閑話3 すみれの友情・努力・勝利
中学に入学したばかりの4月、大河内すみれは、親友の石田佐和子と一緒に、放課後の校舎の渡り廊下を歩いていた。
「すみれちゃん、クラブどこにするか決めた?」
「う~ん、面白そうなクラブが多くて迷っちゃうね。大学受験までしばらくあるし、打ち込めるような趣味が見つかるといいな~。」
すみれと佐和子は、小学校低学年の頃から中学受験の専門塾に通い勉強に励んできた。その甲斐あって二人は女子御三家と呼ばれる中高一貫の名門校に入学できた。しかし、その代償としてスポーツも音楽も美術もゲームも他の楽しみはすべて捨ててきた。しかし、すみれは、その日々をまったく後悔していない。むしろ中学受験が終わり、猛勉強の日々が終わると、志望校に合格した喜びの一方で、なんとなく喪失感を感じていた。塾で佐和子と競い合っていた頃のように、ヒリヒリするような緊張感と勝利の喜びを味わいたい、それがすみれの偽らざる本心だった。
すみれと佐和子は、中学受験塾の名門で、ずっと成績トップのαクラスで席を並べていた。しかも、月1回の実力テストで決まる席順では、常にすみれが1位の席である1番前の真ん中、佐和子が2位の席であるその右側であった。いや、小6のころ、一回だけ佐和子が1位、すみれが2位の席になったことがあった。その結果が発表された日の夜、すみれは悔しさで眠れなかった。それから一か月、すみれは寝食を忘れて猛勉強し、実力テストで1位を奪還した。大げさではなく、その瞬間がすみれにとって人生で一番うれしかった。また、その後の実力テストでも、常に追いかけてくる佐和子を意識し、今回は抜かれるかもしれないという常にヒリヒリした緊張感を感じ、毎回1位を維持した夜は言い知れぬ安堵を感じていた。
「あっ、テーブルゲーム部だって!楽しそう。見てみようよ。」
すみれは、佐和子に手を引かれて教室に入ったが、ほのぼのとテーブルゲームを楽しむクラブではあの緊張感は味わえないだろうな・・・とあまり期待していなかった。
「すみれちゃん、バックギャモンだって!面白そうよ。」
はしゃぐ佐和子を横目に教室の奥の方を見ると、テーブルゲームに興じる部員たちから一人離れて、背筋をピンと伸ばし、凛々しい顔つきをした3年生の先輩が、碁盤に白石をピシッと打っていた。スラリと伸びた細い指が白石よりもずっと白く見える。
「きれい・・・。」
すみれが見とれていると、視線に気づいたのか、その3年生はすみれの方を見て笑いかけた。
「こんにちは。囲碁に興味あるの?私は、囲碁部の部長をしている西園寺麗子よ。よければこっちに来て一緒に打ってみない?」
すみれは、吸い寄せられるようにフラフラと碁盤の方に歩みよった。それを見た佐和子が「待ってよ~」と言いながら追いかけてきた。その日は、麗子さんに囲碁の基本的なルールを教わった。囲碁にほとんど興味はなかったけど、麗子さんの美しさに魅かれて、佐和子と一緒に囲碁部へ入部することに決めた。
「すみれ~。囲碁部に入ったんだって?」
「うん、まだルールとかよくわかんないんだけどね。」
日曜日、すみれが自宅のリビングのソファでだらだらしていると、外出から戻ったパパが話しかけてきた。
「そんな、すみれちゃんにプレゼントです。どうぞ!」
そういうと父は、紙袋に入ったマンガ全23巻を渡してきた。
「なにこれ?少年マンガ?」
「うん、パパが大学生のころに読んでたんだ。囲碁とテーマにしたマンガだよ。読んでみると自然に囲碁のルールが覚えられるし、いいかなと思って。」
そのとき母が険しい顔をしてキッチンから近寄ってきた。
「ちょっと!またマンガ買ってきたの?マンガ買うならその分古いマンガ捨てるように言ったわよね!全23巻?じゃあ他のマンガを23冊捨ててもらうわよ。」
「いや、すみれに良かれと思って・・・・。」
「そんなこといって、あなたが読みたかっただけでしょ!まったくいらないものばっかり増やして!」
唐突にケンカを始めた父母を避けるため、すみれは紙袋から3冊だけ抜き出して自分の部屋に入った。そして、1巻からパラパラと読み出すと、その内容に一気に引き込まれた。ストーリーは単純だ。あるきっかけから囲碁を始めた主人公が、これまた偶然知り合った名人の息子である囲碁名人と知り合い、実力を誤解されてライバル扱いされるところから始まる。しかし、実力がないことを見抜かれて失望されてから、主人公が奮起し、ライバルの背中を追うため囲碁を本格的に学び、仲間たちと切磋琢磨した結果、ぐんぐん成長するという、友情・努力・勝利をテーマとした内容だ。すみれは、自分が小学生の時に塾で佐和子と切磋琢磨し、競い合った頃を思い出し胸が熱くなった。3巻まで読むと、急いでリビングに戻った。
