誕生日ありがとう
この小説は完全なフィクションです。
「三、二、一。ハッピーバースデー」
僕はどちらかといえばしみったれた、だだっ広いことだけが八十年代を思わせるようなパブとスナックの間の店で、生まれた時は男だったはずの女の子や、生まれた時は女の子だったはずのお嬢さんというには時が流れた女性や、昭和を生きたことのない男の子や、すでに頬を上気させた彼女に囲まれて三十うん歳の誕生日を迎えていた。桜も散ってしばらくたつのに、まだ活躍中の冬物のコートが壁にかかっている。
がちゃがちゃとグラスを合わせる。シャンパンをみんなでなんて洒落たことはなく、それぞれ好きなものを飲んでいるのでグラスの大きさもばらばらであれば、入っている液体の色もさまざまだった。間に合わせのようなケーキが運ばれてくるが、群がっているのは元男の女の子たちで彼女は手酌で注いだワイン入りのピルスナーを片手に、もう片方の手を僕の膝の上に乗せていた。
がやがやと、便乗して騒ごうというのが見え見えの中、彼女は僕の顔を見た。化粧っけのない、それでも長いまつげの瞳がうるんでいる。
「なんでお前が泣きそうなんだ」僕は笑いながらもどきどきした。世の大多数の男性にたがわず女性の涙は苦手である。
「感動した」ブドウというよりアルコールの匂いのする呼気とともに、彼女はそうつぶやいた。
「結構、しんどいこともあったから」そう言えば去年は、仕事と嘘をついて友達うちで誕生日パーティーを、しかも女の子のたくさんいる店でやった。
「二十四時間しかない大切な一日のうち、一秒も一緒にいられなかったことはさみしい」とメールをもらい、いいだせなくなって、それでも何ヶ月かしたある日、ふとその日のことを話してしまった。彼女は長いことそれを根に持っていた。
彼女に対する友人の評価はいまいちである。
特に美人ではないし、毒舌である。きちんとしすぎているイメージがきつい印象を与える。一言でいえば、意地悪しても、「ふん」と鼻を鳴らして冷たい視線で三倍返しする決して泣かないタイプで、僕も初対面の時は苦手なほうであった。
それでも化粧を落としても変わらない素顔をしているし、眠っているときは子供のような可愛い顔をしている。ついでにごりごりと歯ぎしりをしている。ばさりと切り取るような物言いをするが、筋は通っている。いつも背筋が伸びている大人の顔をしているが、二人の時はいつもくっつきたがるし、敬語とまでいかないが、
「先にお風呂に入ってください」というような丁寧な話し方をしばしばする。それは非常に心地よい。基本的にはきちんとしてゴミの分別も完璧だが、タオルの端は揃えないし、いつも一口分だけ飲み物を残しっぱなしにする。要するに照れ屋で甘えることが苦手なだけなのだ。傷付くことが怖くて豪勢な鎧を身につける。生身の彼女を知っても僕は、友達に彼女と付き合っていることを秘密にしていた。僕も、人前で自分のことを「僕」と呼んだことなどないくらいカッコつけで、彼女に劣らず照れ屋なのだ。
仕事が忙しくてさみしい思いもさせた。
彼女は足しげく僕の家に通ってくれるが、ほとんど眠るだけで、目覚まし時計のように彼女を扱う羽目になってしまうことも何度も続いた。たまの休みも家でごろごろしている僕に文句も言わず、寄り添っていた。それでもなぜか、一生一緒にいるような予感はない。自分に対する予感というのは、かなりの確率で当たるものだ。そして身近な人には伝わってしまうものだ。
元男たちはケーキに夢中である。彼女の様子に気がついたのは、とうのたったお姉さんだけで、気付かないふりで酒を飲んでいる。
彼女は深く息を吐いて、
「一年のうちでどうでもいいただの一日だった」と「どうでも」のところに渾身の悪意をこめて言い放ってから、もう一度息を吐き、眉間にしわを寄せた。
「大切な一日になるまでに三十年以上かかっちゃったよ」端数を失礼なくらい切り捨てて、口元には一生懸命笑みを浮かべているが、その奥でこらえているものが見える。ちょっと困ってしまった僕にお姉さんが助け船を出してくれる。おどけたように、
「二人の時は甘いささやきとかあるの? 愛してるよぉとか」という。僕たちは顔を見合わせ、
「いうわけないよ」と声を合わせた。
「恥ずかしすぎるだろ」と大笑いしている隣で彼女は首を横に振って、
「そんなの好きすぎていえないよ」と呟いた。
気がつくと、どうやって仲良くなったか思い出せないくらい、彼女と過ごした時間は長くなっていた。
飲み歩くことが減った。もちろん発端は景気の低迷で家賃分もの給料カットで晩酌を始めたのだが、今では彼女の作るジャガイモとコーンミートの炒めものときゅうりの浅漬けでビールを飲むことで十分満足だっだ。
「起きてご飯を食べてください」と耳元で囁く彼女の声が好きなのだ。先に出かける僕の車を見送ってくれる姿がうれしいのだ。そしてそれが当たり前で、なくなってしまうことなんて考えてもいない僕がいるのだ。
彼女は鼻を大きくすすり、息を吸ってからあらためていった。
「お誕生日おめでとう」
息をとめて、のどの奥で甘い痛みをこらえる。柄にもないことをいったって許されるだろう。僕たちはもう多分折り返している。死ぬまでそばにいても、過ぎてしまった分よりも迎えることが多いかなんて保証されているわけでもない。
「これからはずっと特別な日にしといてくれよな」
四月に雪が降る時代だ。彼女が泣いても不思議はない。先行きだってみえない世の中で、僕の予想が外れても仕方がないことだろう。
「何いちゃいちゃしてるのよぉ」
餌を食べつくした猛獣たちの矛先から彼女を守るように、頬を指で拭い、指先が生暖かく濡れる感触を満更でもないななどと思った。
「いちゃいちゃしたっていいじゃないのよ」
「あんたがそんなだったら五月も雪が降っちゃうじゃない」おどけてそっぽを向いて見せる彼女の掌が膝の上でぎゅっと閉じて、僕は、今ここに存在していることを実感した。
「お前ら親不孝揃いなんだから、母の日くらいちゃんとしとけよ」そういいながら、僕は久しぶりに心の底から両親に感謝していた。
小さい頃は両親の、大人になったら彼女や彼や友達や……本当は誕生日って自分のものっていうより、大切な人たちのものって気がします。
5分大祭前祭の参加作品として執筆いたしましたが、有意義な5分を過ごしていただけたでしょうか?
ほのぼのしていただけたら合格点、カーネーションを予約されたら自分を誉めてやりたいと思います。
お付き合い、ありがとうございました。