いつの間にかすり替えられてしまった破滅の杖に、これでいいのかとの疑念をふりはらうかのように桃太郎はただひたすら歩みを進めた。
泉に落ちて以来なぜかケンジの身体は乾かず、風邪をひいてしまった。ことあるごとに何本もあるからいいだろうと〝じゃがロング〟を食べようとした。
いつもはケンジをいさめるゆりこも、冷え性なのか魔界に入ってから気勢をあげなくなった。
ただケルベロスだけが白い息をはきながら前へと突き進んでいた。
数々の苦難を乗り越え、桃太郎たちはついに魔界の一番奥にある永久氷壁の断崖をのぞむ山頂にたっていた。
この断崖の奈落に破滅の杖を投げこめば全てが終わる。
ただそれがこの〝じゃがロング〟でいいのかとの思いはあったが。
奈落の底から吹きすさぶ風が、桃太郎を吹き飛ばそうと身体をあおった。桃太郎は万感の思いを込め〝じゃがロング〟をかかげ、断崖に投げ込もうとした。
「ちょっと待てぇい!」
断崖に野太い声が響き渡った。足場のない断崖の先、奈落の上に何かが浮んでいる。桃太郎の見覚えのある男が叫んでいた。
「……長老さま? なぜここに!」
「よくやった。桃太郎よ。ご苦労だったな」
肩をゆらし大きな笑い声が谷間にひびいた。長老の肌はみるみる青く変わり、耳が伸びた。
息をのんだ一行の沈黙を、ケンジの大きなくしゃみが破った。ゆりこが声をふるわせた。
「あいつは……伝説の魔王よ!」
「バウバウ!」
「まさか……そんな……」
桃太郎は膝から崩れ落ちた。
「こうなることは二十年前からきまっていたのだ」
「どういうことだ?」
桃太郎は懸命に声をふりしぼった。
「破滅の杖なぞいつでも奪うことはできる」
魔王の手には〝うまー棒〟ブラックペッパーフレーバーがにぎられていた。もはや味がかわっていることなどどうでもよかった。
「二十年前。この杖とお前が持つその杖の力で私の魔力は封じ込められた。それを完全に取り戻すには、魔界の魔力が一番強いこの場所で、二つの杖を我が身体に取り込むことが必要なのだ!」
「それで桃太郎をずっとだまし続けていたのね! なんて卑劣な」
ゆりこが羽を地面に打ちつけた。
「もう一つの杖があの泉に……あの女のもとにあることはわかっていた。そして最後に教えてやろう。もう一つの杖を持ち歩くことができるのは、成人した女神の息子だけであるということを!」
魔王の高笑いに打ちひしがれる桃太郎。その手から〝ポテロンゲスト〟たこ焼きフレーバーが滑り落ち地面を転がった。
「愚かな。今だ! ピエロ!」
うなだれる桃太郎の影から一本の腕が伸びた。〝ポテロンゲスト〟をつかんだうでから引っ張られるように、一つ目の顔があらわれた。
「バウバウ!」
影から飛び出した小悪魔は、飛び掛ってきたケルベロスをかわし断崖を滑空し魔王のもとに戻った。
「でかしたぞピエロ。この二つの杖はひとつになってこそ真の力を発揮するのだ」
「どういう意味よ?」
ゆりこがばたつかせた羽で砂埃が舞って、ケンジはいっそう咳き込んだ。
「なぜこの破滅の杖には穴が開いているかわかるか? それはこうするためだ!」
魔王は〝うまー棒〟の真ん中の穴に〝ポテロンゲスト〟を差し込んだ。
「これこそが破滅の杖の真の姿なのだ!」
呆然とただうなだれる桃太郎の後ろで、ケンジがガタガタと震えだした。
「キ……キキィ……」
「何やってるの? 寒いの? バカじゃないの?」
ゆりこは寒さも忘れてケンジに怒りをぶつけた。
ケンジの様子がおかしい。きりりとむすんだ眦は意思の強さが現れたものだった。ケンジは激しく震えながら立ち上がった。
「……許さん……さんざん人の心を持て遊びやがって! 許さんぞ魔王! てめえらの血の色は何色だ!!」
「猿ごときに何ができる!」
怒りに震えるケンジの身体が突然金色につつまれた。金色の耀きはケンジを離れ、矢となり飛翔し魔王の右腕に突き刺さった。
ひるんだ魔王が破滅の杖を手から離すと、それは奈落の虚空の上にピタリと浮んだ。
ピエロが魔王にささった光の矢をつかんだ。
「小悪魔よ! 消えなさい!」
光に触れたとたん、小悪魔は悲鳴をあげ蒸発するようにかき消えた。
桃太郎はまばゆい光の矢が、だんだん人の形になるのをまのあたりにした。ケンジは不思議そうに自分お身体をなでまわした。
「あれ? 身体がかわいた!」
「ありがとうお猿さん。ここまでつれてきてくれて。あなたの心のスキにちょっと入らせてもらったわ」
光の矢は魔王の腕を力強くつかむ美しい女性の姿に変化した。
「女神さま!」
女神は桃太郎ににっこり微笑んだ。
「待っていたのよ。貴方が姿を現すのを。二十年ぶりね?」
「まさかこういう形で再会することになるとはな」
魔王は右腕から青い血を流しながら苦痛に顔を歪めた。女神は桃太郎のほうに振り返った。
「息子よ立ち上がりなさい! 今の私のでは長く魔王を抑えることはできません。二十前のあの日、力の欲に目がくらんだこの男を破滅の杖の穴の中に封じ込めようとしました」
女神は目をつむりゆっくりと首をふった。
「でも、情があったから完全に封じ込めることができなかった。力を使い果たした私は泉から動けなくなり、赤子であったあなたにひとつの杖をたくすしかなかったのです」
「おのれ!」
残った左腕で放った魔王の手刀が女神に肩口に食い込んだ。美しい顔がゆがむ。
