第十七話
荒い呼気、軋むベッドの音。
金の燭台の薄明かりに照らされて、抜けるように白く――血が通っているのかも疑いたくなるような、幼い裸体が揺れていた。
「ん、ふ――ぅ……」
女が、居る。俺に跨り、見下ろしている。
「あ、は――ぁ……」
僅か二ヶ月でこの身体。搾り取るような貪欲さ。
腰が動く度に、薄く笑む美貌が、ぞっとする位美しい。外見の齢相応を裏切るかのようなその妖艶は、何処か色鮮やかな毒花を思わせた。
「っ、ん……ぁ、い、如何……でしょうか?」
掠れた声。疲労と消耗にか、何処か弱々しい調子。そんな様でありながら、女は常に甲斐甲斐しい。自身の事等、まるで頓着せず――まさに、俺の為だけに『奉仕』する。
つい、この間まで生娘だったような、そんな女が、一端に女の貌をして。
「わ、私は、……っ、……宜しい……でしょうか?」
自分は、モノだと。道具だと――そんな風に、言ってくる。
一体、何度そんな風に過ごしたのだろうか。
それは、飽きる程、退屈な時間では無く。同時に、城は、手狭な世界は、飽きる事ばかりだったから。こんな時間は、幾度も、幾度も訪れた。
俺が求めれば、女は喜色満面に頬を染め……いや、特段に求めなくても、そうなっていたのかも知れないが――
「ン――ぁ、すご、ぃ……」
胸元をくすぐる、白い指先。媚びる視線に、下半身に溜まった熱が、漏れそうになる。
組み敷き、征服する事もあったが、従える事も又、格別。傲岸不遜にして、尽くす――奇妙なこの女は、上に乗せた時が、一番愉快だった。
「え……? ええ、どう、ぞ……御好き、な……ときっ、に……」
陶然と、歓喜され。そんな一言を、聞かせられれば、我慢も利かぬ。
多くを考える事無く。「全てを好きにしろ」そう繰り返す女の言に溺れ。果てては又、貪り、繰り返す。そんな風に肌を重ね、情欲に塗れた何時かの夜。
いい加減に『その気』も尽いた――何処か気だるい空気の中で。
俺の胸に、頬を寄せながら、女は吐息混じりに囁いた。
「私に、恐れる事があるとするなら――それは、貴方様を『失う』事だけ」
紡ぐ睦言に、うっとりと陶酔。自身の言葉を肯定する調子で、女は、何度も囁いた。
「どうか、どうか……愛して下さいまし」
抱え切れない位の愛を。
聞き慣れた――飽いたと言ってもいい位の繰り返しを。
「どうか、愛して下さいまし。どんな風にでも構いませんわ。
身も、心も。全て、貴方様のもの。ですから、どうか貴方様の、お好きなように――」
溺れろ、溺れろと。魔女は、囁く。
この身に、どうしようもなく余る――深く歪んだ爛れた愛を。
玉座の間には、唯の四人。
戦いの風に激しく踊るのは、一組の影。
寄せ手、白銀の甲冑。藍色の長い髪を靡かせた、歳若い少女。
引き手、マントを翻し、迫り来る銀光を避ける、鴉の魔術師。
「流石は、ディルクサマの想い人――」
そのパウルの軽口に、玉座の俺の傍らでリズは、不愉快そうに眉を顰めていた。
「言うな」
「うわっと……!?」
裂帛の気合と共に、白銀の煌きが一閃する。
無様とすら呼べる姿態でそれを避けたパウルは、その実、まだ余力があるのだろう。「ホントつれないんだから、もう」何て、ぼやいている。
少女騎士カミラとの再会は、出逢いより二週間の後に訪れる事となっていた。
初日以後、昼夜を問わず断続的に繰り広げられた戦闘は、実に壮絶だった。
双方に決定的な決め手を欠いた戦いは、それでも膠着する事は無く、苛烈な消耗戦の様相を呈した。俺は二度、リズも二度討って出たが、その時は、幸か不幸かカミラと遭遇はしていない。尤も、あれだけ風を吹かせたからには、城外で決着する心算は無かったが。
ともあれ、彼等は強気で、更に強力だった。俺やリズが戦えば、優位に展開する事は可能だったが、集団戦闘という意味合いにおいて、彼等には一日の長があった。
単純な地力勝負ならば、吸血鬼は人間に勝ろうが。今回の人間達は、対吸血鬼用の戦闘に特化していた。その為の戦闘訓練でも積んできたのだろう。かつて敗れた彼等の十年は、澱んだ水の吸血鬼とは、やはり価値が違う。図らずも、『種族的特長』を押し出した彼等は、攻防の末に、戦線を押し上げ、森を侵し、宝石の包囲にも到る事となった。
