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閑話2 先代のメンター

尾方柳は、大学図書館でいつもの窓際の席に座りながら、月間長距離ランナーを読んでいた。月に1回、勉強の合間に月間長距離ランナーに掲載された競技会や記録会の記事をチェックすることにしている。

「今回も載ってないか・・・・。」

ため息をつくと、疲れた目を休めるため、ぼんやりと外を見た。視線の先には、大学前の広場があり、高校生三人組や小さな子の手を引いた母親らしき人が、初夏の陽光の下、のんびりと歩いていた。

(あの人は今ごろどうしているのだろうか・・・・。)

4年前、柳が高校の陸上部に入部した日を思い出した。

               ★

「お前、競技なんなの?俺は110mハードルだけど。」

1年生が一列に並んで顧問の先生を待っている最中に、隣に立っていた同じクラスの中野哲が話しかけてきた。

「長距離だよ。中学のときは3000メートルに力を入れてた。」

「えっ!長距離か? 3年生の俺の兄ちゃんから聞いたんだけど、いい話があるんだよ。実は今年、全日本レベルの長距離の女子選手が赴任してきて、コーチとして指導してくれるらしいんだよ。きっと高いレベルの指導が受けられるぞ。それに、すごい美人なんだって!」

「あ~、そっか・・・。」

柳は浮かない顔になった。もともと陸上選手として一流になりたいわけじゃない。走るのは気持ちいいけど、練習が厳しくなるのは嫌だな・・・・。それに先生が美人だからって、いったい俺に何の関係があるんだよ・・・。

そう思っていると並んでいる1年生の前に、長身、角刈りで、黒色のジャージの上からでも筋肉がはちきれそうな大柄の30歳くらいの男性と、臙脂色にTのマークが入ったトレーニングウェアを着た小柄な女性が歩いてきた。

「俺が顧問の林田だ!みんな、これから一緒に頑張ろう!」

「「「「はいっ!」」」」

1年生一同15名、元気な返事。

「それから聞いてる人もいるかもしれないが、今年から副顧問になった田中先生を紹介するぞ。田中先生、自己紹介を頼む。」

「はいっ。今年から本校に着任しました。体育教師の田中詩織です!高田大学競走部出身。専門は長距離。5000に力を入れてます!5000mのベストタイムは15分55秒です!」

ほとんど化粧もせず、髪も簡単に後ろでまとめているだけだが、目力のある猫のような目と林田先生の拳くらいしかないんじゃないかと思うくらい小さな顔に思わず目を奪われた。美人というよりもかわいいという印象の方が先に立つ幼げな顔立ちがきびびきびとした話し方と対照的だ。

「田中先生は、今年の都道府県駅伝に愛知県代表で出場された。また、大学時代には国体で入賞したこともある長距離のホープだ。一緒に練習すれば、きっと君たちも一流選手になれるぞ!」

「「「「はい!」」」」

その日、陸上部に入部した1年生は男子10人、女子5人だったが、男子のうち7人が長距離ブロックに所属することになった。後で中野に聞いたところによると、長距離の経験がないのに、田中先生に魅かれて長距離を始めた不純な男子が3人混じっていた。その中にはハードル選手である中野もいたのだが・・・。

ただし、こういった不純な動機で長距離に転向した新入部員はあっという間に振り落とされた。田中先生が課す練習が厳しすぎたのだ。

「じゃあ、今日はアップ、動きづくりの後、800メートル×20本ね。」

「今日は5000m、3000m、1500m、800mのタイムトライアルね。」

「今日は軽めに60分ジョグでいきましょう。ペースはキロ5分くらい。」

それでも4月は、1年生に配慮したのかまだ軽めの練習メニューだった。しかし、日を追うごとに練習は厳しくなり、5月には月間走行距離が300㎞、6月には350kmを超えた。柳は中学の時からかなり厳しく練習してきたつもりだったが、レベルの違いに耐えかねて何度もやめようかと思った。しかし、なかなか言い出せなかった。

