第十三話
夥しい血液。浴びる程の赤。
杯を満たした命の雫に――とうに制約は消え失せた。
最早俺の動きを縛るモノは何も無い。
は、は――は――
土を踏む連続音。
荒い呼吸、それから恐怖の色が手に取るように分かる。
俺の目前を女が走っていた。
頬も、服も土で汚れ、膝は転んだ拍子に傷付いている。血走った瞳に、疲労と恐怖に歪められた鬼気迫る形相で。既に一分の余裕も無く、限界はハッキリしていても……女は転がるように駆けていた。
は――は、は……!
「おいおい、それは間違いだろ?」
村まで逃れれば……そう思っているのか。それとも単なる本能なのか。彼女の足はどうやら其方を向いている。いざ辿り着いてしまえばそこにも災厄を呼び込んでしまうという考えにも到らぬ様子。
滑稽過ぎる。彼女の必死と俺の悠然はゆうに俺が勝っている。
その背後に楽に張り付いた俺は、焦って彼女を狩る事をしなかった。
あくまでもじっくりと。既に彼女は翼折れ飛べない鳥か……はたまた俊敏さを失った野兎に等しいのだから。
力尽き、絶望し、命を諦め――それでも恐怖するその顔をこそ見たいのだ。
吸血鬼という絶対的な強者が獲物に何を求めるか。
これは、食事であると共に娯楽で更には誇示ですらある。下級の眷属であろうとも原則は変わるまい。
ましてや、ディルク・フォン・レイス・エッフェンベルグ。夜の主が違えるモノか。
は、は、は、は――!
疾走する女と追いすがる影。
耳に届く息遣いがいよいよ早く、細くなってきた。
あと百メートルも進まぬ内に、彼女は倒れてしまうだろう。
俺としても二度も三度もその肢体を泥に塗れさせるのは忍びない。何より今から喰らわんとする獲物がこれ以上薄汚れるのは歓迎出来ない。
ならばどうするべきか。決まっている。これで終いにするべきだ。
「さて……」
風成る魔術。加速を意識。
精神を集中し地を蹴る足にほんの少しの力を込めるだけで、速力は疾風すらをも追い抜いた。滑るように地を駆け、一呼吸で距離を詰め、背後から女を抱きすくめる。
「――――!?」
「もう逃げるなよ、お嬢さん」
自由を失った女の耳元で優しくそう囁けば、彼女の全身が硬直したのが良く分かった。
触れた両手と密着した身体。この距離なら酷使された心臓の鼓動さえ分かる。ぎこちなく振り返り俺の顔を見つめた女の顔には、泣き笑いのような無様な表情が張り付いていた。
「あな、貴方は――……」
掠れ声に、不器用な言葉。
たったそれだけの言葉を発する間にも歯の根が幾度も合わさりがちがちと鳴る。
「貴方はっ、一体……!」
何を問うべきか、何を言うべきか――どうすれば自分は助かるのか。
女は正直混乱しているのだろう。
だが言うに事欠いて。それを尋ねて何になる?
「さて、何だろうな」
「化け物だ」と言ってやれば満足するのだろうか?
それは分かっているだろうに。今更言われなくても俺がどんなモノであるかは。
内心のそんな嘲笑を押し殺し、代わりに穏やかに微笑みかけてやる。少し面食らったような顔をした彼女は、その一瞬だけまるで全てを赦されたかのような安堵の表情を浮かべていた。
では、神ならぬこの俺が――君に救済を与えよう。
「……っ、ぁ――!」
不意に引き寄せ首筋に口付ける。俺が柔肌に牙を突き立てたのはそれとほぼ同時。
右手で腰を抱き、左手で宙を掻くその手を捉えた。吐息のようにか細い悲鳴が漏れ、見開かれた瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それでも『魅入られた』身体は激しく抵抗するでもなく硬直したままだ。
せめて、一息に飲み干してやろう――
滴る朱が服を濡らす。それは鉄の味が滲んだ特別の美酒。戯れに本物の酒を嗜む事は多いが、幾度経験を重ねようともこれに勝る品は無い。何せ全身を即座に賦活する――性的快楽すら伴う食事である。味わいは常に格別で、いざ啜れば欲求は留まる事を知らなかった。
争いが止まない訳である。吸血鬼はやはり血を啜る存在なのである。
「……っ、っ……ッ……!」
弱々しく――それでも尚も身を捩り逃れようとする獲物を優しく抱く。
「誇ってもいいぜ? お前は美味い」
「……! ……っぁ……ッ!」
喉が鳴る度、頬がこける。命は枯れ――震える肌が色を失くしていた。とうに蒼白を通り過ぎた女の貌にはハッキリとした死相が浮かんでいた。
繰り返しの結末。幾度目か数えるのも馬鹿馬鹿しい食事と狩り。
それが、以前と違うのは――食卓が城では無く、狩場があの森では無い事。
「生憎と案外育ちが悪いみたいでな。マナーが無いのは赦せよ? お嬢さん」
空高く――燦然と太陽が輝いている事。