終章 努力の結末
すみれは35階にあるラウンジで一人で夜景を見て、カクテルを飲みながらしみじみと過去を振り返っていた。
「あの頃の必死だった私に、今日の結末を教えたらどう思うのかしら・・・。」
すみれは、10年前の優等学生選抜試験の授賞式のことを思い出しながら、少しの達成感を感じた。
すみれと柳の歩みはその後も止まらず、競い合うように法曹の道を登り続けた。現在、柳は、大手法律事務所の弁護士としてファイナンスを、すみれは別の大手法律事務所でリティゲーション(訴訟)を専門としているが、今年の7月にはそろって米国のロースクールに留学に出る予定である。
すみれのスマホが震え、メッセージ受信通知が届いた。
『今送り出したから、すぐに向かう』
すみれは既読をつけると、返信せずスマホをローテーブルに置いた。
「あの頃は、山澤みやびが絶対かなわない主役に見えたし、私が当て馬の負けヒロインじゃないかと思ってたけど・・・・。」
予備試験合格、司法試験合格、司法修習、そして弁護士としてのキャリアを最短で重ねてきた柳とすみれとは異なり、みやびはその後、予備試験に合格できず、ロースクールに進学したが、卒業後も司法試験に合格できず、今ではベンチャー企業の法務部に勤務している。
「ごめん、待たせたよね。」
柳がすみれの席に足早に近づき、ソファの隣に腰を下ろした。
「みやび先輩が酔っ払ってしまって・・・。」
「あれ、左頬のところ、どうしたの?腫れてるじゃない。」
「ああ、下でタクシーに乗せようとした時に、みやび先輩に急にパンチされて。右手に指輪もしてるから結構痛くて・・・。」
「チッ!相変わらずあの人は・・・。」
舌打ちをして眉をひそめるすみれ。
「いや、酔っ払ってたみたいだし、パンチというより、偶然手が当たっただけだと思うよ・・・。」
慌てて柳がフォローする。
「それで、結婚式には出席してもらえるの?」
「ああ・・・多分大丈夫だと思うよ。はっきりとは言ってなかったけど。でも本当によかったの?すみれはみやび先輩のことあんまりよく思ってないのかと思ったけど・・・。」
「そんなことないわよ。柳も私もいろいろお世話になってきたし、柳にも『メンター』にぜひ晴れ姿を見てほしいでしょ。」
「メンターって・・・いまさら・・・。」
あの授賞式の後から、山澤みやびは、柳のメンターを名乗ってあれやこれや世話を焼いたり、偉そうに指示するようになった。すみれはそれを見て苦々しく思っていたが、その辛い日々は長くはなかった。柳とすみれが大学3年時の予備試験に合格し、さらに揃って4年次に司法試験に合格し司法修習生となった時、山澤みやびは二度目の司法試験に不合格となっていた。この頃から、柳にとって尊敬できる導師から、自分の身を振り返らず、的外れなことを指摘する口うるさい存在へと変わっていったようである。不思議なもので、そうなると今度は、山澤みやびの方が柳に執着しだし、ことあるごとに柳を呼び出し、人の好い柳はそれを断り切れず、山澤みやびと定期的に会って、偉そうな態度で与えられる適当な助言を聞き流すような関係になった。山澤みやびが、麗子さんや良子さんに対して、柳を自分が育てた推しだと言い出したのもこの頃である。
「僕は、少なくとも、すみれと付き合いだした時には、すみれが嫌だろうと思って、みやび先輩とは会わないようにするって言ったつもりだったんだけど・・・。」
「そう、わかってるわよ。私がメンターを続けるようにって言ったのよね。やっぱりお世話になってる先輩だし、柳から言い出したことなんだから、満足行くまでメンターごっこに付き合ってあげるのが礼儀でしょ。」
すみれはこう笑顔で答えたが本心は違っていた。
柳が、山澤みやびへの関心を失う一方で、最も近くでずっと一緒に支え合いながら走ってきたすみれの気持ちに気づき、すみれを振り返るようになったことは、時間はかかったもののまるで熟した柿が落ちるようにごく自然の流れだった。4年前のその日、柳は、けじめとしてすみれに対し『山澤みやびとはもう会わない』と申し出た。しかし、すみれは、こう言ったのだ。
「これからもみやび先輩から声が掛かったら会った方がいいよ。だけど、みやび先輩と会った日は必ずその後に私に会ってどんな話をしたか聞かせてくれること、それからみやび先輩には私と付き合っていることを秘密にすること、この二つが条件よ。」
「付き合っていることを秘密にするの?伝えるんじゃなくて?」
