星の記憶と、固焼きの月
目覚めて開けた窓から雨のにおいを嗅ぎわけると、有希は抜き足で部屋を出ては両手を物で埋めて帰ってくる。
ベッドに落として私を見ると、
「いつもより、ぶさいくじゃん」と言った。
いや、うつる自分に、だろうな。
卑下するほど不細工になるというのに難しい。
言葉を持てればいいのにと考えなくもないけれど、そうもいかない。話せる同族なんて知る限りでは容姿ばかり憂いている魔女に飼い殺しの目に遭っているやつくらいだ。童話の中に居るやつだから会えたことはないが、ずいぶんと労苦があると思う。美しさばかり、魅せるものでもないのに強制されるだなんて。
おかしいだろうか。
人と関わらなければ仕事にならないが、問題はずっと勤めていると物だと忘れてしまうことにある。やっぱり無機質な物なのに顔ばかりみるせいだろう、と思っている。
姿見、と呼ばれたこともある。売られているときはたしかスタンドミラー、といったか。
私としては、有希の名付けた「ミラ」が気に入っている。
単に鏡だからではなくて、ラテン語で「不思議な星」という意味があるらしい。見かけの明るさが周期的に変わる、というのは見る人間からすればたしかに合っている。たとえ自分本位だとしても良いと思ってしまうのは人のいう親馬鹿のように評されてもしかたはない。
「やっぱりひどい」
有希は顔をゆがめた。このところ聞き飽きた文句だ。
眉間に皺をよせ唇を一文字に引き結んだしかめ面はたしかに可愛らしいとは距離を置いたところにいる。
表情を改めたらどうかと思っていると背を向けることからして議題はそこにないらしい。着替えるあいだに持ってきたものを見るとなるほどわかる。ドライヤーに櫛、ワックスの容器に化粧水。ポーチは化粧道具だ。
新しいかおをつくるのか、と頭部がパンの子供向けアニメーションを浮かべているのを敏感にも察知したのか、寝間着を飛ばしてくる。被せられたら当然、見えないから静かにしているより他にないが、しかし、女性になりつつ人間というのはとかく難しい。
ようやく外されて視界が戻ると制服のリボンタイを結ぶ有希の、さっきと趣のちがう引き締められた視線をまっすぐに向けられて動揺してしまう。
逸らせば、スカートの途切れた先に生白い太股があって、思わず唾を飲みくだすひとの男の素直な反応がわかる気持ちになって、買い与えた有希の父親が覗き込んできたときの角張った輪郭と眼力の強さを呼び起こさせて物としての感覚を呼び戻し諫める。
全身をうつす鏡がほしい、と求める人間で多いのは女か娘をもつ親で、家具屋で据え置かれていた私を買い取った彼らも例外ではなかった。
出逢ったばかりの有希は身の丈の半分しか無くて、ずいぶんと大物である私を部屋に果たして置く意味があるかわからなかったものだ。有希はズボンの似合う活発屋で、周囲を走り回っては身の縮まる思いをさせられた。
何回もだ。
母親が言い聞かせて、瞬間はわかったと応えてもすぐに忘れて繰り返すから、しばらくおかげで納戸行きになった。このときばかりはできないため息をしてみたくなったのもいい思い出だ。
冬眠期間をおいて起きてみると有希は小猿ではなくなっていた。
立ってみれば頭一つ分の差しかなく、身なりを気にする顔も持ち始めている。
初めて、ちゃんと姿見としての仕事になったときも、有希は制服だった。深緑のブレザーに市松文様のスカート姿を三年見送った後は紺地へと変わり、一年が経っている。顔をちゃんと見れなくなったのは最近だ。職務を思えば恥なのだが、慣れない。
「あと……十五分か」
反射範囲を広げ壁時計の針を確かめれば七時を過ぎている。朝食を考えればそう時間はとれないだろう。
有希はうすい眉に色を書き加えるだけにして、あとは髪型に取りかかる。ドライヤーの温風を頭の真後ろから吹きかけると乱れて髪は広がり頬にかかり、合間からほんのり熱で赤く染められた耳が覗く。一度止め、櫛で整えると青いボトルを出して小指の爪ほどワックスをすくい取り、手のひらによく擦りあわせ伸ばしてから髪の内側に指を差し入れて力を込めてしごいた。外巻きに飛び跳ねていた毛先が落ち着いたようにみえる。
「おい有希」
呼ぶ声とともに戸が開いて、寝間着姿の青年が体を半分差し入れる。
「また勝手に持ち出したろ」
「なにを」
「だからワックス」
振り返りながら、後ろ手で私の背後にボトルを仕舞い込む。
「そんなの知らない」
立ち上がる膝からドライヤーが落ちる。
「着替えてるとき入ってこないでって言った」
「もう終わってんだろ」
「支度まだだし」
