第十六話
何かが起きるには相応しく、血なまぐさに似合いの夜だった。
夜半過ぎより降り出した雨は止む気配も無くその強さを増している。
雨音のノイズを従えて月が無い中を異形の群が往く。
「読み違えたか?」
「そんな事は無いと思いますけれど――」
俺の言葉に背後を進むリズが応える。
「格好がつかねぇな。まるで分かっていたような歓迎じゃねぇか」
「いえ……とんでも御座いませんわ」
予想外に――戦いは最初期から壮絶なモノとなっていた。
これ程の好条件に恵まれても奇襲は殆ど意味を成さなかったよう。
まさに俺自身が言ったように『読まれていたかのような』展開である。
あちこちで幾つも松明の灯が揺れている。レネスの各所では既にエッフェンベルグの軍勢と人間の部隊とが交戦を開始している。条件は此方に悪くない筈だが……どうやら奇襲を外した事から考えても人間の指揮官はかなり出来る様子だ。
此方の軍勢はパウルと眷属共が出来損ない共を率いているが元より集団戦に向いていない。戦況は若干有利な様子だが五分の範囲を大きく出てはいないだろう。
無論――戦いの場にあるのは俺達とて同じ事。かく言う俺も既に数十本の矢を射掛けられ二桁を下らない兵から襲撃を受けているのだが……
「……考えても仕方ねぇか。犀はもう投げられてる」
進行方向に横たわる首の欠けた死体を一瞥して言う。眷属共の『護衛』は断固として外させたが。「背後を守る」と言って聞かなかったリズは結局俺についてきた。
「確かに完璧な防御だよ。いやいっそ清々しい程に完璧が過ぎる」
「背後を守る」だけなら文句は無いのだが。この魔女は言う程大人しくも無いし謙虚でも無かった。その魔術はこの俺の手を煩わせる事がまるで無い。
「だが、少しは考えて貰いたいモンだな」
折れた矢の鏃を弄りながら嘆息する。
これならば千の軍勢にも怯むまい――そう思える位にリズは圧倒的だった。
「う……」
「何の為にここに居るんだか分からなくなる」
「……その、申し訳御座いません」
振り向かずにそう言うとリズは罰が悪そうに呟いた。
その言葉は此方に向かってくる気配に対する牽制であった。
「今度こそは」
魔女の魔剣『黒犬』の刀身は、同色の闇に溶けている。
身体中の血液が沸き立っている。戦場で散々に焦らされて、もう沢山だ。
「お前、分かってるよな?」
「はい――」
手を出すなという命令。
俺の口調から険を感じてかリズは一切の異論を挟む事無く承諾した。
「吸血鬼――!」
やがて接近を果たした人間の集団が俺達の姿を認めて布陣する。
中央に俺その背後にはリズ。前方に扇形の陣形を敷いた甲冑の男達、奥には女――数は四人。放り出された松明の明かりだけでは心許無く、数メートルの距離で各々の顔の詳細までは分からない。
得物は剣が二本に槍が二本か。
「肩慣らしには丁度いい」
リズがきちんと控えている事を確認し肩を鳴らす。何せ十年ぶりの実戦らしい実戦である。
自分の実力は感覚では掴んではいたが、さて――実際の所はと言えば試してみなければ分からない。
「かかって来い。遊んでやる」
「ほざけっ!」
悠長に会話を交わすような間柄でも無い。
俺の余裕が気に触れたか、一喝した男に続き一度に三人が向かって来る。
「待て!」
最後方より女の声が制止するが……攻撃は止まらない。
左右両翼から槍。中央は剣。御丁寧に時間差も付けられている。それは理に叶った多方向からの同時攻撃だ。
「まぁ、人間相手なら――それで済むんだろうが、よ?」
右手。黒犬の一閃が最初の槍の穂先を斬り飛ばす。
「障壁」
この程度、一節の防御呪文で十分だ。
前方に生まれた障壁が宙空で斬撃を弾き青白い火花を散らした。
ほぼ同時に横合いから伸びてきた槍の穂先を残った左手で完全に捕らえ、自由を奪う。
強引に突きを止められ前のめりになった男の胸を石突で逆に突いてやる。硬いモノにぶち当たる感触に続き、柔らかいモノを突き破る感触が伝わってきた。
「……っ!」
「ついで」
断末魔。穂先を失った槍の持ち主は前に出た態勢のまま、呆然と無防備だった。
黒犬の一振りでその身体はバターのように二つに割れた。そのまま生暖かい大量の鮮血と夜に黒っぽく影を落とす臓腑を撒き散らし……ぬかるみの中に倒れ込んだ。
「ち。……殺しちまった」
文字通り勢い余ってやり過ぎた。