経緯こそ違えど、あの十年前と等しい状況が出来上がった訳である。
「退け、悪鬼」
「生憎と、ボクは門番なんだ。まぁ、この上、死守する理由も無いんだけど――」
青白く、カミラの剣が火花を放つ。障壁に触れた斬撃が、パウルの寸前で食い止まる。
「――ボクもそう、捨てたモンじゃありませんよ? 差別しないで、構ってよ」
言ったヤツは、不敵に口の端を歪めている。
冷たい石造りの部屋が、熱っぽい。間近に香る戦いの呼吸は、心地良い。
「理想は、騎士様お一人で来て頂く事だったのですけど。
ああ……本当に、厭ですわ。どこもかしこも人間臭い」
だが、一方で、マイペースなヤツもここに居る。目前で展開する白熱したパウルの戦いにも、然したる興味は無いのか。玉座の傍らで、リズは溜息に似た独白を漏らしていた。
何しろ、最終決戦の最中である。各所で鳴る剣戟。怒号と悲鳴、張り詰めた独特の空気。平素、冷厳とした宝石が、似合わぬ喧騒に、支配されていた。
「……」
小さく、形の良い鼻を鳴らすリズは、そも『領域』に踏み込まれた事自体が不愉快なのだろう。美術品や、内装の心配でもしているのかも知れない。吸血鬼の中でも、特に誇り高く貴族然とした彼女は、人間を競い、争うべき相手と見做していない。実際問題、今回の戦いにおいても、最大戦果を挙げた彼女が、遊兵に回っていたならば、そも状況は包囲には届いていまい。俺に張り付き続ける事を選び、頑として譲らなかった彼女が、『他ならぬ俺の命令を受けて、戦果を挙げる事を自重し続けた結果』、現在がある。
まぁ、俺とてこの展開を予期して居なかった訳では無い。この期に及んでも、実に気楽なのは、確信しているからだ。要は、俺とリズ――ついでにパウルまで居れば、残りの戦争に決着をつけるに事足りる。骨は折れるし、城は荒れるが、その程度の問題だ。
「……お前は、神経質だからな」
「そうは、仰いますけれど」
「何、招かれざる客共に、この邪魔まではさせんさ。それで、今日は妥協しておけ」
そう。現在の状況は、些かの予定外なれど、このカミラを譲る訳には、いかない。不本意な城内の状況に関係無く、玉座の間には、唯の四人。厚い扉の向こう、その入り口には、今尚、最大戦力が防御に置いてある。その責任者――元門番を務め、カミラの供を仕留めたのが、今、彼女と戦っているパウル自身である。
扉の外で、済し崩しに戦闘を開始した二人は、中に移動しても、そのまま戦い続けている。目的は、既に果たしているのだから、いい加減止めても構わないのだが。パウル本人は、まだその心算は無さそうである。但し、そんなヤツの戦況は、余り良くない。この場所で、俺とリズ、二人の姿を認めたカミラは、俄然、その気炎を高めていた。当初こそ、その爪を繰り出し、魔術での反撃を見せていたパウルではあったが、幾つもの刀傷を受けている彼が、守勢劣勢に陥っているのは、見るからに明らかだった。
「だが、安心したぜ。まさか、これでやられるようじゃ拍子抜け」
「まったくですわね」
最後の試金石には丁度いい――そんな俺の言葉に、リズが頷く。
「オッズは、どう見る?」
「まず、間違いなく馬鹿鴉の負けですわ。外れたら、人間と和解してもいい位」
「そりゃ、大した数字だ。余程、絶望的だと見える」
本当に。
「暖かい御声援、痛み入るなア!」
外野のやり取りに、パウルが大声を張り上げた。リズの言葉は、本気なのか、冗談交じりなのか知れなかったが、彼の方は、兎に角、抗議めいている。
「騎士サマも、何とか言ってやって下さいよ」
「……ああ。何度でも言うぞ。貴殿を、構う暇は無い」
「だから、そういうの差別だって言ってるでしょ?」
意識の半分が俺達の方に向かいながらも――カミラの攻め手は、苛烈さを増すばかり。
防戦一方だったパウルの様子に変化が現れたのは、そんな戦いを暫く続けた後の事だった。平素の飄々とした雰囲気が、気付けば、殆ど消えていた。余力の減退と共に、彼の持つ『本質』が姿を覗かせ始めているのか。
対吸血鬼用の装備に傷付けられた傷口が、ぶくぶくと血泡を噴いている。
