第十話
「チェック」
盤面を叩いた硬質の音に正面のパウルは鳩のような笑いを零す。
「……いやはや、ヒトは見た目に拠らない……ですか?」
「失礼な奴だな、お前」
押しかけて興じるのは暇潰しのチェス・ゲーム。
かつんかつんと乾いた音を立てて白黒、象牙の駒が踊る。
攻防は俺にやや優位。一進一退を押し切り、そろそろ決まる勢いだ。
「チェック」
筋を覚えた時の事を覚えてはいないが、覚えた事自体は残っている。
全く都合のいい記憶喪失は、今日も如何なく発揮されているという訳だ。
「チェック」
「お強い。それに執拗ですねェ。此方は性格通りって感じですけど」
初めて人里に赴いてから一週間余りの時間が流れたが、俺の日々はそれ以上には変わっていなかった。
リズの献身的な過保護の甲斐もあってか、俺は日々実感する位には力を取り戻していた。日光やら何やらに以前程苦労しなくなったのは確かだ。しかし暴れるにはまだ尚早で……要するに退屈だ。
俺の目覚めと共に少しずつ不穏さを増す人里とは裏腹に相変わらず宝石の日常は穏やかそのものだった。
「お前の方も分かり易いって意味じゃ……他人の事は言えねぇだろ」
「……ですかネェ?」
「お前がどれだけリズが大好きなのかは知れるよ。唯、まぁ……本人には見せねぇ方が身の為だな」
「ははは、大丈夫。あれでお姫様ですからねェ。
リーゼロッテサマが御一人で男の部屋何かに来る事は滅多にないですし……
きっちり『幻視』はかけておきますからね」
俺は詐術を得意とする不忠な魔術師に小さく肩を竦めた。
パウルの部屋は確かにリズを迎え入れるには相応しくない。周囲を取り囲む本棚からは本が入り切らない位に迫り出している。床は散らかり、机の上には何に使うかも良く知れない魔術の器具が雑然と置かれている。
そして何より部屋の中で一際目を引くのが――今二人で言い合った『問題』だ。
部屋の正面には立派な額縁に嵌った古めかしいリズの肖像画が飾られていた。少し幼く見えるその姿は昨日今日のものではないのだろうが、何はともあれ彼女が見れば何かを言いそうな光景には違いない。
脳裏に蛇蝎のようにパウルを見下すあの女の表情を浮かべれば、手が出る可能性すら否めまい。
「……気になってたんだがな」
「はい?」
「リズって幾つなんだ?」
「ディルクサマはボクに死ねって仰せですね?」
パウルは冗句めいて言った。
成る程、先にも増して乙女心を盾にしたリズがコイツを虐殺する光景がすぐに思い浮かぶ。
「お若い方ですよ、リーゼロッテサマは」
「ほう」
「御歳は二百に届かない位でしたかね。ですからあんなに純粋でいらっしゃる」
二百が若いのか何なのかは難しい所だが。
ナイトが進む。パウルはルークを動かした。
話に気を取られた所為かパウルのこれは悪手だった。
「で、チェック」
「……ちょ、ちょっとは手加減してくれてもいいじゃないですカ」
三度目の王手でパウルの表情が少し苦笑いになる。
ゲームを五度も繰り返せば腕前の方は大体知れていた。
俺の四勝一敗だから……まぁ、実力差はその通りだ。
「加減したらゲームにならねぇだろ」
「競技は力の差が少ない方が面白いモンですよ、ディルクサマ」
抗議めいたパウルだが口調の方は期待せず……といった感がある。
「さてな。次は何を貰おうかね」
「鬼畜って言うんだと思いますけどねェ、そういうの」
「褒め言葉だな」
俺はにやりと笑って黒の駒を押し進める。
「チェック・メイト」
「……御命令とあらばお付き合いはしますがねェ……」
大仰に溜息を吐いたパウルは珍しく苦笑いを浮かべていた。
ゲーム盤それそのもの、上物のワイン、暇潰し用の魔術書、パウル手製の抗魔の護符。
四勝一敗の戦利品は当然ながら上々だ。望めばゲームの景品にせずとも手に入るものばかりだから大した意味はないが巻き上げられるパウルからするとたまらない所があるらしい。
「さて?」
「えーと。取り敢えず今の負け分は面白い話をお耳に入れる……で如何ですかねぇ?」
「ほう。この城に面白い話があるたぁ初耳だな」
意外なパウルの提案を俺は皮肉る。そもそもこうなった理由は退屈だ。本当にあるなら出し惜しみが過ぎる。
「手厳しい方ですねぇ。ボクにも色々事情があると言うか……一応特別なんですよ」
「特別?」
「ええ。リーゼロッテサマには内緒。ディルクサマを見込んで言いますケド。明日、客が来るんです」
パウルはやはり不忠である。負けなければ城主の俺にも言う心算は無かったらしい。
……まぁ、その程度をいちいち咎める程狭量では無いが。
「しかし……客? この森にか?」
「ええ、この森に。ボクの客なんですけどね」
俺の言葉を了承を受け止めたのかパウルはそんな風に話し出した。
「珍しいな」
違う領域に棲む吸血鬼同士が交流を持つという話は余り聞かない。
エッフェンベルグの森に態々赴く者が居るとは思えなかったが――
「ええ、珍客ですよ。何せ来るのは人間ですから」