そうしてタイミングをうかがっていた6月末のある日、柳は準備運動中に田中先生に話しかけられた。

「少し、左足に痛みがあるの?」

たしかに左足の付け根が少し痛かったが、あまり気にしていなかった。誰にも言っていなかったし、どうして気づいたんだろうか・・・。

「いえ、大丈夫です。これくらい痛いのはいつものことなので。」

「だめよ・・・。尾方くんは練習熱心だし、タイムも順調に伸びているから無理しがちだけど、ケガをしたら選手生命にかかわるわよ。将来も考えないと。」

「選手生命って・・・。高校の部活ですよ。」

柳は笑って答えた。ケガが認められれば練習を休めるかも・・・という不純な気持ちもあった。

「いえ、尾方くんは、頑張れば大学でも選手として走れるわよ。箱根駅伝も出られるかもしれない。だから長い目で見て成長できる練習メニューを組んでいきましょう。」

(こんなに見てくれてたんだ・・・しかも期待してくれてるんだ・・・。)

柳は心に温かいものを感じた。もう少し頑張ってみよう。

それからも田中先生は、時々柳に声をかけてくれた。

「だいぶ腰が高くなってきたわね。フォームもお手本のようだわ。」

「だいぶ体が絞れてきたわね。今はタイムが停滞しているけど、きっと一気にタイムが伸びるわよ。」

「隠れて自主練しているわね。自主練はいいけどケガに気を付けないといけないわよ。自主練のメニューを作ってあげるから、このくらいにしておきなさい。」

声を掛けられるたびに嬉しくなり、田中先生のことを少しずつ姉のような敬愛を持つようになっていった。また、5000mで田中先生に敵う部員はおらず、アスリートとしても尊敬の対象であった。


                 ★


「それじゃあ、今日は私が先導して1キロあたり3分20秒ペースで走るから、みんな付いてこられるとこまで付いてきてね。インターハイの5000m予選ではこのくらいのペースで集団走になると思うから、どこまで付いていけるか自分の力を見極める練習になるわよ。」

7月、インターハイの地区予選が控えたある日、田中先生が競技用のユニフォームに着替えて現れた。上下セパレートでお腹が見えている。部員一同、集団を先導する田中先生に追走してトラックを走った、キロ3分20秒は、3年生の男子部員も含めたほとんどの部員にとって厳しいタイムであり、どんどん脱落していく。柳はその中でも必死に食らいついた。

(あれっ!?なんかいいにおいがする。)

苦しく、喘ぎながら走っている柳は、ふと前を走っている田中先生のポニーテールがなびき、そこからシャンプーの香りを感じた。

(うわ~っ、不純なこと考えて申し訳ない。無心、無心。)

柳は赤面して少し下を向いて走った。すると、あっという間に田中先生に千切られてしまった。

「尾方くん、頑張ったわね。3000mくらいは付いてこれたんじゃないの。」

「はあ・・・まあ・・・。」

自分でも思ってもみなかった力が出た柳は、走り終わった後、グラウンドに倒れて息を切らしていた。

「頑張れば、インターハイ予選でもいいところまでいけるかもね。」

その年の夏休みに入ってすぐに行われたインターハイの地区予選、柳は着順で県大会に進めなかったものの、5000m走で自己ベストの17分32秒を出すことができた。

                      

                    ★


インターハイ予選が終わり、3年生が引退した。また、夏合宿を含む厳しい夏休みの練習が終わると、練習に耐えかねた部員が次々と退部するか、短・中距離ブロックへの転向を申し出た。その結果、長距離ブロックの部員は2年生の男子部員が4名、1年生の男子部員が3名だけになった。

しかし、田中先生は、部員が減ったことも意に介さない様子で、京都都大路で行われる全国高校駅伝への出場を目標に据えてますます厳しい練習メニューを課すようになった。この頃は月間走行距離が500㎞を超えるようになった。

そんなある日、田中先生は長距離ブロックに残った部員を集めてこんなことを言い出した。

「みんな、わたしのことを先生って呼んでくれるけど、まだまだ現役ランナーだし、あくまでメンターとしてみんなを指導して一緒に練習できればと思うの。だから先生なんて呼ぶのはやめましょう。これからは、詩織さんって呼んでちょうだい。わたしも皆のことを名前で呼ぶから。」

今思えば、田中先生は、表に出さなかっただけで、練習の厳しさから部員の数が減ってしまったことを気にしていたらしい。少しでもフレンドリーさを出そうとして、このようなことを言い出したのだろう。柳やその他の部員たちは、田中先生に話しかける際には、「詩織さん」と呼ぶようになったが、陰では「メンター様(笑)」というあだ名で呼んでいた。どうやら、メンターとは、先生や監督ではなく、身近な存在として教え導いてくれる存在のことらしいが、あまりに耳慣れない。

