第十四話
吸血鬼が水底と称した静かな森。
最奥に位置する古城、その豪奢な玉座にて。
「本日も――」
声を掛けられゆっくりと視線をやる。
高貴さを感じさせる所作で黒レースのスカートのその裾をそっと持ち上げ頭を垂れる。
バスケットを手に提げたリズはそれからゆっくりと此方に歩み寄って来た。
「――御機嫌麗しゅう、ディルク様」
毎度の事ながら彼女は常に甲斐甲斐しい。俺の皮肉でぶっきらぼうな対応にも嫌な顔一つ浮かべていない。
日常は檻。記憶は未だ澱の底。
だが俺はそれについては少し割り切る事にした。
眠り、貪り、気まぐれに思いついては時を潰す。
日常を『澱』の宝石で過ごしながら我が身の怠惰を肯定すれば城を取り巻く空気も俺を取り巻く日々もいよいよ変化に乏しくはなるが。ここ暫くの俺はそれなりに日々を楽しんでいる。
最近は世情が騒がしいからだ。
変わり始めたのは森の外。
変わり始めたのはヒトの領域。近隣一帯。
そしてそれをそう変えたのは他ならぬこの俺自身である。
「……ま、小鳥が、あれだけいい声で囀るんだ。以前よりは麗しいさ」
「それは重畳」
つい二日前の『狩り』を思い出し俺は言った。リズは笑う。
現状を一言で説明するならば『人里の危惧が現実に変わった』。これで間違いない。
目が覚めてから二ヶ月を過ぎる頃には当初の不安は粗方消えた。回復は既に十分で、この身が癒えたならば変わらぬ退屈を甘んじて受け入れる必要は無い。
吸血鬼が奪う者であると言うならば、俺に赦された狩猟範囲は、広過ぎる。
この地におけるあらゆる生き物の生殺与奪は、俺の自由。
そんな些事に浮かれる心算は無いが、殊更に欲求を堪えねばならぬ理由も無い。
かくして呆気無く――ヒトの黄金期は去り、斜陽の時がやって来たという訳だ。ほんの暫く前『夜の魔王』の名を知らず、軽んじた連中も今その名を聞いたなら震え上がるに違い無い。
「今日の御予定の方は、如何なさいますの?」
リズは俺の機嫌が悪くない事を確認してから本題を切り出してきた。
「いい天気だからな。また、狩りにでも出る」
「まぁ、それは良いお考え」
やり取りは双方共に実に気楽なものだった。
この期に及べば心配性のリズも態々疎まれる同道を申し出たりはしない。
良い天気に嬉々とした吸血鬼が飛ぶなんて全く良く出来た皮肉であるが、概して事実とは小説より奇妙なものなのである。
俺の狩りはこの所連日だ。
加えて毎夜になれば『許可』を得た眷族共が森の外を跋扈する。
嬉しそうに話をしたリズによれば、死亡、逃亡含めて……近隣町村の人口は既に二、三割近くも減ったという。
俺の狩り方やここ暫くの森の動き方は数十年振りの『活発』であるらしい。それは人間にとってはそれこそ最悪。決して歓迎出来ない事実であろうけれど。
「それで……それがどうかしたか?」
「いえ、どうという事は無いのですけれど。そう仰るかと思って……」
「思って……?」
「今日は御外で召し上がって頂こうと昼食を御用意いたしましたの」
「お前がかよ」
吹き出しそうになる。俄かには信じ難い似合わなさ。
よくよく見ればリズは黒絹の手袋をしていない。網籠を手にした彼女の白い指先には不器用な手当ての跡がある。はにかむ乙女は吸血鬼で放っておいてもその程度ならすぐに治るのだから怪我をしたのはつい先程という事なのだろう。
当然の事ながら厨房に立つこの従者殿は想像すらも出来ない。
「……いけませんか? それは、その……
料理番に用意させた方が良かったかも知れませんけど」
俺の態度をどう受け取ったのか彼女は不安そうな……難しい顔をした。
居心地が悪そうに籠の柄をきゅっと握っている。そんな悲しそうな所作と表情は、実に『そそる』。だからもう少し苛めてやろうかどうか悩んだが――
「いや、有り難く受け取る事にしておくぜ」
――今日はこの位で許してやる事にした。
確かにリズの言う通り吸血鬼にとって料理は娯楽であり嗜好品だ。
それ以上でも以下でも無いのだから、出来はまず一番重要な基準なのだけれど。
