第二十二話
逆転した世界で、音が、止んだ。
気付けば、城内を埋め尽くした無数の気配と――あの悲鳴すら、今は無い。
駆け出した爪先に、何かが当たる。
見下ろせば、蹴ったのは、ヒトの腕。もげた腕。
「パウル――!」
そこかしこには、原型を留めないヒトの、眷属の亡骸が転がっている。
咽びそうになる位に、濃密に血が香る。視界中に赤、赤、赤。壁、床、天井まで。一面が、出鱈目に染料でもぶちまけたかのように、赤一色に染まっていた。
如何な激戦、死戦でも、こんな惨禍は起きやしない。
こんなもの、戦いの跡等では無い。只管一方的な、虐殺の跡である。
「パウル、来い!」
答えは、返らない。無人の廊下に、声は無情に吸い込まれていくばかり。
血の所為か、肉片でも踏んだのか。靴の底が、ぬかるんだ音を立てた。
動くモノ無き長廊を一人進む。声を張り上げて、鴉の魔術師の名を呼びながら。
『決まって、都合良く現れる魔術師』が、こんな時に限って顔を見せない。間違いなく、必要な今に限って、姿が見えない。
呼吸がし難い。胸が、悪くなる。
吸血鬼が血に酔うだ何て、一体何て有様なのか――
殺戮の跡を追い、廊下の角を曲がる。
新しく目の前に広がった光景も、死体。死体。死体の山。
誰のモノかも知れない、『残骸』と『パーツ』が、まるで冗談か何かのように積み上げられている。
それは、先程までと、何一つ変わりの無い光景。
「……くそっ……!」
思えば、こんなに露骨に悪態を吐いたのも、何時振りか。
久しく感じなかった焦燥感が、胸を焼く。
駆けながら、考える。
そもそもが、アレは――あのリズは、一番最初に、何と言ったか。
目覚めたばかりのこの俺に、「お前は?」と訊いたこの俺に、何と言ったか?
――リーゼロッテ・アーベントロート。貴方様の従者に御座います――
……ハッキリと、おかしい。
思えば――今、思えば。この一言からして、余りにおかしい。
数百年と付き従ったリズが、目覚めたこの俺に――何故、フルネームで。何故、自らの肩書きまでを、名乗る必要があったのか。
リズは、この時――俺が記憶を無くしていたのを知らなかった筈なのに。その後に、それを知った筈なのに。アイツは、当たり前のように俺の疑問の全てを解決した。
それは、偶然か?
否、偶然と思うよりは――知っていたと考える方が、幾らかマシだ。
……違和感は、異常は、それだけじゃない。
よくよく思い出せば、それ以外にも解せぬ事実は、山とあった。
あのリズは、二ヶ月前まで、俺とのやり取りの全て……例えば、色事一つとってみても、『不慣れ』だった。態度こそ、妖艶と言えるそれだったが、アンバランスで危うい位に、幼かった。思わせぶりなパウルの言葉と、リズの苛立ちも、確かな奇妙。
カミラの最後の言葉。破滅的なそれを、皮肉に事実達が、肯定している。
一が、十となり、十はすぐに百と成る。糸が、一度解れれば、後は、余りに早過ぎた。
全てを理解していた訳では無い。こんなもの、答えを聞いてから思い当たったに過ぎぬ。
だが、何処までが正解で、何処からが間違いだったのか――その答えを、今言えるのだ。つまる所は、最初から間違いで、一つとして正解は無かったという事。
ならば、全てが台無しだ。この二ヶ月、俺の認識は、周囲に拠る他は無かった。
今、俺が俺として認識しているこの姿は、リズの言った通りのそれに他ならない。彼女の言が、誤っていたならば、今の俺には寄る辺が無い。
ディルク・レイス・フォン・エッフェンベルグには、虚像以外の姿が無い。
「……っ……!」
気持ちが悪い。焦燥と苛立ちで、吐き気が止まらない。昂ぶるだけ昂ぶった神経が、状況に混乱する頭が、憤怒と、やるせなさが。時折、眩暈となって世界を揺らす。
忌々しい。早鐘を打つ鼓動が収まらず、息苦しさが、一瞬毎に増している。
「パウル! 出て来い!」
幾度目か、名を呼んだ。全てを知り、状況を理解し、尚且つ――恐らくは、問い詰めれば、嬉々として『白状』するであろう、あの性格の悪い魔術師の名を。リズを除く誰かに話を聞こうと思うならば、まさに今や、唯一の相手である。
尤も、聞くまでも無く――既に、確信にも似た強い予感は、ある。元より、今俺が得た結論が――恐るべき推論が、間違いであるとは、思えない。けれど、それでも……
この二ヶ月という幻想が、纏わりついて離れない。リーゼロッテ・アーベントロートが、俺にも等しく『澱の魔女』であるという、その確証が、欲しいのだ。アイツが俺に向けた言葉達は、少なくとも本気に見えたから。
「……ち……」
繰り返す。それが、半ば感傷である事は、分かっている。
自身すら騙せぬ嘘に意味は無いという事は――答えを得るまでも無く、何処に真実があるのかは、既に分かっている。
「パウル!」
それでも、呼ぶ。喉が張り裂けんばかりに、強く。
そうして、長いようで短い時を過ごし。エッフェンベルグの長廊、その幾つ目かの角を曲がった所で、凄惨な光景の最新に追いついた。
黒いスカートが、翻る。
「――ディルク様?」
俺の視線の先に、女が居る。一級一流の魔女が居る。
顔だけで、此方に振り向いた彼女は、場違いに穏やかだった。
「そんなに慌てて……どうか、なさいましたの?」
この二ヶ月、見てきた姿と何も変わらない。
周りに頓着せず、血の海の中でも、少女のような可憐な顔をこの俺に向けている。返答は、確かに今、パウルと共に居る筈で……一番、会いたくなかった人物のモノだった。




