第十二話
静寂の森が真夜中に様変わりする光景は何時見ても異様で異質。
テラスから見下ろす森にざわめくのは無数の気配。昼間の内静かに眠っていた連中が起き出して蠢いている。
夜は人外の時間だと云う。
人々は戸に鍵掛け扉を閉ざし朝が来るのを――自分達の時間が戻ってくるのを待つものだ。
それは原則で前提だ。人間は基本構造として夜を怖れるように出来ている。
昼の主である彼等が、戸の内で息を潜めるのならば、世界は誰のモノになるだろう?
そう。闇の中を跋扈するのは昼を嫌う異形共ばかりになると言う訳だ。
溜息を吐く。
まさか俺に応えた訳でもあるまいが、ほうと梟の声がした。
真夜中の自室にあっては付き従って離れたがらないリズも遠慮する。いや、夜眠る必要の無い俺達に時間は余り関係無いし、呼び出して床を共にすれば……そうとも限らないのだが、今夜は無い。
今日の場合は朝以来顔を見ていない事になるから……やはり少し特別な感もあるが。
「さて……」
目覚め、狩り、人里の来訪。魔女のリドル――抜けない小さな棘のような違和感が積もり際立っている。
十年をうたた寝と呼び千年を生きる吸血鬼は文字通り永遠を抱く。リズも、パウルも、それ以外の下位眷属の連中ですら。『永遠』を過ごす事を、前提として理解して其処に在る。故に変化しない。性急に求めない。
降って沸いた些細に引きずられるのは実に愚かだと分かってはいるのだが――
「……………」
静けさの中一人夜に佇めば無意味な思考も空回る。
縛られない事は時間からの寵愛なのか。それとも、悪罵なのか――時折、分からなくなった。
少なくとも俺は僅か一ヶ月で連綿と続く変化の無い日々を疎み始めている。理解しようと努めて理解出来ない事の多さに辟易が隠せない。記憶の喪失に短期間で変化を求めようと思う事は難しいのかも知れないが……
問題の本質は『変化が無い事』では無い。宝石と森が持つ、此処を覆う――独特の雰囲気の方が重要だ。放っておけば、千年が過ぎても変わらず眠っていそうなこの空間自体と相容れない、そんな気さえしていた。
誰を責めれば済む――俺が必ず正しい、そういう単純な話ならばどんなにか良かった事だろう。
「やれやれ……」
何故なのか考えかけ、辞める。二度首を振って考えを隅に追いやる。
退屈な夜に急いて結論を求める事は無い。永遠を抱きながら時に追われるのは余りに愚かしい。
「……ディルク様」
不意に扉の向こうから声が掛けられた。
「宜しいでしょうか?」
「ああ」
機嫌を伺うかのようなリズの声に俺は短く返事を返す。
振り返り、静かに扉を開け入ってきた彼女に口の端を歪めて見せた。
「今夜は呼んだか?」
「いえ……」
今宵の伽を命じた覚えは無い。
だからしどけなく黒絹の寝着を纏った彼女は俺の言葉に小さく首を振る。
「今日は外に御出になられたとお聞きしましたので……御加減を悪くなさっていないかと」
『浮気』の方はバレてはいないようで安心。
しかし杞憂が過ぎる。心配されてもう随分と経つのだ。
「俺がそんな程度で弱るとでも?」
「滅相も御座いませんわ。ただ、私、それでも心配で……」
俺の言葉に少し不機嫌なモノを感じ取ったのか、リズは少し早口で弁解した。
言葉は何ら弁解にはなっていないのだが……まぁ、いいか。
何より乙女心とやらを盾にされれば分が悪くなるのは俺の方なのだから。
「安心しろ。多少力は落ちるが……直射を浴びた所でもうどってこたねぇよ」
「流石ですわ、ディルク様」
リズは窓を背に立つ俺の正面まで歩み寄る。淡い月明かりを受ける彼女は幻想的に美しい。
「用事は済んだんじゃねぇのか?」
「……もう。意地悪」
上着の裾をぎゅっと掴んだリズが薄い唇を尖らせた。
ああ、そんな顔するなよ。悪いのはパウルの方なんだから。
「今日は殆どお顔も見れなくて……私。もう少し此処に居たいと言ったら……増長でしょうか?」
「好きにしろ」
続けておどおどと問い掛けてくる彼女に俺は小さく噴き出した。
いちいち似合わないなんてモノじゃない。満更『知らない』仲じゃあるまいに。
まぁ、それが俺がこの女を面白く思う理由の一つなのは否定しないけれど。
「丁度退屈してたトコだ」
静けさを手懐ける事は後でも出来る。一人で静寂を過ごす事も悪くは無いが些か飽いた。
「付き合えよ。今夜は話相手とする事で伽としようじゃないか」
壁に寄り掛かりやや芝居がかって告げてやると、赤い目を細めたリズは言葉に小さく頷いた。
「折角だから聞いてもいいかい?」
「……? 何なりと」
リズは意図を捉えかねてか小首を傾げている。
「お前さ」
言葉にすれば余りに無意味。それは良く分かっているのだが……
「どうして俺に付き従う?」
ざわ――と風が吹く。夜の木立が僅かに揺れる。
「御存知の癖に」
言葉は温い調子だった。
「決まってますわ。貴方様を愛しているからです」
一分の迷いも無く笑みを含んだリズは答える。
それは再三、再四と聞いてきた言葉。彼女は愚直に愛を囁き、飽きもせず俺の顔を見つめていた。
「……質問を変える」
……今のは我ながらの愚問であった。
こう問えばリズの答えなんて最初から分かっていた事だ。
的確な回答を引き出すには、当然ながら適切な質問が不可欠だ。ならば。
「眠る前の俺とやらはどんなヤツだった?」
「……………」
「今と違うのか? 俺はどうして……お前をそんなに捕らえる事が出来た?」
それは長い疑問だった。目覚めたその直後位の頃からの。
矢継ぎ早の問いに答えかねてかリズは少し困った顔をしていた。
曖昧に笑みを浮かべ言葉を探し、それからゆっくりと口を開く。
「そうですわね……強い御方でしたわ」
「強い?」
「万事御明察にして、鋭敏。『得難い何か』を得る為ならば決して迷わない御方」
その一言からリズの言葉を思い出す。
――永遠を過ごしても二度目が無いモノはあるものですわよ?
