第一話
どれ位の時間が過ぎたのかは、分からない。
それは状況の理解を諦め苦痛を飼い慣らすにも飽きた頃。
「……ま」
或る日、或る時、或る瞬間――俺は、不意に小さな声を知覚した。
囚われの暗闇の中で、初めて見えた光明。苦痛以外に、俺を初めて揺さぶった変化。
聴覚の復活。錯覚で無ければ、確かにそれはそうだった。
俺は飛びついた。必死でその声に応えようと、声を搾り出そうとする。
それは当然のように徒労に終わったが……
「……さま」
救いの糸は千切れてはいないようだった。再び聞こえた声は、先程より明瞭。
気付けば全身を絶え間なく苛んでいた痛みも薄れているではないか。
即座にもう一度声を絞り出そうと努力する。絶叫する心算で振り絞った全力がかすかな呼気になって漏れた気がした。
「――――」
……それが、合図だった。
唯一度の経験で『呼吸の仕方』を思い出す。
澱んだ空気を吐き出す事に成功すると吐き気はみるみる失せていた。
自身がハッキリと生を取り戻した事を知る。全身が賦活され殆ど全く機能を果たしていなかった肺は、
まるで何事も無かったかのように新鮮な空気を全身に巡らせ始める。
それだけでどうしようも無かった息苦しさまでもが霧散した。
「……ディルク様」
声は女のモノだった。三度目の声を聞き、それが呼び掛けである事を理解した。
俺への声なのかそれとも別の誰かに呼びかける声なのかは分からなかったが。少なくともその何者かが近くに居る事は気配で分かっていた。
……そこでふと気付く。乖離していた内と外が結び付いた事に。
ならば、と。今一度努力する。何百回と跳ね返された徒労をもう一度だけ。
今度は扉が開いた。視覚の復活。赤黒い闇に暗めの室内光が差し込んでくる。
視界に飛び込んできたのは寝具の天蓋。どうやら俺は広いベッドに横になっているよう。
服らしきモノは身に着けていない。寒くは無いから季節は……夏かそれに近い頃。
「……………」
間髪入れず、ほぼ同時に嗅覚の復活。微かに獣脂の焦げる匂いがする。
成る程、薄暗い室内には幾つか銀の燭台が備えられており小さな灯りが灯されていた。
漸く救われた事に――安堵する。相変わらず状況の方はサッパリなままだったが。
「……ここ、は……」
答えを期待しての言葉では無いが。極自然に声が出た。
全身は酷くだるいが、後少しの努力で身体を起こす事さえ出来そうだった。
つまり、俺は、呆気無く――自由を取り戻したという事らしい。
「お気付きになられましたのね」
俺に応えるかのように響いた美しい声に顔だけを動かして視線を向ける。
ベッドの傍らには声の主――一人の少女が居た。何処か大人びた顔立ちをしているが年の頃は十代半ば位だろうか。長い銀髪は一纏めに編まれている。少し吊り上がった赤い瞳が印象的だ。
格好の方はと言えば少し奇妙で、室内だと言うのにつばの広い帽子を被りリボンを顎下で結んでいる。
華奢な身体に帽子と同じ暗色のドレスを纏い、おまけに底の厚いブーツを履いた彼女は余り季節にあったいでたちとも言えないが、汗一つ無く涼やかだ。
「……この時を、幾歳お待ちしておりました」
大きな紅玉の瞳、抜けるような白い肌に血の赤さの唇。僅かに伏せた瞼には長い睫が乗っていた。
名人が丹念に作り上げた上等のビスク・ドールのような少女は俺の視線に気付くと恭しく頭を下げて言う。
「御復活にお慶びを申し上げますわ、ディルク様」
……俺の中では見知らぬ彼女だが、反応からするにどうやら旧知の仲であるらしい。
よくよく考えれば俺はとんでもない格好をしている訳だが、少女は特段慌てた様子すら無い。
慣れているのだろうか? それとも驚かないような関係なのか――少し、判断が付かないが。
……それ以上は考えるのも億劫で軽く首を振る。
「ここは……?」
先程よりはしっかりとした声が出た。
覚醒したばかりの意識はまだ胡乱。質問は繰り返しで余り当を得たモノとは言えなかったが、
今度は答えが返って来る。