「騎士サマ、ひょっとして、ボクを有象無象扱いして――うわっと……!?」
パウルのそれは、笑ってはいる表情だが、その実、笑っていない。
楽しそうでいながら、楽しんでいない。舌でも打ち出しそうな位に、不快感を隠さない。苛立った様子が伝わってくる。
だが、一度ついた勢いは、簡単に逆転するものでは無い。
「は――!」
金属質の音が響き、パウルの爪が弾かれた。
勢いのままに、気合の乗った刃が、彼の首を掠める。
「ちょっと……!?」
これには、肝を冷やしたか。
続け様の一撃が、引き攣った顔をした彼の肩口からを袈裟斬りに裂いた。
これは、浅いが――有効打。パウルは、仰け反りよろめき、後退しかかる。カミラは、そこへ一切の躊躇も容赦も無く、追撃に踏み込んだが……
「――いい加減、カンに触るんだよね」
俺が止めるより早く。
反撃の瞬間は、余りに不意に訪れた。
「……っ!?」
すんでで飛び退いたカミラの二の腕から、赤い雫が垂れている。無理な姿勢からパウルが振り切った爪は、彼女の肉を薄く削ぎ取り、血の色に染まっていた。
「カンに触るんだよ。人間にまで……あんまり軽視されるとね」
糸のように細められた目が、すぅと開いていた。纏う空気からして、粘着質に粘ついている。人好きのするあの顔が、今はもう見る影も無い。
「ほう……」
感嘆の声を漏らした俺に、リズは、先刻承知とばかりに、小さく頷いている。
「忠誠心ってヤツ? ディルクサマに悪いから、気を遣ってれば……失礼だろ?」
「成る程」
道化なりに、纏う威圧感は、かなりのもの。
冷然と言う邪悪な魔術師に、カミラは、頷いて答えた。
「だが、変更は無い。貴殿は、手早く御終いにさせて頂く」
「――――」
これは、凄い一言だ。
あんまりなやり取りに、リズが、堪え切れず、声を上げて笑い出した。
パウルには、最早、言葉も無い。痛罵も何も無く、淡々と何でもない障害のように言われた彼は、無駄口も忘れて動き出した。低く、獣の姿勢で赤い絨毯の床を蹴る。
普通ならば、半端に飛び上がっては、攻撃の的だ。だが、ヤツも吸血鬼。それも、とびきり意地の悪い一流の魔術師でもあった。
「恨まないで下さいよ?」
言葉は、俺を向いていた。手加減無しの宣告か。
上向き、迎撃に構えたカミラのその間合いの目前で。パウルの姿が、文字通り雲散霧消する。不意の霧化。次に狙うのは、当然の一撃必殺だろう。
初見の相手に、ヒト為らざる術。
詐術と、駆け引きを主とする鴉の実にらしいやり口であった。
「……………」
無言のカミラが、間合いを飛び退く。一瞬遅れて、その場所を颶風が貫いた。
直後、悪趣味にも宙空に像を結んだのは、パウルの貌。身体も手足も無く、唯、貌。
「騎士サマは、どんな風に啼くのかなア」
吐く息すらも、血生臭い。厭らしい笑みを貼り付けたパウルは、そんな風に呟く。
「手からがいいかな? 脚からがいいかな? 首を齧るのは、最後の最後で……
あ、そうだ。その前に、両目を刳り貫こう。どこもかしこも、丹念に一つずつ潰し、壊してあげるカラ。苦節何百年か。珍しい、役得。役得って言うヤツだなア」
胸が悪くなるような悪意に塗れ、からからと笑うパウル。
それに、カミラが、少しでも怯んだならば、ヤツも溜飲を下げたのだろうが――
「曲芸は、もう沢山だ」
――凛とした少女の言葉は、大方の予想を裏切り、同時に肯定していた。
「貴殿に使う、時間は無い。余力も惜しい。
言う事を言い、やる事をやったならば――早々に去ね。失せるがいい」
「この――っ!」
はっきりと、パウルが怒気を孕む。
歪んだ顔が、そのまま虚空に掻き消えた。
「言うと思ったよ」
そう言った俺にぴったりとくっついて、リズも言った。
「言うと思いましたわ」
ともあれ、最早、止めても止まりそうも無い。第一が、ここまで言ったなら、止めるも野暮。試験としては、随分だが、決着の見物と洒落込む事にする。
「オッズは?」
俺は、もう一度、先程の質問をリズに投げた。
俺の魔女は、言う。その可憐な美貌に薄く挑戦的な笑みを乗せたまま。
「断然、馬鹿鴉の負けですわ」