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第三章 なぜ彼は死ぬために山に登るのか

5月も終わりかけたある日、みやびは階段教室で、30人程度の新入生向けに民法の答案の書き方を講義していた。

「民法の答案では、事案を読み、法的課題を抽出し、適用すべき法令を特定し、法令に事案を当てはめて、結論を導き出すという流れで書く必要がある。そして、法令に事案を当てはめる際に法解釈上の問題が設定されていることが多いので、そこで法解釈上の問題を論ずることが必要となる。」

みやびは事例を板書した。

「例えば、『Aは、土地の周辺で開発計画があると聞いて、必ず値上がりすると期待して、地主のBに対して口頭で土地の売買を申し込み、Bはそれを承諾した。しかし、契約書を取り交わす前に開発計画は事実ではないことがわかった。Aは、Bからこの土地を買わなければならないのか。』という問題がある。法的課題としては、1つ目,売買契約は成立しているのか、そして2つ目、売買契約が成立していた場合、開発計画があると錯誤していたことが売買契約の無効事由となるのか、という点が考えられる。」

流れるように言葉を紡ぐみやびを教室の最後部から、カリン、麗子、良子の3人が見ていた。

「相変わらず、みやびの完コピ能力はすごいわね。去年の先輩の説明とまったく同じじゃないの。」

良子が感嘆したかのように小声でつぶやいた。

「ほんとに、最近の腑抜けた様子を見た時は大丈夫かと思ったけど、立ち直ってきたのかしら。」

麗子は、視線をみやびに向けたまま、良子に小声で答えた。

「あれは心をオフにしてオートマでしゃべってるだけよ。あの日以来、燃え尽きてしまったというか、生きる目標を失ってしまったというか・・・」

カリンは心底心配であるといった表情をした。

「今日の説明会終わったら、みんなでご飯でも行って元気づけてあげましょうか。」

良子がつぶやいたその時、教壇にいたみやびが話を打ち切った。

「以上が、民法における基本的な答案の書き方だ。各自、答案練習を繰り返して、自然と答案が構成できるよう型を身に着けてほしい。本日は以上だ。」

「あっ、終わったみたいよ。じゃあみやびちゃんのところへ行きましょ?」

「待った、あの忠犬が性懲りもなくみやびのところへ一直線に駆け寄ってるぞ。」

最前列に座っていた忠犬こと尾方柳は、ノートを持って小走りにみやびに近づいて行った。

「山澤先輩、質問よろしいですか!」

「ふ~ん・・・」

「さっき話していた錯誤のところなんですけど、動機の錯誤と詐欺取消の違いがよくわからなくて・・・」

「う~ん、教科書読めば書いてるんじゃないかな・・・。」

「いや、内田先生の民法読んだのですが、よくわからなくて・・・。」

「う~ん、難しいよね~。」

必死に質問を繰り返す柳に対し、うわの空で適当な回答をするみやび。

戸惑う柳に対して、良子が後ろから優しく声をかけた。

「尾方くん、みやびちゃんは、ちょっと大変なことがあって・・・わかってあげてくれるかな。わからないところがあったら私たちが答えるから。」

思わず振り向いた柳を見て、みやびはスキを突くように、フラフラと、しかし機敏に教室から出て行った。

「あっ・・・山澤先輩・・・。」

「ごめんね・・・。みやびちゃん、人生最大の目標を失ったところで、魂が抜けちゃってるのよ。」

「えっ!!いったい何があったんですか?俺が力になることがあれば・・・」

「いや、大したじゃないのよ・・・一般的には全然・・・」

「でもあの様子じゃ・・・山澤先輩にとってはすごく大事なことなんですよね!俺も高校の時に目標を見失ったことあって!とても他人事じゃないんです!」

熱い目で良子に詰め寄る柳。そこへカリンが割って入る。

「推しがいなくなったんだよ!みやびの最推しが!」

「???どういうことです????」

