第二十三話
鼻が利き過ぎるのも問題だ。
「ちょっと、な」
苦笑を浮かべて、リズを見やる。
何処か陶然としたように佇む彼女は、そんな俺の姿に可愛らしく小首を傾げて見せた。
「ちょっと――ですか?」
「ああ。アレに用があってな」
「……何か、粗相でも」
形の良い眉をほんの僅かに顰め、手を後ろにやったまま、リズは俺に向き直った。
心底、それを心配するように、何時ものあの気配りの顔をして。地獄絵図の中で、少女は、それに頓着せずに俺に気遣いの視線を投げている。
まるで、普段と変わらない。変わらないと、錯覚したくなる。むしろ、錯覚したままで居られたなら、どれだけマシな状況だろうと自嘲出来た。
「……ディルク様?」
自身を見つめたままの俺に、リズは少し頬を染めてから、それから訝しむ顔をした。
「ああ、いや……」
怖れている訳でも、言葉を選んでいる訳でも無い。
言うべき一言を、探している心算では無かったが……つい、一瞬絶句した俺は、先程と同じような苦笑いを浮かべて、そんな彼女に応える。
「言った通り、用があってな」
「……用、ですの」
上滑りする会話が、何処か虚しい。
明確な意思を持って、互いに嘯く駆け引きは、何時ものそれとは質が違う。俺にとっては、元よりの話。恐らくは、聡明で――それから、無慈悲なリズも、この時間の意味に気付いているのだろう。
いや、むしろ、状況を考えるに、最初から『この心算』だったとすら、言えそうだ。無論、一番最初から、『最適解』として、これを選んだ筈も無かろうが……
今、この瞬間がある以上は、この『解』を、彼女は、完全に否定しなかったという事。
現在の俺の憤怒は、焦燥は、その結果。
「ああ。さっきの傷でダウンしたか? 悪いが、呼び出して貰おうか」
「……………」
努めて冷静を保ち、姿が見えないパウルに言及する。リズは、穏やかな表情を変えずにそんな俺をじっと見つめたままだ。
「何分、聞き分けの無い馬鹿ですから。呼び出しては、みますけれど……」
「案外、すぐ近くに居るかも知れねぇぞ」
だから、会話が、白々しいんだ。
「嫌な臭いがしやがるじゃねぇか。ヤツらしい、そんな。胸糞悪いのが」
……ああ、やっぱり、鼻が利き過ぎるのも問題だ。
もう、アレを問い詰める意味すら無くなっている。
「そんなに、臭います?」
「ああ。お前のその――右手から、な」
後ろ手に隠したリズの右手。そこを、視線で指し示す。
「あら、気付きませんでしたわ」
冗句めいて微笑んで、彼女が前に出したその手は、パウルの首を掴んでいた。そこに繋がる、あの壊れた身体のパーツは、何処にも無い。首の表情は、壮絶で……その断末魔を克明に記憶したままだ。細い目を奇妙に見開き、血の色の混ざった舌をだらんと出している。
「そういう事……で、構わんな?」
「そういう事……で、構わないと思いますわ」
見れば、黒絹の手袋をしていない。血肉に汚れた左手指先を、口元から覗いたピンク色の舌で、蟲惑的に舐めたリズは、すぅと目を細めて、独白めいた。
「どれも、あんまり使えないから……ディルク様に、御迷惑をお掛けするから。
このパウルも、馬鹿な事ばかり云うから。さっきも、『潮時ですかね?』なんて。
……私、それで、本当に。本当に、腹が立って」
思い出してか、ワインレッドの瞳が、剣呑とした色を帯びていた。
潮時。その言葉の意味は、何となく、分かる。リズが、腹を立てたその理由も――と、なれば、いよいよ、口は禍の門だ。どさり、と音がして。リズの右手から首が落ちた。転がったパウルの『視線』が、俺の上を彷徨っている。
「楽しい感じじゃねぇな」
「そうですか?」
「残酷なシーンだろ?」
何時かのやり取りを思い出して、思わず、苦笑い。
「その口を守るものはその生命を守る、か?」
「ええ。知者の口の言葉は恩徳あり、愚者の唇はその身を呑み滅ぼす――ですわ。
ディルク様も、要りませんわよね? こんな連中」
涼しい顔で神の言葉を嘯き、二度頷いた吸血鬼は、僅かに口元を歪めている。
――そう。扉の外の光景は、余りに異質過ぎた。抵抗の形跡すら少ない殺戮の跡。眷属の一人にも出くわさない不思議。何より、余りに多すぎる『残骸』の数――
そもそもが、人間の戦い方ならば、ああいう『破壊』には、及ぶまい。
「ですが、くれぐれも御心配は無く。たとえ眷属が無くとも、私が居れば、決して不自由等は。ディルク様は、今まで通り、この私が――」
「――お料理だって、お掃除だって頑張ります、か?
料理は、ちょっと勘弁して貰いてぇな。まぁ、それに、それはそれとしても――そうはいかねぇ。お前と共に居られれば、それは、望外。第一、何より平和だったんだがな」
早口めいたリズを遮り、俺は、言う。
「分かってンだろ? リズ」
「――――」
「お前は、分かっていて、こうしたんだから」
断定調で言っても、リズは、応えない。少し困ったように曖昧な笑みを浮かべている。
「もう少し、厳密に言うぜ。
お前は、こうなる可能性を理解していた。だが、この可能性を摘まなかったンだ」
「……可能性、ですか?」
「ああ。俺が真実に到る可能性」
穏やかなリズの、言い表せぬプレッシャーに、肌が、ピリピリと粟立っている。
努めて冷静なままの語り口と、似つかわしくは無く、舞台は凄惨。それに、この身の内に渦巻く感情は、強過ぎる。奇妙に冷めた心持なのは、激情に駆られる事が、碌な結果にならなかった、その『前例』を間近で見た故だ。
「……仰る意味が、良く」
温い調子。彫像のように整った美貌が、幾らか表情を失っていた。
たった二ヶ月とは言え、リズは常に俺の傍らにあった。永きを生きる筈の吸血鬼は、まったくその性質と反して、刹那の生より、尚深く、この俺とあった。だからこそ、今、何となく分かるのだ。コイツの逃げ道を殺す一言は。
「真面目に答えろ、リズ。お前が、俺の従者だと言うならな」
内心で、言外に「お前が、俺を愛していると言うならば」と付け足した。
「……彼女は」
暫しの沈黙の後、リズは漸く口を開いた。
「彼女は、最後に何と?」
それは、俺への仕返しなのか。
必死で口を押さえ、悲鳴すら堪えたカミラの姿。あの強い娘が泣き濡れて、俺を見ていたそんな光景を思い出すに、胃の中が燃える。砂を吐く気持ち。どうしようもない後悔。
言いたくは無い、言いたくは無いが……決して、悟られぬよう、短く返す。
「ちちうえ」