「貴方様の城、で御座います」
「俺の城――?」
「ええ。西部カルパティア山脈を北に臨む、御領地エッフェンベルグの森の中。その最奥に佇む闇の棲家。
夜の領域。その名を宝石と申しますの。
即ちこのトランシルヴァニアに冠たる夜の王――ディルク様の居城に御座いますわ」
仰々しい口振りだ。少女の言葉を額面通りに受け取るならば、俺の名はディルク。
この城の城主で、大層な貴族か何かであるらしい。そう言われても実感は微塵も沸かないが。
「……お前は……?」
「リーゼロッテ・アーベントロート。貴方様の従者に御座います」
溜息を吐くように問うと、少女――リーゼロッテは澱み無くそう答えてきた。
上等な白磁のような肌に僅かな朱が差している。少女は、俺に注意を向けられた事自体を喜んでいるらしい。
無機質で冷たい美貌が歳相応らしくほころんでいた。
「私の事は、リズとでも御呼び下さい」
もう一つ礼をした『リズ』は「何なりと、お望みのままにお言いつけ下さいませ」と付け足した。
その姿は彼女が言う通り主人に絶対の忠誠を誓う従者のそれである。
……どうやらこの俺は彼女に随分と買われているらしい。
「……俺は?」
辺りを軽く見渡し尋ねる。
我ながら間抜けな質問だが、まずはそう問う他は無かった。
今と先程までと一つだけ同じ事がある。俺にはあの暗闇以前の記憶が無い。
いや、厳密に言えば覚醒と同時に多少状況は好転したか。脳裏に残る断片的な映像は恐らく俺の記憶なのだろう。白刃と戦いの数々。罵倒と怒号。血塗れの誰かと断末魔。それら全てが物騒なものばかりだったのは何とも心外な所だったが。
……まぁ、それはそれとしても。
どちらにせよ俺は俺が何者であるか断定するに十分な材料を持っていない。
「……?」
リズはそんな俺に対して可愛らしく小首を傾げて見せた。
その様子から不親切な質問に気付き問い直す。
「……俺は誰だ。そして、何故ここに居る?」
「ああ……」
重ねて問うとリズは形の良い眉を顰めて少し悲しそうな顔をした。
「御労しい。……御復活が完全では無かったようですわね」
言葉の意味は分かりかねたが、リズは今度は俺が問うより先にその先を続けた。
「記憶に欠損があるのでしょう?
順を追って説明差し上げれば……ディルク様は長い眠りにあられたのです。
そして今宵――お目覚めになられた」
「長い、眠り……」
「ええ。十年の月日を費やした眠りですわ。私達の尺度でも、それなりに長い眠り」
……長く感じる訳だ。俺が暗闇に足掻いた時間は或いは最悪十年か。
「……何故そんな事に」
それ以前の疑問もあったが、俺は取り敢えずそれから問う。
「発端は十年と少し前に遡りますわ。
この地で戦いがあったのです。それはそれは大きな戦い。一昼夜で千が命を落とした戦い」
「ほう、十字軍か?」
ローマ教皇の権威を象徴する十字軍。
信仰の騎士とは名ばかりの彼等は暴虐の限りを尽くし各地に大きな爪痕を残していると聞く。この場所が西カルパティア山脈の見下ろす森の中だと言うならば或いは通り道にもなろう。
「キプロスの狗めが領地を闊歩する――別の機会には御座いましたけれど。
十年前の事件は別ですわ。人間共は辺境伯フリードベルグに率いられこの『宝石』を攻めましたの。エッフェンベルグ大征伐――彼等はその時の事をそんな風に呼んでいた筈ですわ」
リズは少しだけ遠い目をして話し出す。話が俺の質問とどう繋がるかは分かりかねたが、取り敢えずは黙って続きを聞く事にした。
「結論から言えば戦いは此方に致命的な痛手を与えるモノとなりましたわ。
無論普通にやり合えば簡単に敗れる私達では御座いません。
……ですが、あの日の奇襲――朝駆けは敵ながらに鮮やかで……
夜明けと共にエッフェンベルグに押し入った領主の軍勢は、およそ六百。黒騎士に手を貸したらしき神殿騎士、加えて練達の魔術師共――気付いた時には、森には走狗共が溢れ、封印と朝に力を発揮出来ぬ眷属共は次々と討ち果たされてゆきました。
