第六章 継続は力なりというが継続できる人はそもそも力があるので参考にならない
10月中旬、柳とすみれは、富岡准教授の研究室で、毎週恒例となった基本書の理解度を確認するテストを受けていた。8月の合宿後、しばらく麗子が勉強を見てくれていたが、そのうち自分の試験勉強が忙しくなったため、十一星団OBの先輩方に指導を頼むこととなった。OBである富岡先生は、柳とすみれに刑法の勉強法を指導してくれている。
「二人とも、刑法総則についてはだいぶ理解が進んだね。そろそろ判例とか事案に応じたケーススタディを始めてもいいかもね。」
「ありがとうございます。」
「しかし、毎日8時間勉強を続けてるんでしょ。えらいよね~。」
「フフフ~。」
すみれは笑ってごまかしたが、実際には平均で毎日3時間くらいしか勉強していない。夏休み中は毎日8時間ずつ勉強することにチャレンジしたが、あえなく一週間で挫折。その後は、罪悪感を抱えながら毎日少しずつ勉強している。
「はい。一日でも早く司法試験に合格しないといけないので。」
柳は力強く答えた。柳は本当に毎日8時間ずつ勉強しているようだ。
「本当に偉いよね~。夏合宿で最初に会ったときは夜のお仕事みたいな恰好してて驚いたけど、実はマジメだったんだね~。」
柳は、良子の指導を受けて服装が一気に落ち着いた。色合いは地味だがタイトなシルエットが出せるパンツと襟付きシャツのコーディネートに、リオルのパーソナルカラーであるバイオレットをワンポイントで入れて、「リオルがプライベートで着そう!」みたいな雰囲気をうまく出している。
「まあ、私も陰ではだいぶ協力したんですが・・・・。」
すみれは小声でつぶやいた。良子が柳に会ってアドバイスしたり、買い物に付き合ったり、親身になって指導をしていることを見て、灰色の三連星が嫉妬し、いつも牽制し合っているくせに、この時ばかりはと結束し、攻撃のベクトルを柳へ向けていたのだ。すみれはそれを察知し、柳に気づかれないよう三連星と対峙し、それぞれ完膚なきまでに叩きのめし、すっかりおとなしくさせたことは柳には秘密だ。だって怖がられちゃうから。
「そういえば、西園寺さんから聞いたんだけど、尾方さんは好きな子を振り向かせるために勉強頑張ってるんだって?」
富岡先生はニヤニヤ笑いながら唐突に放り込んできた。
「いや、好きというか・・・支えになりたいというか・・・頑張るモチベーションであることは間違いないですが・・・」
「フフフッ。」
富岡先生は微笑んだ。
「やっぱりおかしいでしょうか?自分でも不純な動機であるとはわかっているんですが・・・。」
「いやいや、違うよ。藤井先生を思い出してね。」
そういうと、富岡先生は自分の机の一番上の引き出しから写真立てを取り出した。
「この真ん中の人が藤井英樹先生。僕の指導教官だった人だよ。」
写真の真ん中には、グレイヘアで分厚い眼鏡をかけた男の人が映っている。ぱっと見たところ、柳の父親よりも年上に見える。50代から60代くらいだろうか・・・・。
「わ~、右の人が富岡先生ですか?わっか~い。」
「これは学部のゼミのころの写真だから、20年くらい前だね。」
「それでなぜ急に藤井先生の話を?」
「うん、藤井先生は、十一星団の創立者である十一人のうちの一人なんだけどね。同じく創立者の一人に、吉本すばる先生がいたんだよ。知ってる?」
柳とすみれは首を振った。
「現在は高名な女性弁護士なんだけどね。知らないか・・。その吉本先生は、学生だった頃は、才色兼備、優雅典礼を絵にかいたような才媛だったらしい。藤井先生は、そんな吉本先生をキャンパスで見て一目ぼれしたらしいんだよ。」
「へ~っ、この写真のおじいちゃんが一目ぼれって不思議な感じですね。」
「藤井先生は、なんとか吉本先生とお近づきになりたいと思って、それで法律には全然興味がないのに、十一星団の前身となった勉強会の集まりに参加したんだそうだよ。そこでわからないことを質問したり、本の貸し借りしたりとか、必死のアプローチで一気に距離を詰めて、すぐに告白したんだって。」
「見た目によらず肉食なんですね、このおじいちゃん。で、付き合い始めたんですか?」
「いや、あっさりフラれるんだ。吉本先生は、『私よりも頭が良くて、輝いていて、常に前を走っている人でなければ、決して好きになることはない』と言ってバッサリとフッたらしい。」
「きびし~。」
「しかも、吉本先生は当時の法学部ではぶっちぎりのトップを独走していたらしいから、つまり好きになる人なんていないって意味らしいけどね。吉本先生のお話では、言い寄ってくる男たちを手っ取り早く断るために、全員にそう言っていたらしいんだけどね・・・。」
「うらやまし、うらやまし。」
話に興奮するすみれ。
「ところが、他の人と違って藤井先生は、あきらめきれず、吉本先生に振り向いてもらうために猛勉強をするんだよ。そこが今の尾方さんと似てるなって思ったんだよ。」
「それで・・・藤井先生はどうなるんですか?」
柳は引き込まれるように身を乗り出し、尋ねた。
「大学四年生のときに、法学部を首席で卒業し、また司法試験と国家公務員Ⅰ種試験のいずれもトップで合格したんだ。」
「すごい。それで本懐を遂げたんですね。」