戸を蹴る勢いで押しだそうとする有希に、兄の肇は頭を引っ込めた。
あぶねえ、と吐かれた文句に引き下がるかと思えたが扉に片足を挟み込まれ起点にされ、力でこじ開けられる。諦め息をつく有希に構わず肇は私に寄ってくると支えの足元に隠したボトルを易々と見つけ出した。
「自分で買えよな」
取り残される有希の口を曲げた不細工な顔と目が合う。ワックスって高いっけ、とでも勘定しているのだろう。視線があわない。
「ゆーきー、ごはん食べなさい」
居間から届けられたであろう声にわかってる、と有希は大声で返した。やっと目線が合う。ワイシャツの襟を正し、リボンタイの形を調え、紺地のスカートにしわが寄らないよう神経をつかいながら三度折り返せば、より有希の生白い膝があらわになった。
そこには、一本斜線が走っている。小学生の時分に転び擦りむいた痕が年数を経ても消えずに残っている。
「ねえミラ」
なんだい。
「もう、あたし、十七になるんだよ」
しっているさ。誕生日にプレゼントされて私をゲームと交換してって吠えたころから見ているんだから。
「全然さ、大人っぽくならないよね」
反転して映る自分に問いかける有希に答える言葉が無いのがどうしたって悔しい。きみは変わった。無機物であるはずの心を揺らすくらいに。
「少しはさ、きれいになりたいって思うんだよ」
ああ、だから魔女の鏡が恨めしかった。
求められた答えを返すのであっても自身の言葉で主を褒める術を、安心させられる方法をやつはもっている。
「ミラ?」
聞こえるのだろうか。なら答えを想うよ。
時を経て、きみはどんどん魅力的になってきている。今もそうだし、これからはもっと変わっていく。ずっと見守れるわけではないけれど、いつまでも幸せを願っている。
さあ、いってらっしゃい。
*
驚いた。
触ってもいないのにスタンドミラーの角度が変わりあたしの頭を叩いたのだ。かるく。
「どうしたの、ミラ?」
問いかけを繰り返して、口を次いで出た名前に赤面する。三度目だ。
自分の物に名前をつける習慣は幼い頃のもので、今はもう新しく名付けたりはしない。けれども、昔を忘れているわけでは無いからふと話しかけることもあった。
兄や友人たちには決して言えないクセだ。なんとなく、不安がとれるからやめられていない。小さいころ付喪神が出てくる話なんて読んだせいだ、と思う。長くても十年の付き合いでも、愛着のある物にはなにか憑いている気がするのだ。
「いつまで身支度しているの!」
尖った母の声が届く。
ミラの角度を戻して一度表面を撫でてから電灯のスイッチを切った。
食卓に着くと皿のうえに両面焼きの目玉焼きがベーコンのうえに横たわっている。
「パンは?」
「一枚ちょうだい」
「ください、でしょう」
訂正して母はバターナイフといっしょに手渡す。薄くマーガリンをぬった食パンへ醤油を垂らすと、ただ表面を滑っていき留まらずそのまま皿へと流れた。無駄なことする、と一別した兄は半熟の炒り卵にケチャップで波模様を描きながら言った。
「やっぱ早めに火止めたほうがおいしいって」
「そう? でもお父さんもずっとこれだからねえ」
慣れてるから、と続ける母は中濃ソースを白身だけにかけて中心にはふれない。きっと箸でつづいたとしても黄身に穴を開けるだけで液が染みでたりしないだろう。
「両面焼いたのが好きなのか」
「え?」
「だから、好みを訊いたんだろ」
ちっ、とかるく舌打ちする兄のエプロンの下から定められた制服が消えて久しい。その気にさえなれば酒も飲める歳を兄はすでに向かえていた。
「なあ、有希」
「うーん……」
ほんとうは目玉焼きを食べるくらいなら、トーストだけでよかった。あっても、まだ片面焼きでもっというなら黄身が半熟だったら好きに食べられるのに、あろうことか固焼き。だからといって、作ってもらっている立場で毎日食べ続けている味を否定する度胸はない。
兄はため息をついて、
「なら炒り卵とだったら、より好きなのはどっちだ?」
と呆れながらも「より好きな」に力を込めていう兄を見上げた。
「いり、たまごだけど」
横目で母の顔色を窺うが、頓着せずに目玉焼きの白身を切り取り分けている。
「じゃあ今度は作ってやるよ」
だから勝手に使うなよ、と小声でいう兄の言葉の先にはさっきのワックスがある。返すつもりもなく勝手に使っていたのに、あたしにばかり良い交換条件に熱が上がる。きっとまた、顔が赤らんでいるだろう。見た目ばかり気にするからミラは怒ったのだ。いや、怒ったかどうかを考えるのも違うか。
叩かれた固さを思い出しながら、きょうばかりは目玉焼きを牛乳で流し込むのはやめにした。