不思議そうな顔をする柳。
「そう。みやび先輩には私のこと知られたくないの。柳もしっかりとメンターとしてみやび先輩を立ててあげてね。」
柳は、すみれの度量の大きさと優しさからこう言われたと勘違いしていたが、もちろんそうではない。むしろ、この瞬間、すみれの心には小さな悪い心が灯っていた。これまでの不安な中で追いかけてきた気持ち、引き裂かれるような思いを考えると、ここであっさりと、敵役である山澤みやびに退場してもらうわけにはいかない。それで物語を完結させるわけにはいかない。すみれの脳裏には、山澤みやびが最愛の推しを掌中に収めたと勘違いを続けて、数年後に裏切られたと絶望に沈む今日という終局面までの道筋がはっきりと見えたのだ。徐々に膨らむ期待が、一気に絶望に変わる瞬間、それは意外であればあるほど、その落差は高ければ高いほどいい・・・。
そして、すみれが読み切ったとおり、今日、予想した通りの終局を迎えたのだ。その様子は直接見ていないが、最愛の推しにパンチを入れるくらいだから、きっとショックは大きいに違いない・・・・。
「しかし、学生の頃は、みやび先輩はすごい人だと思ったけど・・・。」
柳の一言で、すみれは回想から引き戻された。
「柳は、運命を変える人とか言ってたもんね。フフッ。」
「あの頃はわからなかったんだよ。だって見たものをすべて記憶する能力なんて、マンガの主人公のチート能力じゃん。しゃべり方もいかにも実力者って感じだったし・・・。」
「結局、記憶力だけじゃ司法試験すら突破できないのよね。知識という武器がどんどん増えても、それを使いこなす能力がないと。」
「むしろ、記憶力頼みだったから、論理力とか思考力が全然鍛えられなくて。今日もどこかで聞きかじったみたいな話ばかりで、その内容も自分で考えてないから、論理もつながってないし・・・・。」
最近では、柳は、すっかり山澤みやびへの興味を失っており、今朝、家を出る時もひどくめんどくさがっていた。
その姿を見て、すみれの心には、また少し悪い気持ちが宿った。
「そうだ。みやび先輩にフォローのメールした?」
「なんで?さっき殴られたんだけど・・・。向こうから謝ってくるべき話じゃないの。謝れないんだったら、もうこのまま一生会わなくてもいいよ。」
「だめよ。お世話になったんでしょ。きっと向こうも気まずくて言い出せないわよ。」
「え~。じゃあ、すみれが適当にメッセージ送っておいてよ。」
柳がスマホを手渡してきたので、すみれはLINEを開き、ポチポチとメッセージを打ち込み始めた。
「・・・・『また出発前に一席設けさせていただきますので、ぜひよろしくお願いいたします。』っと」
「え~っ、そんなメッセージ送ったの。また会うのなんていやだよ~。」
「いいじゃないの。お世話になったんでしょ。これからも大切にしなきゃ。」
そう言いながらもすみれは心ではまったく逆のことを考えていた。
すみれは、物語の主役として、努力の結果、勝利と、友情ならぬ愛情を手に入れた。だから、正直、すみれにとって、もはや山澤みやびは憎むべき相手でも警戒すべき相手でもない。むしろ自分のビクトリーロードを盛り上げることに貢献してくれた脇役キャラなのだ。だから、感謝して、もうこれ以上傷つけないよう、そっと退場させてあげるべきかもしれない。
でも、不安と、張り裂けそうな想いをずっと抱えていた、数年前までのすみれの気持ちを思うと、ここでハッピーエンドにすることだけでは満足できない・・・・。
その時、柳のスマホが震えた。職場の先輩弁護士からの通話であったため、柳はすぐに電話に出て話し始めた。すみれは邪魔にならないよう、また窓の外に視線を移し、そして柳に気づかれないよう小声でこっそりとつぶやいた・・・。
「わたしと柳は、これからも二人で競い合いながら法曹の道を駆け抜けて行きます。はるか後方から、最愛の推しへの想いも、法曹への道も絶たれた先輩はどんな気持ちでそれを見るのかな。マンガやアニメだったら、役割を終えた脇役キャラは退場するのが定石ですけど、現実ではその後も人生が続きますよ・・・。だから目をそらさずに、しっかりと最愛の推しの行く末を、自分が主役ではなかった現実を直視してくださいね・・・・もう手の届かなくなった推しが、昔は眼中にもなかったモブキャラと一緒にどんどん離れていく姿を・・・・。」
そう言いながら、我ながら悪役みたいなセリフだなと思い、すみれは少し笑った。