「というか、完全にオーバーキルでは?別に全部で1位にならなくても・・・。」
すみれが口をはさむ。
「いや、その年の法学部の次席は吉本先生、司法試験と国家公務員Ⅰ種試験の2位も吉本先生だったらしい。」
「なんと薄氷の勝利!!」
「藤井先生は、この成績が出そろったところで、すぐに成績表と花束を持って吉本先生にプロポーズしたんだそうだよ。『前だけを見て全力で走るあなたに振り向いてもらえないから、僕が視界に入るためにはあなたの前に出るしかなかった。これからも僕はあなたの前を走り続けるので、ずっと前だけを見ていて欲しい』って。」
「きゃ~っ!素敵~!」
すみれが叫ぶ。
「すごい・・・そんなことできるんだ・・・。雨だれが石を穿つなのか。」
感に堪えないといった感じで柳もつぶやく。
「ぜひ藤井先生に会ってみたいです!あっ、20年前でこんなおじいちゃんってことは、もう定年退官されてますよね?」
「いや・・・藤井先生はもう亡くなったんだよ。過労からか、30代の半ばから視力が衰えて失明し、40歳を過ぎてすぐに持病が悪化して。でも、短期間に重要な論文をいくつも発表し、刑法の方向を変えたとまで言われているんだよ。」
「えっ?でもこの写真・・・。」
「これは、先生が35、6歳の頃じゃないかな。そろそろ視力が衰えてきたころだと思う。」
柳は写真を何度見たが、そこに移った人物は60歳くらいにしか見えなかった。
「あの・・・・それは若い頃の無理がたたって・・・ということでしょうか?」
「そうかもしれないね。ただ、短い人生だったけど他の人よりも濃い人生を送ったと思うよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
柳は黙ったまま、藤井先生の写真を見ている。
「尾方さんもほどほどにね。まあ、藤井先生ほど頑張ること自体が一般人には到底不可能なんだけどね。」
「僕も・・・前に出られれば、振り向いてもらえない人の視界に入れるんでしょうか・・・。」
柳は写真を見たままつぶやいた。
「尾方さんの想い人も、前だけを見て走る人なのかな・・・?」
うなずく柳。
「そうだな・・・・来年の5月に十一星団の優等学生選抜試験があるの知ってる?十一星団のOB会主催で、現役学生が憲法、民法、刑法の試験で競うコンペがあるんだよ。その総合得点で3位までに入ると表彰される。その彼女より上位にランク入りすれば、いやでも目に入るだろうね。」
「それは・・・難しいんですか?」
「もちろんだよ。OBが司法試験や予備試験と同じくらい難しい問題を作るし、司法試験目指して真面目に勉強している3、4年生が何十人も参加するからね。中にはその年の予備試験を合格する人もちらほらいる。去年の総合1位は西園寺さんだけど、3年生で1位になること自体空前絶後だって騒がれてたからね。もし尾方さんが2年生でランク入りしたら大騒ぎになっちゃうよ。」
「しかし、それを達成すれば、間違いなく視界に入るはず・・・。」
「フフッ、頑張ってみるといいよ。僕も応援するからさ。まあ、3位までは表彰されるし、そのあたりを目指してみるのはあるんじゃないかな。」
その後、柳とすみれは、富岡先生の研究室を出て、帰路に就くため一緒に正門に向かって歩いた。あたりはすっかり日が落ちて暗くなり、図書館のライトが正門までの道にあるすっかり黄色くなった銀杏並木を照らして幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「すごい話だったね・・・。」
「うん、正直、少し挫けそうになってたんだけど、まだまだだなって思った。」
「でも、あんなに早く亡くなったんでしょ、尾方くんにはそうなって欲しくないな・・・。」
「・・・僕は、高校の時は陸上をやっていて、ずっと箱根駅伝に出ることが目標で、すべてを懸けて打ち込んできたんだ。だけど、その目標を失って、代わりにすべてを打ち込めるものをずっと探してたんだ。やっと見つかった気がする。」
「陸上やってたんだ。どうしてやめちゃったの?ケガ・・・とか・・・。」
「いや、才能がなくて、走っても走っても速くならなかっただけで・・・。」
「ああ、そうですか・・・・。」
柳は足を止め、すみれを見て微笑んだ。柳の切れ長な目の目尻が下がり、半円の形になった。
(あっ、これは山田先輩に指導された表情だな。)
「僕、頑張ってみるよ。青春を失っても、寿命が縮んでもいい。山澤先輩の前に出て、山澤先輩の視界に入るよう頑張るよ。大河内さん、いつも助けてくれてありがとう。これからもよろしくね。」
「・・・・・・」
すみれは自分の複雑な感情がどんな名前なのかわからなかった。ただ、柳の表情をうっとりと見とれながらも、ひたすら胸がざわつき、その裏には不快な感情があるような予感もした。その感情を言葉にしようとして、口から出てきた言葉は、すみれも予想すらしていなかったものだった。
「わたしも一緒に走るよ。山澤先輩も、尾方くんも追い抜いて、私の方が前に出るよ・・・。」
(そして、振り返ってもらえないなら、前に出た私を見てほしい・・・。)
最後の言葉は胸にしまいこみ、すみれは柳を促しながらゆっくりと駅の方へ歩き出した。