「しかしお前がね。こりゃ傑作だ」
『手作り』だ等と言われれば話は別。上出来ならば良し。不出来ならば不出来でそれも良し。その意味は料理に上等の香辛料を添えるようなモノだ。
「実に光栄だよ。リーゼロッテ・アーベントロートに手料理を振舞われた男か、この俺は」
くっくっと喉で笑ってそう言うと、皮肉な言葉にも関わらず少女の顔は蕾が綻んだように華やいだ。
「わ、私……ディルク様に喜んで頂けるよう、練習いたしますから……」
「期待してるよ」
「……………はい」
リズは、赤面したまま無言で頷き俯いている。
命を狩り取る為の相談をしながらには――余りに不似合いな一時の空気。
まぁ、人間もいちいち齧ったパンの本数は覚えちゃ居まいが、吸血鬼ならば尚更だ。
「そう言えばお前はどう思うよ」
「どう……と、仰いますと?」
「戦争の話だ」
リズから『力作』を受け取り問う。
大きな狩りが戦いの呼び水に成り得る事は知れている。
そして今現在の俺達は日々その大きな狩りの手を止めていない。『大征伐』以後気配が消えていたエッフェンベルグが健在だという事は人の支配層にも十分に伝わっている頃だろう。怖れは無いが興味はある。
「大征伐――それにその以前はどうだった?」
「そうですわね……時の支配者の性格にもよりますわね」
リズは合点がいったというように小さく頷いてから応えた。
「何分、この辺境までは国王の手も回りませんでしょう?
自治自衛を任された領主――ないしはその上の貴族。彼等が勇猛ならば戦いにもいたりましょう。
けれど参考までに言っておきますとこの百年で大きな戦いがあったのは件の一度きりですわ。先代の伯は中々血の気の多い方でいらして……」
彼女は「だから私、楽観しております」と言葉を続けた。
「百年で一度……ね」
「ええ、唯の一度きり。尤も小さな討伐隊等は態々数えてはおりませんけど」
そう言うリズの顔にはありありと蔑みが浮かんでいる。
理由は分からないでか。まぁ他ならぬ俺達が言える筋合いでも無いのだが。
要はこの地の民衆は長く見捨てられてきたという事なのだろう。
ヒトの命自体はどうでもいいがそれはやはり支配者たる者の所業に相応しいとは思えない。
吸血鬼でも自分の縄張りと同族位は守護してみせる。『被害者』のこの俺が十年前の蛮勇を称えたいとは思わないが……最初から見捨てる判断に比べれば幾分かマシと言うモノだ。
「仄暗い森には――神の威光も届かず、か。神は死んだ、とはこの事かね?」
「必要ありませんわ。貴方様が居りますもの」
俺の言葉は皮肉と冗談の心算だったが――リズは、真剣にそう答えた。
にこにこと笑う彼女は「俺が神か?」とでも問えば本気でイエスと答えるだろう。
たっぷり暗黒の神への敬虔なる賛美歌を聞かせてくれるに違いない。
そういう意味では冗談がまるで通じていない。肩を竦める俺にも気付かず、幸福そうで結構な事である。
咳払いを一つ。
「さて、当代はどんな御領主か」
願わくば勇猛果敢な誰かでありますようにと内心だけで付け加える。
宝石の無変化を疎む俺はその大きな戦いこそを望んでいる。
それに復讐戦を気取る心算は無いが、二度目を負ける心算も無い。
借りは出来る事ならば返してやりたいと思うのも『人情』というモノだろう。
「戦争の方は、未だ分かりかねますが……
私、今度は御守りいたしますわ。絶対に、何に代えましても……」
『かつて』を思い出してか、少し表情を強張らせ強い口調で言ったリズに言葉を返す。
「期待してるよ……と言いたい所だが」
「……?」
「むしろお前を守らせろよ。それが男の甲斐性だろ?」
「――――」
必要あるとも思えんが――言葉の後半を口に出さないのはマナーでそれからデリカシー。
赤面して言葉を失ったリズが口をぱくぱくとさせている。それだけでこの戯言の元は取れた。
「さて、どんな御領主かね」
言葉は二度目。
俺達が件の領主殿を知るのは此れよりもう暫く後の事になるのだが――
尚、余談ながらリズの料理の腕前が散々だった事は付け加えておく。