また、詩織さんは、他の部員と一緒に同じ練習メニューをこなし、インターバルやタイムトライアルの際は、いつも先頭でみんなを引っ張ってくれるようになった。おそらく、自分の背中を見せて部員を鼓舞して引っ張ろうとしているのだろう、その時はそう思っていた。

もっとも、親しみやすさは増したが、練習は容赦なく厳しくなっていった。ますます厳しくなる練習に付いて来れなくなる部員も当然出てくる・・・・。


                    ★


「山室さん、お迎えに来ました。今日は一緒に練習に出ませんか。」

この日の放課後、柳は2年生部員の山室竜也の教室を訪れ、練習に誘った。山室は2週間前から腰痛を訴えて、しばらく練習に出ていない。

「おう、柳、お疲れ。まだ腰痛が治りきらないからやめとくわ。」

「そうなんですね。でも、メンター様から絶対に連れてくるように言われてまして。走れなくとも、グラウンド脇で補強練習するだけでもいいので。」

「いや・・・やめとくよ。腰痛は治りかけが肝心だからさ。」

山室は目をそらし、カバンを持ってそのまま帰ろうとした。腰痛なのに重そうなカバンをひょいっと持ち上げている。

「きっとメンター様から、ケガしたときのトレーニング方法を教えてもらえますよ。見学だけでもいいんで。」

前に立ちふさがって食い下がろうとする柳を見て、山室はカバンを乱暴に机の上におき、ドンッと大きな音が響いた。

「おい、行かないって言ってんだろ!」

山室が突然大声を出したので、柳は驚いて後ずさった。周囲の生徒も思わず振り返る。山室は周囲の反応を見て、急にバツの悪そうな顔をする。

「い、いや悪かったよ。柳もメンター様に言われて仕方なく来てるんだよな・・・。」

「すみません、先輩のケガが治りきってないのに無理言ってしまって。でも、早くケガを治して、練習に復帰してくださいね。都大路の予選も近いですし。」

山室は目をそらした。顔に影が差している。

「・・・・・いや、ずっと言い出せなかったんだけどさ・・・・。俺、ケガが治ったら長距離ブロック辞めて、短・中距離に移ろうと思うんだ。」

「えっ!!どうしてですか?先輩が辞められたら人数が足りなくて予選にも出られませんよ・・・。」

「いや、わかってるよ。だから言い出しづらかったんだ。でも、メンター様の練習がきつ過ぎてもうついていけないんだ。夏までは頑張ってたよ。でもどんどん厳しくなるし、俺が腰痛で休んでる間も、さらに厳しくなったらしいじゃないか。今さらとてもあの練習メニューに付いていける気がしなくてさ・・・。女子とはいえ、社会人全国レベルの練習なんてとても無理だよ。俺、壊れちゃうよ。だからこれからは中距離に転向して、マイペースに練習していくよ。」

山室は下を向いてつぶやいた。

「たしかに、メンター様の練習は厳しいですけど、メンター様に付いていけばきっと強いランナーになれますよ。」

「いや・・・これ以上あの人に付いていくのは無理だよ。それにもう決めたことだし。林田先生にも伝えてあるんだ。」

「そうですか・・・・。」

「しかし・・・そもそもなんでメンター様は、俺らにあんな厳しい練習メニュー課すのかな・・・ちょっと考えれば、俺たちがどんなに頑張ったって都大路に出場することが無理なことくらいわかるじゃんか・・・。」

山室の声を背に聞きながら柳は教室を後にした。山室先輩が長距離ブロックを離れることも悲しいが、この話を詩織さんに伝えた時の詩織さんの表情を考えると心が重くなった。それでも柳はとぼとぼとグラウンドに向かった。詩織さんが作ってくれた今日の練習メニューを消化しなくては。


                      ★


その後も練習メニューは厳しくなり続けた。部員何人かが、メニューを緩めてくれと詩織さんに頼みに行ったが、詩織さんは頑としてそれを聞かず、練習メニューはさらに加重された。特に、その年の冬練習は地獄だった。


高校2年の7月、柳はインターハイの地区予選で着順2位で県大会に進んだ。この頃には、厳しい練習の成果もあって16分台前半のタイムがコンスタントに出るようになった。しかし、インターハイ予選が終わるころには3年生の先輩も引退し、また残っていた柳の同級生も退部するか、短・中距離ブロックに移っていた。1年生も練習が鬼のように厳しいとの噂が広まったせいか、長距離ブロックにはほとんど集まらず、わずかに入部した1年生部員2名も夏合宿の最終日に退部を申し出た。とうとう長距離ブロックは、詩織さんと柳の二人だけになってしまった・・・・。