「ほんっとにもう・・・!」
ママはまだプンプンと怒りながらパソコンに向かって仕事をしていた。パパは怒られたことに落ち込んでスマホを見ている。すみれは、目当ての紙袋を探し、リビングの隅の紙ごみをまとめた一角に置いてあることに気づいた。すみれは、ママに気づかれないようこっそりと紙袋を持ち上げ、自分の部屋に持ち込んだ・・・・。
「まずは、あの西園寺先輩が私のライバルね!」
その日から、すみれは、囲碁部部長の麗子さんを仮想ライバルに据えて一気に囲碁にのめりこんだ。週3回のクラブ活動で麗子さんに教わることに加えて、図書館で囲碁の本を借り出して、詰碁や棋譜の勉強もした。パパに頼んで、スマホで囲碁のネット対戦もさせてもらえるようにした(ママには秘密)。
「すみれさん、驚いたわね。まさかこんな短期間で強くなるなんて!」
4月の時点では、初段の麗子さんに対して、先に置き石を9子置いても全くかなわなかったが、少しずつ置き石が減り、夏前には4子でもいい勝負ができるようになった。麗子さんに褒められることより、ライバルの背中がどんどん近づくことが嬉しかった。
夏休みになると囲碁部の活動が休みになるため、パパに頼んで碁会所に連れて行ってもらった。パパがネットで探してきた「パンダ碁パンダ」という囲碁カフェの席主である伝蔵さんは、見た目はいかつくて怖いけど、若いすみれが囲碁に興味をもってくれたことをとても喜んでくれて、すぐに家に遊びに来た実の孫のようにかわいがってくれるようになった。囲碁カフェの常連さんもみんな優しく、中にはすみれに負けてあからさまに不機嫌な態度を示したり、怒り出す短気な人もいたけど、そういった時は決まって周りの人が注意してくれた。すみれは、最初は怖かったが、すぐに一人でもパンダ碁パンダに通うようになり、ここでめきめきと力をつけた(ママには秘密である)。
夏休みが明けた最初のクラブ活動の日、すみれは顧問の先生と対局し、圧勝した。
「驚いたわね。先生は3級くらいの棋力はあったはずよ。夏休みでどれだけ強くなったの!」
そう言われてすみれは、パパにもらって読んだマンガにあった、夏休みに棋力が急成長した話と一緒だと思い、嬉しくなった。
「すみれちゃん、すごい~!やっぱり天才だね!」
佐和子は、熱い決意を固めるすみれを温かく見守っていた。佐和子も、一応ルールを覚えて囲碁を打てるようになったが、あまり熱心ではなく、クラブ活動の時間には、隣のテーブルゲーム部のゲームにも参加させてもらっている時間の方が長い。
「ふふっ、それほどでもないかな~。」
(すぐに麗子さんにも追いついて、もっともっと強くなってやる!)
言葉では謙遜しながらも、すみれは、心の中では野心を成長させていた。
それからもすみれは、囲碁に没頭した。図書館で借りた本を見て布石や戦法を勉強したり、プロの名局の棋譜を自分で並べてみたり、詰碁を解いてみたり。そうしてずっと囲碁のことを考えていると、いつしか目を閉じると碁盤と碁石が浮かぶようになった。
また、碁石を持っていないと落ち着かなくなり、ポケットに碁石を入れて持ち歩くようになった。学校でのテストの時、課題発表の時など、緊張する場面では、碁石を触ると気持ちが落ち着くようになった。しかし、ある日、ジャージのポケットに碁石を入れたまま洗濯機に入れてしまい、ママからあり得ないぐらい厳しく怒られ、碁石を持ち歩くことが禁止になった。そのため、すみれは碁石の代わりに、碁石のような水玉模様の小物などを持つことにした。
「見て見て!とうとう届いたの。初段の允許状だよ。」
「すご~い。」
中学2年生の冬、すみれは佐和子を自宅に招き、木箱に入った初段の允許状を見せた。「大河内すみれ殿」と墨書され、難しそうな文章が並んだ後に、「初段に允許する」と書かれている。また、名人や本因坊の直筆の署名も毛筆で書かれている。
「これですみれちゃんも、目標としていた麗子さんと同じ段位になったわね。クラブでもほぼ互角に戦えているみたいだし。」
「うんっ。でも、まだまだだよ。麗子さんよりも強い人はいっぱいいるもの。もっともっと強くなって、誰よりも強くなりたいの。」
すみれは、まだ見ぬライバルに心を躍らせた。