対吸血鬼装備に傷付いた左手を舐め舌を打つと、一人無事に退いた剣の男がハッキリと怯むのが分かった。まぁ、僅か数秒の攻防でここまで分かり易い結論が出れば無理も無かろうが。
「魔女の言ってた通りだな。確かに異常な位の切れ味だぜ」
「嗚呼、何て事! そんなお怪我を――!」
「ああ、いい。態々この程度を気にするな。
……これでも律儀な方でな。今度は約束通り遊んでやる。さぁ、来いよ」
いちいち煩いリズを制しそう言うと、剣の男は更に二歩下がる。
「来いってば」
俺は笑顔で一歩前に出る。嗜虐的な楽しみだ。脅える獲物をいたぶるのは。
逃がす筈も心算も無い。来なくても必ず殺してやろう――上機嫌で言ってやる。
だが逃げる獲物を追い立てる……その楽しみ自体は長くは続かなかった。
「では、そうして貰う事にしよう」
戦意を失くした彼の代わりに別の一人が前に出たのだ。
それは先程男達に制止の声を投げた女だった。計算しての事なのか三歩。これで彼女と俺との距離は最初の三人より随分と近い。
男はその隙に闇の彼方へと駆け出している。
増援を求めに行ったか、逃げ出したか。
「女かよ」
「よもや雌雄の別に不足等とは言うまいな? 夜の魔王よ」
随分と断定的な物言いである。
「……自己紹介をしたか?」
「後ろのは澱の魔女だろう?
これだけの惨状を撒いておいて……卿等にはほとほと自覚が無いモノと見える」
「ああ、そりゃそうか」
リズは無言。確かに周囲には死体の山がある。
あのパウルさえ苦労する乱戦の場に二人でのんびり居ればそれも知れるか。
「鋭い観察、強い意志。成る程。女だてらに悪くない。
いや、不足だ何てとんでもない。どうせ同じく遊べるなら女の方がいいに決まってる。そんなモン男の本能だろ。言い換えて至極当然の結論……だよなぁ?」
「……………」
気付けば女は俺の顔を強く凝視している。
「あん? 惚れたか? いいぜ。気の強いのを躾けるのは嫌いじゃない」
「……っ……!」
冗句めいた俺に女の眼光が強くなる。
「……生憎と卿の楽しみに乗る心算は無い」
続く言葉は余りにすげない。
よくよく聞けば声は凛としてはいるが酷く歳若い。見ればそう上背も高く無く体格が良いという事も無い。雨に打たれ藍色の長い髪をしとどに濡らした女は見た目はリズよりは少し上だろうが、少女と呼べる年齢で――美しい鎧を着込む姿はどちらかと言えば華奢にさえ見えた。
「そう言ってくれると一層やる気が出てくるぜ。
我ながらの悪趣味だがね。可愛くない女程、可愛らしい姿を見たくなる。後ろのも実に可愛い女なんだぜ。お前等の扱いは随分と酷いらしいけど」
戯言に取り合わぬ、細い銀光が俺を向く。ひたりと取った少女の構えは実に様になっていた。それはそうだ。性別、年齢に関わらず……先の戦いを見て単身俺に挑もうと言うのだから。彼女は大した使い手なのだろう。
「……卿は敵を前に雄弁なのだな。魔王よ、それは奢りか?」
「当然の確信だろ? お前がどうして俺に勝てる」
俺は王で――捕食者だ。少女はヒトで餌に過ぎない。
「……良く、理解した」
口を真一文字に結んだ少女はそれ以上の無駄口を叩かなかった。
抱くのは鬼気迫る剣気。一分の隙も無いその様子に身体の芯がぞくぞくした。出陣の前に感じた予感が確かな正解であった事を俺は知った。
直観している。目の前の女は、俺を傷付け得る、滅ぼし得る力を持っていると。
その可能性がどれだけに低くとも――決して無力な存在等では無い、と。
「いい勝負になりそうじゃねぇか!
……ああ、絶対に手を出すなよ? 手を出したら……俺がお前を殺してやる」
「……っ!」
振り向かずに投げた俺の言葉にリズが息を呑む。テンションに引きずられて口調が荒れたのは御愛嬌。
敵の力が読めない女では無い。そうとでも言っておかねば『確信犯で乙女の顔をして』確実に水を差す。
俺とて可愛い従者を本気で叱責するのは御免である。
「さあ、来い!」
従者の返事は待たない。
俺の言葉と少女がぬかるみを蹴ったのはほぼ同時。
強い踏み込みが泥を跳ね上げた。何らかの魔術を併用しているのか姿勢を低く取った彼女は加速し疾風のように此方に向かう。この間合い、彼女に必要なのは僅かに一呼吸。
一節は斬り破られるだろう。二節の防御呪文は間に合わない。
キン――!
