第八話
茜色の空の下、光景が朱に染まっている。
夕暮れ、昼と夜の狭間、黄昏時。盛り場に灯が点るには少し早く、仕事を終えた人々が足早に家路を急ぐ頃。俺達三人はその村の外れに居た。
「思ったより活気があるじゃないか」
夜の時間には魔が潜む。エッフェンベルグに程近い近隣の人里ならば十分にその恐怖を知っていると思っていたのだが。斜陽の時間にも、村の様子は平穏そのものだった。
「まるで平和だな」
「十年一昔って言うじゃない?」
俺の独白に傍らの男が答えた。
「喜びも悲しみも、痛みも傷も――恐怖だって。時間は何よりの名医サマ。
この十年彼等にとって平和過ぎたって事さ。ねぇ? リーゼロッテサマ?」
噂の『黒烏』パウル。
短めの黒髪に細い鳶色の瞳。黒い襤褸のマントを羽織っている。
歳若くは見えるが何処か年齢不詳の気もある。そんな不思議な男だ。
「リーゼロッテサマは、可愛いなア」
反応が無い事は、折り込み済みだったのか。
悪鬼に似合わぬ陽気な口調と人好きのする笑顔で――鴉の魔術師は言う。そんなヤツに再度水を向けられたリズはやはり軽口に応える事もせず憮然とした顔で小さく鼻を鳴らすだけ。
「そんなに拗ねる事かよ」
「私、拗ねて等おりません」
俺に相対する時には珍しくきっぱりとした否定の口調が返ってきた。
「機嫌直せよ」
「ですから、私は別に普通ですわ」
この同行者をフォローする、では無いが……
あやしてやってもリズの機嫌は傾いたままだった。『本当に用がある時は、姿を見せる』パウルは、『そうでなくとも都合が良ければタイミング良く現れるタイプ』だったらしい。先刻コイツは宝石の城門で……まるでやり取りを聞いていたかのように意地の悪い笑顔をして俺達を出迎えたのだ。
――おや、ディルクサマ。これから何処かにお出かけで?
驚きと言うか、落胆と言うか、恨めしさと言うか……何と言えばいいか。
その時のリズの表情が忘れ難い。その変化が余りに愉快で俺はコイツの同行を許す事にした。リズ自身の言葉「俺が望むなら如何様にでも」に倣ったまでである。
まぁ、しかして――女ってのは感情の動物だ。彼女は自身の言葉を裏切り御機嫌斜めの御様子だが。
「それにしても……平和、ねぇ」
先程のパウルの言葉を思い出し、俺達の言えた義理か? と苦笑い。
「ええ。実に素晴らしい平和でしたよ。
御存知とは思いますけどね。エッフェンベルグの森はヒトを惹く。そういう魔性を秘めている。
ボク達が暫くを生きる為だけのお食事なら『迷い子』だけでも事足りるんですよ。ただでさえ大報復で大いに食い溜めしたんだし」
森は意思の弱い者を引き寄せる、と言えばいいのか。そういうモノらしい。
かつての征伐に対するリズの復讐は壮絶を極めたと聞いた。実に一昼夜に千の命を奪い、力を得て眷属を作り直した彼女は準備万端を整えて休眠の時に入ったと聞いている。
「待てよ……?」
そこで一つ疑問。
「百を超える眷属共までもが、か?」
「いいえ。ですが……まぁ、吸血鬼というモノはですねぇ。
読んで字の如く生き血を啜るバケモノでして。それ以上でも以下でも無く。別に人間が相手じゃなくても構わないって事じゃないでしょうかねぇ」
他人事のようにパウルは言う。
「リーゼロッテサマは下位の連中が人間を襲う事を全面的に禁じられましたからねぇ。
要は人間で口に糊をしてきたのはリーゼロッテサマとボクだけだった訳で……
ま、ボクは獣の血を啜るなんて御免蒙りますしねぇ。だって、美味しくないですし」
「ああ、やっぱり他人事だな。そうだ。お前はそういう奴だった」
納得。
「御理解が深くて恐縮ですよ、ディルクサマ。
ですから報復後は……まぁ、凪? 十年も悪魔が姿を見せなければ勘違いの一つもするでしょう?」
パウルは何処か楽しそうに言葉を続ける。
「鴉を連れたお姫様。その白い手は小さくて。身も心も一つきり。幸運にも一つきり。
お陰で近隣の町村は百年振りの黄金期を迎えましたとさ。
げに恐ろしきは恋心。澱の魔女にも恋心。嗚呼、牛飲馬食の欲望も。貴方の為なら何とやら――」
大袈裟にポーズを取って祈るポーズをとって見せたパウルは、黙ったままのリズをからかうようにくっくっと笑う。吐き出された冗句は奇しくも俺が彼女に投げた言葉と同じだった。
「――その代償に村が二つ、町が一つ虐殺されたのは御愛嬌。
げに恐ろしきは恋心。澱の魔女の恋心。不器用な乙女は……いやはやどうして。絵になるなぁ」