『宝石』は幾重の包囲を受け、孤立。私は城内で手勢を駆り多くの走狗を仕留めましたが……最後には、取り返しのつかぬ不覚を取ってしまったのです」
リズは口惜しそうに言う。
「……そう。長く続いた戦いに遂にディルク様がお倒れになったのです。
一瞬の隙を突かれ多勢から強襲を受けた貴方様は、深い手傷を負われ……その再生に長い時を費やされる事になりました」
「……………」
リズの説明は実の所相変わらず肝心の所で当を得ては居なかったが俺はまだ口を挟まない。順を追って説明すると言った彼女は深く頭を垂れている。
俺が顎で促すと彼女は応え続きを話し出した。
「互いの軍勢は全滅……そう、ほぼ全滅でしたわ。一人残った私はこの手で残った走狗共を掃い、最後には時の領主を討ち取って――『宝石』の城主となりました。
……僭越をお叱り下さいませ。ですがディルク様には御時間が必要だったのですわ。全ては貴方様がお目覚めになるこの日が為に――どうかこの私の忠誠だけはお疑いになられませぬように」
「ああ……」
燭台の炎が揺らめいた。
再度の持って回ったような言い回しを遮るように返事を返す。少し苛立った俺の内心を察してか、リズは漸く本題を切り出した。
「……既に御理解の事とは存じますが、貴方様は人間では御座いません」
「……だろうな」
相槌を打った俺には大したショックも無い。
確かに十年の時間を平然と眠る人間は居ないだろう。
リズの言葉を自身の記憶として実感出来ない俺にその真偽を知る術は無いが。同時にこの俺が彼女の言葉を殊更に否定する材料を持たない事も又事実だった。
元よりまともな展開じゃない。見知らぬ城に裸で目覚め従者を名乗る少女とこんなやり取りをする事は。
「ディルク・フォン・レイス・エッフェンベルグ――貴方様の御名に御座います。
貴方様こそ唯一存在。黒が見初めしその主。血の契約に基づき、世の半分――夜を統べる事を許されし存在。神の敵対者、光を払う者。千の眷属を従えし吸血の王に御座いますわ」
「念の為、聞くが」
「はい?」
「嘘や冗句の類では無い……よな?」
俺が問うと、リズは、少しだけ憮然とした顔をした。
「私、戯言は苦手な性質ですわ」
……では、嘘か? ……と、言えばソレが冗談だ。
俺はそういう類の存在かと話半ばに納得する。
吸血鬼――それは言葉の通り、生者の血を啜る化け物だ。銀製の武具を嫌い、流水を嫌い、日光を嫌い、神とその言葉を嫌う。類稀な不死性と人に在らざる強大な異能、魔力を持つ闇の住人。
その一族の始祖ともなれば権勢は時に絶大で……築かれる王国は人間の領主のそれを上回る事すらしばしばだと知っている。十年と言わず百年もそれ以上も――人と人に在らざるモノは、狭い縄張り争いを続けているのだから、リズの言う事件も頷けた。今の俺には、多くを害した『覚え』は無いが、吸血鬼の祖は、確かに人間の大敵に違いない。
「……納得したぜ。殺られる訳だ」
「とんでも御座いません」
苦笑いと共に言うと、リズはハッキリと憤慨した様子を見せた。
「下種の下郎がこの城を汚し……
あまつさえディルク様に害を為した罪は、此の世全ての悪徳をたいらげる事にも勝りましょう。
ディルク様は、王。貴方様の在り様には、万に一つの間違いも有り得ませんわ。貴方様以外の何者が貴方様を否定した所で、それは愚者の誤りに過ぎ無いのですから」
『当時』を思い出したのか、彼女の紅玉のような瞳の中に熱が篭る。少し吊り上がった唇から、鋭い牙が覗いている。少女らしからぬ凄みのある美貌は、強い魔性を感じさせるに十二分。
「そうか。お前も吸血鬼か」
リズの外見は年端然程も行かぬ少女である。吸血鬼の従者で、十年の時を、傍らで過ごしたと言うのだ。そんなモノ今更問うまでも無い確認に過ぎ無いのだが。
「ええ、勿論。私も例外無く貴方様の眷属に御座いますわ」
宵闇の中、リズは不思議と表情を緩め酷く嬉しそうにそう言った。
読みやすい位のサイズで区切っていく感じです。