黒犬を振るい、迷い無く迫る銀光を弾く。
得物を斬る心算で放った豪剣にも少女の華奢な長剣は怯まない。
何らかの魔力が込められているのか、或いは品自体が由緒ある業物なのか。或いはその全てか。
戦いが剣戟に耐える事を知った俺はいよいよ狂喜する。
「……はっ……!」
素晴らしい膂力。力と技の見事な融合。
短い呼気と共に繰り出される次なる一撃――これも又速く美しい。
それは厳密には一撃では無い。一瞬で二条閃いた銀光に衣装の端が斬り裂かれる。
「いいぞ! 思った通りだ。お前は本当に悪くねぇ!」
風切り音が鳴り、泥が再び飛沫と跳ね上がった。
お返しに繰り出した一撃を少女は軽く飛び退がる事で避けている。
――と、同時に反撃で体勢の崩れた俺への距離を再び鮮やかに詰めてきた。
元より男と女。それも悪鬼とヒトの身の差がある。長丁場の体力勝負では不利と見ているのだろう。
少女の動きはまさに短期決戦の想定に根ざした――爆発的と称するに相応しいラッシュだった。その動きに様子見や小手調べといった無駄は無く、攻撃の全ては必殺か或いはそこに繋がる布石のどちらかを狙っている。
成る程、この戦場に相応しい戦闘論理である。
こうまでチェックをかけたなら分析や長考の意味は無い。
初手合わせで持てる全てを吐き出そうというのは、唯一では無いにせよ一つの正解であろう。
空気が裂ける僅かな音。繰り出されるのは刃の風。
「ち――!」
鋭い痛みに舌を打つ。捌き切れなかった銀光が俺の二の腕を裂いていた。
「……っ、本当に、嬉しくなる位の使い手じゃねぇか!」
加速は止まぬ。一段と戦いのリズムが跳ね上がった。
連続して鋼が噛み合い、幾度も、高く――剣戟が啼く。
攻防の中、幾度も実感する。
少女の技の一つ一つは実に鋭い。上手いでは無く強い。効率良く敵を屠る為に練り上げられている。恐らくは我流なのだろうが、実に上等の太刀筋だった。変幻自在に俺を攻める動きには強い癖こそあれど隙は無い。
けれど違和感。一筋縄でいかぬその技に対して、攻めの構成は些か素直過ぎた。故に……と言っても良い。少女の剣はすんでで俺を捉え切らず捌く内に徐々に余裕が生まれてきていた。
「中段より短く突きの一撃。本命は弾かせて上段からの一閃か。
或いは退かせて距離を詰め更に肉薄――でもいいな」
意図ごと弾かれた斬撃に少女の顔色が変わる。
「!?」
「乱れたな。予定変更は間に合うか?
ここで牽制を挟んでも――その態勢は戻らんぜ?」
まともに顔色を変えた少女に忠告代わりに激しく打ち込む。
一際高く鋼が啼いた。
「その細腕でよくもまあ」
一撃をギリギリでいなしながら大きく跳び退がった少女の前髪は汗と雨に張り付き、呼吸は乱れに乱れている。酷く驚いたような彼女の顔には色濃い動揺が残ったままだった。
「だが大本のプランからして後退は完全な間違いだろ。
気持ちは平静に保たんとな? 本来ならこれでお前に勝ちは無い」
誰が見てもそうと分かる絶好の好機だが、俺は追撃をかけるような無粋はしない。
「いや、その歳で良くやる」
言葉は自然と口をついた心からの賛辞だった。
「全く大した邪剣使いだ。何処で習った?」
俺にはまだまだ余力がある。少女は強いがやはり余興の域を出ない。
俺を楽しませるその腕前は賞賛に値するがそこまでだ。
荒く息を吐く少女は未だ黙したままだった。先程の動揺こそ戴けないが彼女は決して戦い慣れていない訳ではないのだろう。この時間を呼吸を回復させる好機に当てていた。
それが分かるからこそ当然ここは待ってやる。
「ああ、邪剣ってのは邪道なんだ。敢えて他人に習うモンでも無いってか?」
確かに本来の意味からすれば我流に習うも何も無いモノだ。
「……………」
「いや、大した腕だぜ、実際。
だが……お前のはどうも借り物に見える。
本来の使い手は――これは想像だがな。もう少し人が悪くて汚ねぇヤツじゃねぇか?」
似ているのだ。俺の太刀筋と。戦い方と。それが噛み合う理由。先が読み易い理由。幾度となく俺の攻撃を避けて見せたコイツも或いはそれを感じていたかも知れないが。