「……本当に……心底イヤなヤツですわね」
吐き捨てるようにリズ。
「リーゼロッテサマは本当に可愛らしい御方ですよねぇ」
「反吐が出ますわ。思わず、この手で縊り殺したくなる位」
蛇蝎に向けるかのような目。顰められた柳眉にもパウルは気にした風は無い。
「あはは、そういう目ってぞくぞくするなア」
人間等、それだけで射殺してしまえそうな視線を受けても至極楽しそうにけたけたと笑っている。
「さて、ディルクサマ。ボクの説明は十分でしたでしょうかね?」
「必要以上にな」
つまりリズが復活の儀式を構え宝石に引き篭もっていたこの十年。近隣の人里は一時的にながら吸血鬼の脅威から開放されていたという事だ。争いを控える事を選んだリズ自身は、敵を恐れ息を殺すタイプには見えないが俺が絡むなら頷ける。
……言葉にすれば自意識過剰にも聞こえ辟易するが。リズの場合は本当にそうなのだ。
「十分に砂上の楼閣という事は分かったよ」
夕日に影を伸ばすこの穏やかな光景なんてモノは。
丁度今時分と同じ刹那の時。昼と夜の狭間、短い変更の時間――短い、幻想に過ぎないという事は。
「何時まで平和なままなのやら、な」
「まぁ、其方は何れ……ですわね」
そう応えたリズは果たしてどんな感想を抱いたのだろうか。少し醒めた調子で平和な村の夕刻を見つめていた。「要は、優先順位の問題ですから」と言う彼女は皮肉に笑み、艶やかな白磁のような牙を口元に覗かせる。
「ディルク様?」
「あん?」
「人間も家畜を肥えさせ喰らいます。この狩場自体も――そんな風に見えません事?」
「は――」
何と言う言葉か。
「屠殺される豚はその日まで何を考えているのでしょうね?
此の世の基本構造に気付かず、変わらぬ平穏な日常が――明日が常にやって来るモノと信じ切っている。
それは私に言わせれば……滑稽――そう、滑稽な。まるで一流の喜劇のようですわ」
先刻までの不機嫌も忘れてリズは楽しそうに笑っていた。
嗜虐的な言葉は残酷であくまで冷淡に吸血鬼の持つ常識と事実を告げていた。
理由あって相容れぬ、では無い。そも相容れようとするその心算自体が無い――当然の結論。
それは単純な邪悪とも違う。つまりは認識が、常識が、根本的に違うだけ。
この場合はヒトの立場から見れば逸脱しているだけ……だ。
それを神ならぬ誰かが罪と咎める事はおこがましい。同じヒトの身においても、その貴賎や性質で下衆や外道がまかり通るのだから、さもありなん。ましてや、悪鬼に人道を期待する方がおかしかろう。
「皆さん、一体どんな風に泣くのかしら」
リズは俺の内心を知ってか知らずか軽く言う。
「皆さん、どんな風に抗うのかしらね?」
確かにその惨劇を用意する事は俺達にとってはいとも容易い児戯に違いあるまいが。
「そんなに楽しいか?」
「ええ。とても」
問い、それから思わず肩を竦める。
確かに村一つ分の命を浴び啜る事は相応の饗宴となるだろうが……
「だって、吸血鬼は奪うモノでしょう?
欲しい何かがあれば、奪う。したい何かがあるならば突き通す――それが流儀。
そこに『得難い何か』があるのならば、常に迷いは禁物ですわ」
真っ直ぐに俺を見つめる瞳には何ら躊躇が無い。ああ、そうだろうけどよ。
「特にそれが唯一であるならば。言うまでもありません。
ディルク様? 永遠を過ごしても……二度目が無いモノはあるものですわよ?」
リズは少し含んで笑う。その言葉の真意は測りかねた。
「まぁ――勿論、全てはディルク様の御意向、御采配次第ですけれど」
「……それ以前の問題だろ、今は」
妙な居心地の悪さに咳払いを一つして話を打ち切る。
大きな狩りは当然戦いの呼び水となる。子供のように守られるなんて想像すらも御免蒙る。
何せこの俺に二度目の敗北は許されず、同時に許す心算も甘受する心算も微塵も無い。
「御明察ですわ。余りに不完全な状態でやり合うのは……避けたく思いますしね」
「何より優先して絶対に、な」
何時に無く強く断定した俺にリズは小さく小首を傾げた。
「お前、死んだ事はあるのか?」
「いえ――私にはそういう経験はありませんけれど」
不思議そうな顔をして首を振ったリズに、俺は小さく嘆息する。
「単純な死は破滅足り得ない。それは大いに結構だがな――」
そこで一旦言葉を切ってからゆっくりと残りを告げた。
「――あの復活ってヤツは頂けん。ありゃ文字通り死ぬより酷い目って言えるだろうよ」