「佐和子ちゃんも3級になったんでしょ。もうちょっと頑張ればすぐに初段よ。一緒に頑張りましょ!」
「う~ん、そのことなんだけど・・・・。」
佐和子は浮かない顔になった。
「実は囲碁部は2年生までにしようと思うんだ・・・。」
「えっ?何かあったの?」
「すみれちゃんと一緒にクラブ行くのは楽しいし、続けたいんだけど・・・私、医師になりたいから医学部へ行きたいの。そしたらお母さんが、専門の塾を見つけて来て・・・そこの先生が言うには、早い子だったら中1から対策してて、中3から始めるのがラストチャンスだって・・・。お母さんはすぐに入塾させたがってたけど、私は3年生まで待ってってお願いしてて。その塾に入ると、授業のほかにもたくさんの課題が出て、とてもクラブ活動している余裕がなくなるみたいで・・・。」
「そっか・・・そうだよね。佐和子ちゃん、ずっとお父さんみたいなお医者さんになりたいって言ってたもんね。さびしくなるな~。でも、時々は一緒に遊んでね。」
「うんっ、もちろんだよ。学校でも会うし、休みの日があったらこれからも一緒に遊ぼ!だって、すみれちゃんは大切な親友だもん。」
その言葉を聞きながら、すみれは少しさびしさを感じていた。佐和子が囲碁部を辞めることだけではなく、いつの間にか佐和子は切磋琢磨するライバルというよりも一緒に遊ぶ友達になっていたことに・・・。
高校1年生の6月、最後の大会を終えた麗子さんら3年生が引退した。囲碁部に残ったのは、高等部、中等部あわせても、すみれ一人だけだ。
「残念だけど、一人では部活として認められないから、テーブルゲーム部と統合してもらえるかな。また部員が入ったら囲碁部として独立していいからね。」
顧問のおじいちゃん先生に言われて、すみれはそのままテーブルゲーム部に合流した。
「すみれちゃん、一緒にフィヨルドやろ~。」
「ルール教えてあげるから。簡単だよ~。」
「負けたら罰ゲームだよ~。」
テーブルゲーム部の部員は、すみれを温かく受け入れてくれた。一緒にテーブルゲームを遊ぶ時間も楽しかった。ゲームが終わった後に、罰ゲームと称して秘密を言い合うのも楽しかった。でも・・・すみれは心に空虚なものを抱えるようになった。
「そうだ。あそこに入ればいいんだわ!パパのマンガに書いてあったあそこなら、切磋琢磨できるライバルがいっぱいいるはずだわ!」
冬のある朝、すみれは、唐突に思いついた。すみれは、春の大会で優勝したらと決意した、囲碁界の虎の穴であるあの門を叩こうと・・・。
高校2年の5月、すみれは東京都高校本因坊戦(女子の部)に出場した。ここで優勝したらパパとママに希望を伝えるつもりだ。ぐっと拳を握りしめると、自然と肩に力が入ったことに気づき、気持ちを静めるために水玉のポーチから水玉のハンカチを取り出し、額に当てる。
「勝てる・・・勝てる・・・だって、努力だけは誰よりしてきたもの。」
言葉通り、すみれは決勝まで危なげなく勝ち進んだ。正直、すみれとレベルの違う相手ばかりで拍子抜けした。
(なんだ・・・こんなもんなのか・・・やはりアマチュアの大会は今日で最後かしら・・・。)
しかし、決勝で、すみれはこれまでになかった強敵とぶつかる。布石から圧倒され、地を稼がれ、厚みを作られ、まったく勝負にならない・・・。こんなに強い人がいるんだ・・・。
「負けました・・・。」
まったくいいところなく、すみれは投了した。しかし、すみれの心は晴れやかだった。もしかしたら、一緒に切磋琢磨できるライバルと出会えたのかもしれない・・・。
「強いね・・・。普段はどこで打っているの?」
すみれは感想戦の後、連絡先を聞こうと勇気を出して話しかけた。『もしよければ、これからも一緒に囲碁を打ってもらいたいな・・・。』すみれがそう言おうとする前に、その人は、無表情のままぽつりと言った。
「いや、私、日本棋院の院生だったから・・・。」
その瞬間、すみれはぴょこっと顔をあげ、驚いた顔でその人を見つめた。
「院生だったの!すごい!実は私も院生試験を受けようと思っているの。いろいろ教えてくれないかしら!」
ああ、これはきっと神のめぐり合わせだわ。きっとすみれの囲碁道はここから始まるんだ。まずはこの人と仲良くなって、一緒に競い合って、棋院でも仲間を見つけて・・・。
「無理よ!」
そんなすみれの夢想を打ち砕くかのように、その人は鋭く言った。
「えっ、なんでそんなこと言うの・・・?まだ実力は十分じゃないかもしれないけど、もっと頑張って・・・。」