あくまで一本気に正々堂々とした少女の戦い振りは余りその剣に似合っていないのだ。師匠だか本家だかが使えばさぞかし受け難い碌でもない剣になるのだろうけど。
「……卿はどうしてもお喋りをしたいようだな」
俺の問いには答えずに、しかし少女は久し振りに言葉を漏らした。
凛としたこの少女にどうしてかは知らないが惑いがあるように感じられた。短い付き合いから察した性格を考えればもう二度と無駄口に応えるような真似はしないかとも思っていたのだが。
「相手は選ぶがね。そう、そうして愛想良くしてくれよ。
お喋りで俺をこの場に釘付けておけると思えばそれで十分じゃねぇのか?」
予想外の返答に俺は饒舌になった。暗に「即座に短時間で俺を倒す事は不可能だろう?」と告げてやる。
少女とて人間の軍勢の切り札なのかも知れないが俺の背後には命令通り控えて動かぬままのリズも居る。この時間、差し引きしてどちらが得をしているかは言うまでもあるまい。
「……卿という人物を少し分かったような気がする」
「そりゃ光栄だ」
複雑そうに少女は唇を噛んだ。自身等が命を賭し不退転の決意で臨んだ大討伐。その討伐相手が気楽な遊び半分と知ればそれも分かるが。
「ならば構わん。付き合おう。
……私の戦いには卿等には分からぬ『理由』がある。
元より果たさねばならぬ一事の前にはその手段等矜持ともならぬ故に」
「おお。自分の為か? 他人の為か」
「……我が為で、誰が為でもある」
言い難そうに、だが少女は確かに言い切った。
その声は自分に言い聞かせる風にも聞こえた。
惑いを堪えるようなその言葉には振り切ろうとする『何か』が見える。
「いい女だな、お前。嬉しいぜ、最近の俺は『いい女』に良く会える」
心底、そう思った。
「……………」
言葉をどう受け止めたのか少女は応えない。
「なあ。お前、名前は何ていう?」
「……………」
少女は応えない。だが瞳には何かに逡巡するような色がある。
その表情に不思議と当初程の強い意志が感じられない。俺の力に怯んだ訳でもあるまいに。彼女が断固として纏っていた戦いの風は何時の間にやら緩んでいた。
「おいおい。騎士ってのはこんな時伊達と酔狂で名乗り合うモンだろ?
割合そういう相場に決まってる。黒騎士でもせめてその位の誇りと余裕は持ち合わせてぇじゃねぇか」
「……っ……!」
憶測ながらに確信があった。
余りに歳若い邪剣使い――それも女だ。彼女が正規の騎士である筈が無い。
甲冑こそ黒くは無いが騎士に魔術師、聖職者。それから雇われの黒騎士共――答えはその中の消去法だ。断定的に告げると迷いの色は一層強くなった。
「な?」
「……カミラ」
重ねて言うと少女は漸く――ぽつりと短い声を漏らした。
夜の雨に打たれる顔色は暗がりにもハッキリと悪くその声色は無色に近かった。
真剣に俺を見つめる瞳が唯ひたすらに深く重い。
「ああ。いい名前だ」
これも本音。
一度で響きが気に入った。彼女にはとても相応しく感じた。
こんな些細な言葉のやり取りが楽しくて仕方ない。理由は知れないが俺はコイツがどうしようもなく好ましいらしい。特別な相手に特別な名があった事を素直に嬉しく思う。
「いい名前だ。俺はな……」
繰り返し言ってから続ける。
カミラを認めて夜の魔王が名乗りをくれてやる。
「ディルク。ディルク・フォン・レイス・エッフェンベルグ。
今宵、この時、この出会い、この運命を。正直に嬉しく思うよ、好敵手」
不意の稲光が辺りを青白く照らす。
暗闇の中、これまで女の顔はハッキリとまでは見えなかったが――この時ばかりは別だった。
「――――」
驚愕の顔。耳をつんざくような雷鳴に微かに漏れた呟きは聞き取れない。
「構えろよ。再開といこう」
「……え……?」
「おいおい。まだ喋りたかったのかよ? まぁ俺としてはそれも吝かじゃねぇんだがな――」
からかい、茫としたままのカミラを促す。
「卿、貴方は――」
「どうした? カミラ。まさか今更怖れた訳じゃあるまい?」