「少し厳しすぎたのかしら・・・・。」

夏合宿の帰りのバス、柳の隣に座った詩織さんはひどく落ち込んでいた。

「僕は、詩織さんの練習のおかげで速くなりましたし、感謝しています。きっと来年新しい部員が入ってきますよ。」

隣の席に座った柳は、慰めるためだけでなく、本心からそう言っていた。確かに詩織さんの練習は厳しいけど、1年ちょっと食らいついていたらかなり早くなった実感がある。

「・・・・・・柳くんは続けるつもりなの・・・?」

詩織さんは、柳の方を向いて言った。心なしかその眼にはすがるようなものを感じる。

「もちろんですよ。あの・・・笑われるかもしれないですけど・・・夢があるんです。」

柳ははにかみながら、詩織さんとは反対方向に視線をそらした。

「柳くんの夢ってなあに?」

「詩織さんと同じ高田大学の競走部に入って、箱根駅伝に出たいんです。」

「えっ!!」

「あっ、スポーツ推薦が厳しいことはわかってます。だから学力試験を突破して、いや、学力試験も簡単じゃないってわかってますけど。それで入部標準タイムである14分台も来年までに達成して、4年間頑張って、タイム伸ばして、何区でもいいので箱根を走りたいんです。もし箱根を走ることになったら、詩織さんも見に来てくれますよね?だから、この夢を叶えるために、詩織さんが作ってくれる練習メニューがどんなに厳しくなっても、僕は付いていきます!」

「・・・・・柳くん・・・・。」

詩織さんは突然、窓の方を向いて黙ってしまった。柳は、しばらく詩織さんの方を向いていたが、その表情は見えなかった。何か気に障ることを言ってしまったかと不安になった。しかし、バスがトンネルに入った瞬間、車窓に詩織さんの顔が映った。よく見えなかったが、柳の目には涙がこぼれているように見えた・・・。

その後、長距離ブロックで一人になった柳は、詩織さんから文字通りマンツーマンで指導を受けた。練習だけではなく、合間には勉強も教わった。休日には柳の競技会や記録会に付き添ってもらったし、また詩織さんの競技会に柳が見学に行くこともあった。家と学校の授業の時間以外はずっと一緒だったと言っても過言ではない。

「僕がいなくなったら詩織さんは一人だ。だから何が何でも食らいついてやる。」

そう覚悟した柳は、詩織さんが課す厳しい冬練習も耐え抜いた。冬の早朝はまだ暗く、走ると寒気で肌が切り裂かれそうになる。また、夕方もすぐに暗くなり、残って一人走っていると不安になった。毎朝、筋肉痛でベッドからなかなか起き上がれない。それでも柳は詩織さんを信じて走り続けた。あの人についていけば、きっと高田大学の競走部で箱根を走れるはずだ。


                   ★


そして、高校3年生の春

「ついにやった!やったぞ!」

柳は、校内の記録会で5000mで15分54秒というタイムを記録。ずっと目標にしていた詩織さんの自己ベストタイムを上回ったのだ。

「おめでとう、柳くん。とうとう抜かれてしまったわね。」

詩織さんは、柳のタイムを見て心底喜んでくれたみたいだった。

「ありがとうございます。詩織さんのおかげです。いや、まだまだです。早く14分台を出して、高田大学競走部に入って、箱根駅伝に出るまでは気を抜けません。」

柳の脳裏には、箱根の5区を走り終えた柳と、今よりもさらに全身で嬉しさを表現している詩織さんの姿があった。もし、夢が実現したら、その時は詩織さんにどんな言葉を掛けようか・・・。今思えば、柳にとって、この時が一番幸せだったのかもしれない。

                  ★

5月のある日、柳は、詩織さんと二人で5000mタイムトライアルに臨んでいた。1年生のころとは逆に、最近は柳が先導して詩織さんが後ろに付けることが増えていた。柳は、キロ当たり3分10秒くらいのペースで順調に飛ばしていたが、突然後方のランナーの気配がなくなったことに気づき振り返った。詩織さんがトラックを外れてうずくまっていた。