――パウルの言葉は俺の予想すら上回った。
「……驚くぜ。どういう風の吹き回しだ」
「人間って言っても流石に普通の人間じゃありませんけどね」
「そりゃそうだ。これで普通の人間だったらもう一度驚く羽目になる」
まさか純愛を始める心算でもあるまいに。
「ええと、ディルクサマは魔女狩りって御存知ですカネ?」
「何処で聞いたか……案の定覚えちゃいねぇが話位は……な」
魔女とは主の導きならぬ魔術的な力を扱う人間の事を指す。
定義上、あらゆる魔術使いはここに分類される事になる筈だが……話はそう単純ではない。
村社会では民間法廷で『異端』が裁かれる事がある。
極端な表現をすれば無知が宗教を理由に政治力無き誰かを吊るせばそれが魔女狩りだ。
その殆どは異端とも超常とも関わりのない普通の人間だから大多数は冤罪でしかないのだが。俺が知り得る限りでも数百以上の人間が火あぶりや磔に処されている……実に理不尽な話ではあるが、大いに他人事でもある。
「彼女はね、本物の魔女なんですよ」
声を潜めて顔を寄せ、パウルは愉快気に告げてきた。
「魔女狩りを逃れた……いや、逃れたって言うと分かりませんけどね。本物の魔女。
百年と生きていない筈ですがね。その力は確かで、ボクとは……そうですね。謂わば『同盟関係』」
パウルの糸のような細い目の奥に嗜虐とも愉悦とも知れない奇妙な色合いが覗く。
元より嘘吐きの道化である。やはり言葉を額面通りに受け止める事は愚かなのだろう、そう思った。
……まぁ、この場合は一応信じて聞くより他にはないのだが。
「その辺の経緯は聞いてもいい話なのかい?」
「勿論。だってそれが『賭けの代価』でしょう?」
「成る程。思ったよりは誠実だな、お前」
「……ボクを何だと思ってるんですカ」
「大嘘吐き」
パウルは咳払いを一つして話を続ける。
「彼女には目的があるんですよ」
「目的?」
「ええ、他の何よりも優先するべき目的、目標。
それを叶える為に彼女はボクに接触したんですよ、向こうの方からね」
「度胸のいい女だな。ああ、女でいいんだよな?」
男が魔女と呼ばれる事もままある。期待させておいて叩き落される趣味は無いんだが。
「女性ですよ、間違いなく。それに女性の方が得てして執念深いモンですからねぇ。
多かれ少なかれ人間辞めかけてる方ですから、その想いは深く手段も実に多岐だ。
何せ吸血鬼に協力を求める位です。これ以上の証左は無い」
パウルの口振りは何処か皮肉で冷笑混じりだった。少なくともその『魔女』は興味の対象にはなっているようだ。だからと言ってコイツが素直に力を貸しているかどうかは微妙な所には思える。
「ディルクサマ、まーた失礼な事を考えましたね?」
「何の事だか」
惚けた俺に対してパウルは気にした風もなく、くくっと笑って話を続けた。
「まぁ、それでですね。彼女はこれが中々面白い人物でしてね。
ディルクサマとは気が合うかも知れない。や、向こうもかな?」
「へぇ?」
「『得難い何か』の為に他の全てを犠牲に出来る女性ですよ。
決して諦めないし、迷う事も無い。それを強さと呼ぶか――壊れていると呼ぶかは好き好きですけど。
ディルクサマってそういう、やたらに気の強いのがタイプでしょ?」
俺は肩を竦めた。パウルの言葉は夕日の中聞いたリズの言葉と被る。
リズを好ましく思っている以上は……俺は結局そういう思い切りのいい女が好きなんだろう。
「良くご存知で。しかし……リズはどうする?」
俺やパウルに比べてリズは厳格である。
例え魔女と言えども人間がこの城を訪れる事を認めるものなのか。まぁ、俺が言えば認めるのかも知れないが相手が女と来れば余計にいい顔はされない予感がある。
乙女心の癇癪で眷属が十もくたばれば、俺の責任は否めまい。
「それについては御心配なく」
パウルは俺の疑問を予期していたかのように余裕綽々だった。
「リーゼロッテサマは明日城を空けられますから」
「初耳だぜ?」
「ええ、これからボクが伝言を差し上げる事になってますからね。
ディルクサマが明日あの方に命じる御使いを」
「……最初からその心算だったのかよ」
「プランの一つであったのは否めませんねェ」
聞いたからには共犯だと言わんばかりのパウル。
本当にいい性格をしている。宝石にはそんなタイプしか居ないのは確かだが、ここまで来ればいっそ清々しい。
……しかしこの俺が比較的誠実で善良に見えるってのはどうなんだ?
「その気になっているならいいじゃないですカ。
それに用事が済んだらディルクサマも遊んでみれば良いですし。
変化が無いのが嫌なんですから、そういう変化は歓迎するトコでしょう?」
全く道理ではあるけどよ。
「リズも言ってたと思うが、あんまり見透かされると腹が立つぜ。それより……」
「……?」
俺はそれより何より大事な事をパウルに改めて確認する。
「その魔女、当然の事――美人なんだろうな?」