第六話
「――って――」
遠くで声が聞こえた。
少女の声だ。少女が――必死で俺を引き止めている。
「待って――」
輪郭は朧気。目を凝らしてもその姿はぼやけていて良く分からない。
唯、彼女は泣いていて俺はそれを汲む心算は無い――それだけはハッキリ分かっていた。
「約束、し――ありませんか――」
少女は俺の裾を掴む。
「――う、行かな――って。私の傍に――くれるって……」
近いのに声が遠い。良く聞こえない。その約束自体を覚えていない。
「……仕方ねぇだろ」
『俺』が勝手に口を利く。
無責任に言って少女の頭に手を置いた。
女の涙は得意じゃない。だから誤魔化す心算で黙らせた。
「こうなった以上は、な」
「――も、――えは……敵は多いと――」
「お前は俺を誰だと思ってンだ?」
柔らかい髪をくしゃくしゃと撫でてやる。
「馬鹿にするなよ。俺が誰ぞに負けるかよ」
裾を掴んだ手を優しく外しながら。
「なぁ、知ってるだろ――?」
俺は濡れた瞳で此方を見上げる少女の名前を呼び、得意の安請け合いをした。
獣脂が燃える音がする。
静けさを取り戻した夜には微かなノイズさえ良く通る。
「……ん……」
薄っすらと目を開けるとそこは宝石の寝室だった。
「お目覚めになられましたのね?」
薄手のシーツを身体に巻き、はにかむリズが俺の腕に寄り添っていた。
「ああ……悪い。寝てたか」
呟く自分の声が少し遠い。意識はまだ胡乱としていた。
何せ色々あった日だ。俺は貪るだけ貪った後、少し眠ってしまったらしい。
「寝顔も素敵でしたわよ」
「……馬鹿言え」
ぼんやりと答える。
「……今宵は私にとって生涯忘れ得ぬ夜になりましょう」
まどろむ時間に口を利くのも億劫で俺は適当に擦り寄るリズの頭を撫でてやる。
「……ふふ……」
そんないい加減で雑な愛撫にさえ満足なのか。
心地良さそうに猫のような瞳を細めたリズは腕から胸に移動しながら冗句めいて囁いた。
「寝言が……」
「……ん?」
「女性の夢を見ておられましたのね。あんなになさったのに……つれない方」
「……お前の夢だろ」
取り敢えず他に思いつく相手も居ない。
内容は目覚めと同時に擦り切れてほとんど覚えてはいなかったけれど。
「……お恨み申し上げますわよ」
リズの言うのは閨での出来事。良いと言う相手を貪り喰らった所で俺に非は無いのかも知れない、本来は。但し――それも相手が手馴れていたならばの話である。
「まるで楔を打ち込まれたかのようでしたわ。
ふふ、吸血鬼には白木の杭と申しますけれど。女を殺すには他にも色々と手段が御座いますのね」
「……言えよ、お前は」
すっかり目は覚めていた。
良い悪いの問題より先に立つ罪悪感に、無意識の苦笑いが漏れる。
まさかあれだけの余裕を見せ、あれだけの態度で閨に望んだ女が――
「それは蛇足というモノですわ。私を激しく求められたお気持ちに水を差す事にもなりましょう?
……それに、この痛みさえ……貴方様に捧げられた証と思えばこの上無い幸福なのですから」
――正真正銘の生娘だったとは誰が想像出来ようか。
「そんなふしだらな娘では御座いませんの。嫁入り前の子女ですのよ、私これでも」
冗談めかして唇を尖らせるリズ。
「……厄介な女だよ、お前は本当に。呆れる位読めねぇぜ」
「お褒めに預かったと喜ぶべきでしょうか。それとも……」
「褒めたって事にしとけよ、今は」
溜息を吐く。確かに思った通り――いや、それ以上に面白い女だ。
仰々しいその言葉を全て真に受ければ少々胸焼けもするが、たまにはこんなのも悪くは無い。
「……だが扱い方と言うけどよ。お前の場合、割合乱暴なのが好きなんじゃねぇのか?」
「別にそういう心算でもありませんけど……」
リズは俺の軽口に真剣な顔をした。
「私の場合は、もっと単純ですの」
それから俺の胸に頬擦りするようにしながら言った。
「要するに、ディルク様になら如何様にも何をされても――ですわ」
「良く言うぜ、元処女が」
「まあ」
「お前の場合……全て本気だから呆れるぜ」
事この期に及んではそれに疑いを持つ事自体が愚かとさえ思えてくる。
しかしその愛情と忠誠は疑う余地なくとも。姦淫の時間を揶揄しても一分も揺らがぬこの余裕――これは些か頂けまい。処女の可愛気をリズに求めるのが愚かなのかも知れないが、艶を乗せた声でかえって此方が居辛くなるような事を平気で素面で言ってくるのだからいよいよ性質が悪いではないか。
「お慕い申しておりますわ……此の世全てと引き換えにしても構わない位に」
「言ってろ、馬鹿女」
悪態を吐いて天蓋を眺める。
「ふふ」と小さく笑ったリズはそれ以上特に何とも言わなかった。