或いはそれは……俺が教えた事だったのだろうか?
熱っぽいリズは夕方見た魔女と同じように『ひどく女の顔』をしていた。
「躊躇は無く、惑いも無い。何を捨て何を拾うべきなのかを知っている御方。
究極の一事の為ならばどんな犠牲も厭わない――そう。その意味と正解を知っている。約束されない勝利に挑み、奪い取る事を知る御方……」
賞賛はあくまでマイペースに続いていた。
少しの憂いを帯びた横顔は言葉を無くす程に美しい。
俺から視線を外し彼方を見つめる冷たい美貌は、まるで夜に捧げる讃美歌の如く。
神性に魔性が負けたか、奇妙に熱っぽく背筋をぞくぞくとした何かが舐め上げたかのように思えた。
「貴方様は……私が見て知った他の誰よりも王に相応しい御方でしたわ。
ですから決して死なせてはならないと。そう思ったのです――」
接しているだけで分かる重さ。それは何と言う深さだろうか――
俺には与り知らぬリズの万感が一言に篭っていた。彼女の十年はどんな時間だったのだろう? これだけ献身的な女が物言わぬ男と過ごした十年は……どれ程のモノだったと言うのだろうか。
「……澱の魔女は檻の魔女とも表します。時間から、時代から切り取られたこの森。
この棲家は古の時より流水を嫌う吸血鬼の澱んだ水場だったのですわ」
「……?」
「悠久の時が流れても、不変。
怠惰に繰り返し奪う事だけを続ける連続――変わる機会も無く、それが常に昨日の続きであるならば。
……一体誰が……与える事等、知りましょう?」
静かな調子に真意が見えない。
彼女はそこまで言ってからにっこりと笑って先程の問いに応えた。
「ディルク様はきっとお変わりありませんわ。
変わったのは、私。貴方様が何故私を捕らえ得たのかは――悔しゅう御座います。
他ならぬこの私に聞いていい事ではありませんわよ?」
小さな造反。だが幾ら不可抗力とは言えリズからすればそれは大きな心外なのだろう。これ程までに恋焦がれるに到ったその経緯を自分の口から説明しろ等と言われる事は。
それは十分理解出来る。まったく道理過ぎて尋ねた自分に苦笑してしまう。
「……悪かったよ」
「いえ……」
軽く詫びるとリズは逆に恐縮したように首を振った。
「ディルク様」
「……ん?」
「どうか、信じて下さいましね?」
不安そうな瞳の上目遣い。瞳は今日も濡れていた。
「決して嘘偽り無く。今の私の全てはただ貴方様の御為に。
ですからどうか私を――リーゼロッテをずっと御傍に置いて下さいまし」
吐き出された願いは余りに些細。些細でそれから無欲過ぎて。
それだけが望み――そう言われれば安易に「イエス」とも答えかねて躊躇した。
この懇願も繰り返し。そしてその目は百万の言葉を尽くされるよりも『真実そのもの』を物語っている。少なくとも彼女自身は恐らく何の迷いも無く、本気でそう確信しているのだろう。
「……………」
少しだけ気まずい沈黙を破ったのはやはりリズだった。
「……キスを」
「……あ?」
「キスを、下さいませんこと?」
月明かりを受け、幼い美貌が甘く誘う。
是非も無く腕を引く。手際良くその手を腰に回し至近距離で頤を持ち上げた。リズはうっとりと身を任せ、瞳を潤ませ、それからゆっくりと目を瞑る。
柔らかい感触。殆ど触れるだけの子供のような口付け。それは俺にとって――ある意味の逃げだった。
簡単に誤魔化されたリズは安心し、満足し切ったかのように俺の腕の中に居る。
――貴方は多くを知るべきです――
魔女の言葉が引っ掛かる。
世界はつい先程までと何も変わっていないのに、どうしてか胸がざわめいていた。
それが何かの警鐘なのか感傷でしかないのか――俺には分からなかったけれども。
唯。
唯一つ、気に掛かる――
「……お前を、信じてるよ」
――蒼褪めた月。無慈悲な月。宝石を照らす、上弦の月。
お前がそう言った俺を笑っているように見えるのは気のせいなのか?