「もう一度言います。泉を離れた私は長く実体化できません。消えてしまいます……。破滅の杖をとりもどすのです!」
光り輝く女神の身体の右肩辺りが、次第にドス黒く変色していった。女神は食い込んだ魔王の腕もつかみはなさない。
「破滅の杖を食しその味を叫ぶのです! それが魔王を完全に封じ込める言葉になるのです! 早く!」
桃太郎はしっかりと立ち上がった。完全体になった破滅の杖は、強風をうけながすように奈落の上に浮んでいた。
「あそこまで一体どうやって?」
「わたしに乗って!」
ゆりこが羽を大きく広げた。
「無茶だ! 危険すぎる!」
「この中であそこまでいけるのは私だけよ。考えている余裕はないわ!」
桃太郎が意を決し背中に乗ると、ゆりこは奈落の底へと飛び出した。吹き上げる強風に失速しそうになりながら、ゆりこは懸命に羽ばたいた。
破滅の杖がみるみる近づく。
桃太郎は奈落におちるのをいとわず手を伸ばした。
破滅の杖をつかんだ桃太郎はゆりことからむように断崖の向こう側に倒れこんだ。
ふきすさぶ風が突然とまる。
立ち上がった桃太郎は破滅の杖を口に入れた。
外側はぎっしりつまった焼き小麦がサクサクした食感で、それを突破するとザクリと小麦の密度がかわり歯茎に違った圧力をつたえたる。
外側の刺激が強いブラックペッパーが、内側の濃厚たこ焼きソースと合流し、さらなるうねりとなって舌の上で踊り狂った。
「味を叫ぶのです!」
「やめろ!」
女神と魔王の叫びが一緒になって奈落に木霊した。
ブラックペッパーとたこ焼き味のまざったもの。
「わからないよ!」
桃太郎は思わず本当のことを口走ってしまった。
「……そうよ……わからないのよ! 人生はどうなるかわからない。だから人はその一瞬を一生懸命生きるのよ! 消えなさい!」
弱まりかけていた女神の身体がいっそ光り輝く。銀紙がはがれるようにそれは魔王の身体に張り付いていった。
「離れろ!」
魔王の闇の身体が女神の耀きに相殺され消えていった。
「わからいとう言葉と私の身体をもって貴方を永遠に封じます」
「そんな、お別れなんて!」
「くそう」
女神も魔王も交じり合い、胸の下まで消滅していた。
「愛した女と永遠にすごせるなんて素敵でしょ? 昔の貴方に戻って。もう私たちのあの子にあえるのはこれが最後なのですよ。貴方を愛したことを間違いと思いたくないわ」
「…………」
魔王は観念したのか、女神に振り下ろしていた手刀をぬいた。もうその腕も消えかけている。女神は断崖のぎりぎりで足を投げ出しすわっていたケンジのほうを語りかけた。
「お猿さん。あたなの心は弱いわ。でも弱いからこそ誰かの弱さも受け入れてあげられる。ご一緒してそれがよくわかりました」
ゆりこのほうをむいた女神の首のあたりも消えかかっていた。
「キジさん。いざというとき一番頼りになるにはあなたです。息子をよろしく。二人とも……」
泣いているのかゆりこは、羽で顔をおおっていた。
「ケルベロス二十年間ありがとう。さあ、一緒にいきましょう」
ケルベロスが奈落にジャンプすると、身体が光の粒子にかわり女神のほうにただよっていった。女神の顔は魔王の顔にくちづけするように近づき、ほとんど消えかけていた。
「息子よ。いつまで続くかわからない人生を精一杯生きるのです。最後に、あなたの名前を教えて。私たちのつけたお前の本当の名前を」
桃太郎はきえていく二人をつかもうと、とどかぬ虚空に手を伸ばし叫んだ。
「俺は! もも……百崎健太郎だ!」
目をさますと婚約者の雉牟田百合子がベッドのわきに座っていた。瞳にみるみる涙がたまり、堰をきったようにほおをつたった。施設で知り合い高校卒業と同時に貧乏同棲を始め結婚を意識する仲となっていた。
右腕が包帯でぐるぐる巻きに固定され、左足は石膏でかためられていた。身体を動かそうとするとそこかしこに激痛が走った。
百合子の話によると、健太郎はトラックにはねられこの病院に搬送され緊急手術を受けた。一命をとりとめたあとも意識はもどらず、一時は植物人間になることも覚悟したらしい。
事故から一週間たった今朝、突然自分の名前を叫び、意識が戻る兆候があると聞かされ病院にかけつけたのだと百合子は説明した。
「どうして道にとびだしたの?」
「心配させないで」
「何やってるの? バカじゃない」
涙声でしゃくりあげながら責めたててくる百合子を健太郎はどこか懐かしく見つめていた。
病室のドアがあき、猿川賢次が入ってきた。〝猿川堂〟の跡継ぎで、健太郎を入社させてくれた小学生時代からの幼馴染だった。先月までは専務だったが、接待費の使い込みが親父さんにばれ健太郎と同じ平社員に降格させられていた。
「やっと目をさませたか」
重傷者を前にのんきな冗談を吐きながら、差し入れだと袋を差し出した。〝猿川堂〟の在庫からくすねてきただろう売れ残りの和菓子の詰め合わせセットだ。
どうやら生きているらしい。
傷がいえれば、またこの二人と毎日顔をあわせる当たり前の人生が続いていくのだろう。
そういえばあの小学生の男の子がもっていた〝うまー棒〟は一体何味だったのだろう?
わからない。
わからないことをわかろうと努力するから、人は一生懸命生きていける。そんな声が聞こえた。