すみれは、ショックのあまり顔が青くなった。水玉のスマホケースを触って気を落ち着かせよう・・・。
「実力もそうだけど・・・そもそも院生の受験資格は14歳までよ。あなた高2でしょ。遅すぎるのよ。」
「えっ・・・。」
すみれはショックのあまり絶句した。その人は、すみれの様子を見て言い過ぎたと思ったのか、少し気まずそうな表情をした。
「でも、よかったと思うわよ。もし院生の受験資格があって、院生になれたとしても、きっと負けて負けて負けまくって、心が砕かれて、追い出されるように退会することになったと思うわよ。それで、アマチュアに戻って、小さな大会に出て弱い者いじめして溜飲を下げて・・・。こんな私みたいにならなくてよかったじゃない。」
そういって、呆然とするすみれを残して、その人は足早に去って行った。すみれは連絡先も聞けなかったが、最後の希望が砕かれたすみれにとってはもはやどうでもいいことだった・・・・。
高2の夏、この季節にしては珍しく、しとしとと雨が降る中、すみれは、パンダ碁パンダで、久しぶりに西園寺麗子と囲碁を打っていた。
「驚いた!前よりもずっとずっと強くなってるじゃない。もう互先じゃ足元にも及ばないわね。これからは二子か三子くらい置かせてもらわないと」
大学生になった麗子さんは、ますますキレイになった。でも大学では囲碁部に入らず、今ではほとんど石を触ることもないみたい。
(ああ・・・私は一人だ・・・麗子さんもいなくなって取り残されてしまった。努力だけは誰にも負けないようにしてきたのに、勝利も、友情も手に入らなかった・・・。)
「大丈夫?すみれさん・・・」
麗子さんが心配そうに顔を覗き込んできた。元気を出さなくちゃ。そのために今日は服も水玉にしたし、もっと頑張れる・・・。
「大丈夫です。そういえば、麗子さん、大学の方はいかがですか?囲碁はもう止めてしまったようですけど・・・。」
「ああ、大学は楽しいわよ。実は、今は司法試験を目指して、勉強会をするサークルに入っているのよ。十一星団っていう。」
「えっ!麗子さん、弁護士になるんですか?」
麗子からの意外な回答に驚くすみれ。
「ううん、弁護士じゃなくて裁判官になりたいの。ほら、囲碁って名局の棋譜は何年も残るじゃない。それで後世の棋士が棋譜を見て名局に思いを馳せることもできるじゃない。私は、その点にロマンを感じて囲碁を続けてたんだけど・・・裁判官の判決文も同じなのよ。裁判官が書いた名判決は何年も先例として、後世に影響を与え続けるのよ。私もそんな名判決を書けるような裁判官になりたいの。」
どやっという顔で胸を張る麗子さんはすこしかわいい。
「それで、勉強会ってなんです?それこそ司法試験の勉強って一人で地味にこつこつって感じじゃないんですか?」
「そうじゃないのよ。専門書を読んでいても一人ではよくわからないこともあるし、一人で勉強してたら煮詰まっちゃうこともあるでしょ。だから何人かで集まって一緒に本を読んで理解を話し合ったり、勉強法を教え合ったりするのよ。またライバルがいて競い合うとモチベーションにもなるしね。」
その話を聞いて、すみれの心にピンとくるものがあった。もしかして・・・。
「十一星団には、切磋琢磨して、競い合えるような仲間はいるんですか?」
すみれは、すがるような思いで聞いた。
「もちろんよ・・・十一星団は学年当たり100人近い会員がいるのよ。もちろん全員が熱心なわけではないけど・・・。そうそう、憎たらしい子もいてね。なんでもちょっと見たら、それを映像として全部覚えちゃうんだって。」
「え~っ、そんなのテストでは最強のチートじゃないですか!」
「そうなのよ。そんなチートと競って、何人ものライバルと競って勝ち抜かなきゃいけなくて・・・大変だわ。」
大変と言いながら、麗子さんの表情は楽しそうだ。もしかして、そこには私が求めていたものがあるのかも、努力だけじゃなくて、友情と、その先の勝利も・・・。
「麗子さん・・・。」
突然立ち上がったすみれに、驚きの表情を見せる麗子さん。そしてすみれは座った麗子さんを見下ろしながら言った。
「私、再来年、享和学館大学に入って、十一星団に入会します。そこで切磋琢磨できる仲間を見つけます!自分の道が見つかりました。ありがとうございます!」
「そっ、そうなのね。元気になったみたいでよかったわ。」
ふと外を見ると、雨が止み、雲の谷間から陽の光が差し込んでいた。私が目指すのはきっとあそこだ。きっと、あそこに私を待っている人がいるはず・・・。