そうして俺が剣を構えたのと、
「ディルク様」
此れ迄邪魔をせずに控えていたリズが言葉を発したのはほぼ同時だった。
「……あ?」
「パウルがそろそろ一杯だそうですわ。
何でもこれ以上続けると被害が大きくなるとか。アレの言葉を借りるなら『ディルクサマ達は、ボクを殺す気ですかー』だそうで」
……パウルの奴も肝心な所で使えない。
半ばだけ振り向いて見たリズの周囲には先程よりも多い死体が転がっている。俺がカミラに夢中で気付かない内に言った通り『背後の敵』を片付けていたようだ。何分高等な魔術師である二人のやりよう。念話術式の仕組みは分からないが彼女は別の場所で戦うヤツからの懇願を受け取ったらしい。
「頃合ですわ、ディルク様」
「……待てよ。これからだろ?」
不機嫌を隠さずに言う。
「差し出がましい事を言うようで恐縮ですけれど――」
リズは珍しく無表情で俺を見ていた。
「――今宵の成果、元々の予定からして十分かと。
思いがけず其方の騎士様に出逢えた事は僥倖でしたでしょう。けれど彼女も随分な手錬の御様子。一夜で片をつけるには余りにも勿体無いかと存じますわ」
「……………」
「男女仲は不思議なモノでしてよ?
刺激的に求め合う事ばかりが正解では御座いません。
強く想いながら逢えない期間も……高め、昂ぶらせてくれますの。騎士様は、改めて宝石に御招待するという事で。その方がより楽しめるというモノですわ」
「経験談か?」
「ふふ、どうでしょうね」
つい数瞬前の無表情が嘘のようにリズの表情は艶めかしい。
ここは譲る心算は無いらしくその言葉は何時に無く強かった。
一方の俺はと言えばこれだけ水を差されれば流石に醒める部分もある。
「ディルク様、どうか……」
「……やれやれ」
今一度の懇願に深く溜息。やはり俺は何だかんだでリズには甘い。
「……だ、そうだ。悪いな」
肩を竦め、再びカミラに向き直る。散漫な俺に斬りかかって来なかったのは騎士道の心算なのか。それとも呆れていたからか。彼女も構えを取っていない。
「今夜は、これで終いらしい。まぁ、分かっているとは思うが俺達は『宝石』に居る。
『戦争』がどうなるかは知らねぇが……お前との再会だけは期待してるぜ?」
言った俺は集中し人身に翼を得る。間断無く冷たい雨が落ちる空に飛び上がればリズが即座にそれに続いた。彼女は俺の傍らまでやって来ると甘えるように首に腕を回してくる。
「案外妬いてたのか?」
「……………知りません」
ヒトなる身のカミラにはこの撤退を防ぐ手立ては無い。いや正しくは動こうとしない状況から考えれば……積極的に防ぐ心算も無いのだろうが。
「唯、私、本当に吃驚しまして。
意地悪な惹き合い。皮肉な絡み合い。こんな偶然一体誰に用意出来ましょうね?」
「あん?」
「私、今なら神を信じても構いませんわ」
パウルのようにリドルを気取ったリズは妖艶に微笑む。
「御機嫌よう、カミラ様。ああ、本当にいい御名前――」
「……っ!」
皮肉な彼女の言葉を受け、カミラは弾かれたように面を上げた。
言葉に突然我を取り戻したかのようだ。
戸惑い、怒り、綯い混ぜになった複雑な感情と強い意志の力がその視線に滲んでいた。
先程までの冷静が嘘のようだ。感情的なその表情は言い換えれば隙だらけ。
カミラは冷静なタイプ――そう思っていたのだが、俺はどうやら読み違えたか?
「まぁ。そんな怖いお顔をなさって……」
「言うな、澱の魔女! 貴様、ぬけぬけと――」
強く放たれた呼び声はまるで研ぎ澄まされた刃。彼女自身が持つ鋭い宝剣そのものであるかのよう。
微塵も敵意を隠さぬ――憤怒に染まった声すらもリズは平然と跳ね返す。
「――御静かに。ベルは未だ」
唇に指を当て、悪戯っぽく言葉を投げた。
「それ以上のお言葉は又後程。主と共に宝石で。
聖水に祝福。くれぐれも白木の杭は御忘れなく。
身共一同、貴方様の御来訪を……ふふ。本当に心から――お待ちしておりますわ」
底冷えすら感じる冷たい声――
大凡他に聞いた事すら無いような零下の声で。