「大丈夫ですか!」

柳は、慌てて駆け寄る。詩織さんは吐き気をこらえているようだった。

「いいのよ、少し休めば大丈夫。柳くんは練習を続けて。」

そういうと詩織さんはフラフラと歩き、木陰に移り座り込んだ。いかにも苦しそうだったので気になったが、詩織さんが見守ってくれているので、柳は残りの練習メニューを消化することにした。


「そういえば、詩織さん、次はいつ競技会に出場する予定なんですか?」

ある日の練習後、柳は何気なく詩織さんに尋ねてみた。そういえば、今年はまだ詩織さんは競技会にも記録会にも出場していない。去年の秋まであんなに出場していたのに。

「う~ん、いろいろ考えているんだけどまだ未定なのよ。」

「そうですか。決まったら教えてください。また応援に行きますから。」

しかし、その後も詩織さんから競技会や記録会への出場が決まったという話はなかった。

                    ★

6月のある日、柳は部活の準備のため、体育教官室のそばを歩いていると、中から林田先生の大きな声が聞こえた後、詩織さんが飛び出してきた。詩織さんは、柳に目もくれずに昇降口の方へ走って行った。教官室から遅れて出てきた林田先生は柳に気づくと、目をそらし、中へ戻って行った。

                    ★

7月、インターハイ地区予選前の最後の記録会に参加した柳は、駅まで送ってもらうため、詩織さんが運転する軽自動車に同乗していた。最近すれ違いが多く、ゆっくりと二人でしゃべるのは久しぶりだ。

「15分45秒でしたけど、最後もっと粘れました。次は30秒台も出ると思いますよ。」

「・・・・・・。」

自己ベストを更新したことと、久々に詩織さんと二人きりで話せることに心が浮き立ち話し続ける柳とは対照的に、詩織さんはずっと無言だった。

「詩織さん、本当にありがとうございました。」

「なに?」

心なしか言葉にとげがあるような気がする。

「詩織さんに出会って、あんなに親身になって指導してもらえなければ、僕はここまで来れませんでした。高田大学も人間科学部であれば合格圏内です。もっとタイムを伸ばして、来年は競走部に入って・・・。こんなに打ち込めるものを見つけてもらえて、本当に幸せなことだなって・・・つくづく実感して、だから詩織さんに感謝してもしきれないです。それをずっと伝えたくて・・・。」

柳は一気にしゃべった。浮かれたあまり、柳は詩織さんの不機嫌な態度に気づいていない。

「へ~っ、うらやましいわね。」

詩織さんは不機嫌な声で答えた。

「えっ?」

「希望がいっぱいでうらやましい。これから永久にタイムが伸び続けて、君が望むような未来になるって思っているのかしら?」

「えっ、いや・・・頑張り続ければ・・・。」

「そんなわけないじゃない。高3の夏で15分台後半しか出せないなんて、選手としては二流よ。はっきり言うわよ。柳くんに才能はないわ。きっとすぐにタイムの伸びが頭打ちになって、それでその時後悔するわよ。あんなメンターぶって変な希望を持たせた女がいなければ、自分の人生が狂うことはなかったって!」

突然、詩織さんは、怒声を含む声で一気にまくしたてた・・・。

「はっきり言うわよ。あなたを指導していたのは、私の競技のためよ。同じレベルの練習パートナーがいなければ高いレベルでの練習ができない。こんな田舎ではろくな練習パートナーもいない。だからあなたとか、他の部員に厳しい練習を課して練習パートナーとして育てようとしたの。あなたは、男子の選手としては二流のタイムしか出せないけど、女子選手の練習相手としてはそこそこのレベルに達してくれたわ。私の計画通りにね。でも、もう終わり。私の競技人生も終わりなの。だから、もうあなたに無理してもらう必要はないの。メンターごっこも終わり!」

柳は迫力に押されて無言になり、詩織さんもその後は無言だった。重苦しい空気のまま、最寄り駅のロータリーにクルマをつけた。

「あの・・・ありがとうございました。」

柳は、送ってもらったことにお礼を言って、クルマから降りてドアを閉めようと振り向いた、その瞬間、詩織さんは一言つぶやいた。

「あなたにはこれ以上誤った道を歩んで欲しくないの・・・。わかってほしい。」

詩織さんは、柳の方を向かず、すぐにクルマを発進させたが、一瞬、柳の目には、詩織さんの左目から涙がこぼれている様子が見えた。このとき、詩織さんが何に対して怒っていたのか、何で泣いていたのか、結局、柳にはわからなかった。詩織さんに聞くこともできなかった。これが、柳が詩織さんを見た最後の瞬間だったからだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