カリンは、ここ2か月でみやびに起こった話を説明した。ことの始まりは4月にみやびとカリンが舞台を見に行った翌日、2.5次元舞台でリオル役を演じていたユートが、Xで享和学館大学への入学を公表したことだった。この時、みやびは予想が当たったと得意の絶頂であったが、数日後、奈落の底へ叩き落される。芸能人の名門私立大学への入学を疑ったネット探偵たちが徹底した調査を行った結果、ユートは確かに享和学館大学の法学部へ入学していた。しかし、入学したのは通信課程だったのだ。これを学歴詐称だとしてネットで炎上。探偵たちはさらにユートの身辺を徹底的に洗うこととなり、ユートが実は19歳ではなく25歳であったこと、すでに極秘結婚していて子供がいることすら公となってしまった。あわれなユートくんは、ネット世論の批判の波に耐え切れず、メンタルを病んで舞台を降板。そのまま長期の活動休止に入ってしまったのだ。

「あ~。ネットニュースで見た・・・かもしれないですね。そんな話。」

柳はあまりピンと来ていない様子である。

「しかも、それだけじゃないの!」

ゆっくりと階段教室を下りてきた麗子が後を引き継ぐ。

「『絶対正義の法廷』、原作の連載で、ルカが、リオルの所属する法律事務所のライバル事務所に移ったんだけど、そこの代表弁護士の御曹司と結婚するのよ。」

「はあ・・・?」

「納得できない表情ね!でも、みやびは完全にルカに自分を投影していたの。あのみやびの口調を聞けばわかるでしょ。実生活においてルカになりきってたのよ。ルカになって、リオルを法曹界へ導き、カップルとなること!それがみやびの人生の目標!それが現実でも、創作の世界でも両方奪われてしまったのよ!」

びしっと指を突き付ける麗子。柳は唐突な展開に頭が追い付いていない。

「もともとみやびは、高校2年生までは私と一緒にダンスに人生を懸けてたんだ。3歳から10歳までバレエ、その後はコンテンポラリー、そしてヒップホップとずっと一緒にレッスンしてきて、高2のころは界隈ではそこそこ有名になって、将来を嘱望されてたの。でも、高2の夏に足のケガで以前みたくハードに踊れなくなって。その時も今と同じように魂が抜けたみたいになったんだけど・・・でもそんなときに何気なく読んだ『絶対正義の法廷』に心が救われて、その後、アニメを見て、舞台に行って、秋になるころにはすっかりハマってて。創作物として楽しむだけならよかったんだけど・・・あの偉そうな口調、あれはルカになり切ってたんだって。それで自分がルカになって、リオルと結ばれることを新たな人生の目標にしたみたい。」

カリンの補足で、柳は、ようやく得心がいったようにうなずいた。

「わかります。俺も、高校のときは陸上部で長距離を走ってて、大学まで続けて箱根駅伝に出場することが夢だったんです。でも、その夢をあきらめなきゃいけなくなって・・・」

「尾方くんもケガで・・・。」

「いえ、普通に才能がなくて・・・。」

「ああ・・・それは・・・そういうこともあるわね・・・」

「それで、周りに言われてなんとなく勉強して、合格した中で一番偏差値が高かった享和学館大学の法学部に入るよう勧められて・・・今思えば、俺も人生の目標を見失ってたんです。だけど、山澤先輩に会って、なんていうか、自分の考えをもってる山澤先輩を見て、それが暗闇に差し込む光のように見えて、あぁ!きっとこの人が自分の運命を変えるかもしれない人だって思ったんです!」

突然熱を込めてしゃべりだした柳に引き気味に黙る3人。

「俺、なんとか山澤先輩の助けになりたいです。新しく山澤先輩が推せるものを見つけたいです!」

この様子を見てカリンは思った。これは面白いことになる予感がすると・・・。そして、カリンの心に悪魔が宿った。

「じゃあ尾方くんが、みやびの推しになったら?」

「そうね!それで一緒に十一星団を支えるといいわ!」

麗子は打算でフォローした。

「そうよ!それは名案だわ。」

良子は雰囲気に流されて適当なことを言った。

「そう、ですね!がんばります!俺は、リオルになる!」

すっかりその気になった柳を見て、面白がって適当なことを言ったかもしれないと、カリンは少し後悔するのであった。


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