翌週の月曜日、全校集会で詩織さんの退職が報告された。学期の途中であるが、体調の問題で退職するとのことだった。

呆然としている柳の周りで、ひそひそと私語を交わす生徒たちの声の中に、「できちゃったらしいよ」「うそ~、だって結婚してなかったでしょ?」という声が混じっている。周囲から、チラチラと柳の方を見てくる視線も感じる。

「静かにしないか!!!」

私語に対して林田先生が一喝した声も、柳にとっては遠くに聞こえる。


全校集会から教室に戻るとき、中野が近寄ってきて話しかけてきた。

「柳も大変だったよな。でも、身の潔白が証明できてよかったな。」

「・・・どういうこと?」

中野は驚いた顔をした。

「まさか気づいてなかったのかよ?」

「なにをだよ?」

余裕のない柳の声は少しとげとげしくなってしまった。

「だから・・・その・・・噂になってただろ。田中先生が妊娠してるかもって・・・。」

(そういえば・・・体調が悪くて練習を休んだりしてたな・・・。競技会も出場していなかったし・・・そうだったのか・・・。)

「でも、なんだよ身の潔白って?」

「いや、あくまで噂だよ、噂なんだけどさ・・・・あの、怒らないでくれよ。田中先生の件、柳が関係しているんじゃないかってさ・・・。いや俺はそんなこと思ってないよ。柳がそんなことするわけないじゃん。だけど無責任なこと言う奴がいてさ。部活の時も、休みの日も、あんなにずっと一緒だったからって・・・そういう目で見る奴もいるみたいでさ・・・。」

「・・・・・・。」

「いや、もちろんそんなことないよな。わかってるよ。もしそうだったら柳も普通に学校に来られないはずだしさ・・・。」

「・・・・そんなこと、ありえないよ。」

柳は、力が抜けて一言吐き出すのが精いっぱいだった。

気づけば周囲の生徒もジロジロと柳の方を見てくる。きっと、中野は心無い噂を打ち消すために、あえて他の生徒がいる前で大きな声で柳に話しかけてきたのだろう。でも、正直そんな噂なんてどうでもいい。自分を導いてくれる存在、運命を変えてくれる存在。メンターはもういないのだから・・・・。


それから柳は、空虚な思いを抱えたまま、ただただ日々を消化するかのように残りの高校生活を過ごした。詩織さんがいない部活にはもう用はない。詩織さんがいない世界では、高田大学も箱根駅伝を目指す気にもなれない。柳は、インターハイ予選にも出場せず、そのまま陸上部を退部し、やることもないので惰性で受験勉強をして、それでもなぜか成績が伸びて・・・・。

翌春、柳は享和学館大学の法学部に入学した。何をしたかったわけでもない。何校か受験して、親に言われるまま、合格した中で最も偏差値の高い大学の学部に入っただけだ。ちなみに、高田大学は受験すらしていない。


                       ★


「おい、柳、どうした?固まっちゃって。」

向かいの席に座るすみれが話しかけてくる。すみれは、なぜかいつの間にか向かいの席に座っている。

「いや、ちょっとぼーっとしちゃって。」

「おっ、余裕ですね。いいのよ。柳が油断してるってことは・・・その間に私が富岡先生に教わった方法で猛勉強して差をつけて・・・。選抜試験の1位は私のものだ!」

ビシッと指を突き付けてくるすみれ。いつも明るいすみれに、柳の顔にも思わず笑みがこぼれる。

「ねえ、もしさ、選抜試験で1位になって、山澤先輩がメンターになってくれたらさ・・・。」

すみれの眉がピクッと動く。

「山澤先輩に、すみれのメンターにもなってくれるようお願いしてみようか?」

「なにそれ!普通にイヤなんですけど!なんでそんなこというのよ!」

口をとがらせるすみれ。

「いや、きっとその方が楽しいだろうな・・・ってふと思ったんだけどさ・・・。」

あの詩織さんとの苦しかったけど充実した日々、最後の苦い思い、今ではすっかり懐かしい思い出になった。詩織さんに付いていけば、どこまでも速くなれるんじゃないかと錯覚したあの万能感、それをもう一度感じてみたい。でも、もう一度同じ道を歩めるとしたら、決して誤った道を歩まないようにしたい・・・・。いつも明るく助けてくれるすみれがいれば、きっと間違えない気がする。なんとなくそんな予感がしたから。


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