絵里子の下宿 ― 日常に潜む異変
祐一は、翌朝、つばき壮に戻る事にした。
さくらから掛かって来た電話で約束の事を忘れていたからだった。
***つばき壮への帰宅***
翌朝。公園に差し込む朝日で、祐一は目を覚ました。
公園のトイレで顔を洗い、簡単に身支度を整えた後、軽い食事を取る。軽バンを走らせ、目的地は下宿先のつばき壮だった。
午前中。つばき壮に戻ると、さくらが待っていた。
「お帰り。ちゃんと眠れた?」
「まぁ、そこそこにね」
二人は裏庭のベンチに腰を下ろし、話を始める。祐一は昨夜の公園での作業を簡単に説明し、さくらは友人・絵里子の話を詳しく語った。
下宿の場所。目撃された時間帯。下宿人たちの反応。
話を聞き終えた祐一は、小さく頷く。
「……直接、様子を見た方が良さそうだな」
「やっぱり?」
「うん」
***絵里子の下宿へ***
こうして二人は、絵里子が下宿している場所へ向かうことになった。
軽バンに乗り込み、エンジンをかけると、車内に低い振動が伝わった。
「へぇ……」
さくらが助手席に座り、後部座席を見回しながら感心したように声を上げる。
「祐一くんの軽バン、けっこういい感じだね。後ろで寝泊まりもできるし……ちょっとした移動する部屋みたい」
「まぁ、最低限だけどね」
祐一は前を見たままカーナビに目的地を設定する。
「ただし、一人限定。二人で寝泊まりするのは、さすがに狭いし、外にテントを張ってどちらか一人が寝ることになる」
さくらは少し考え込むようにしてから、にやりと笑った。
「私も今度、車の中に泊まってみたいな」
「……は?」
「つばき壮の駐車場で車中泊をするってこと。ほら、雰囲気違うじゃない?」
祐一は、一瞬だけ言葉に詰まった。「……まぁ、悪くはないけど」
「ほんと? じゃあ、そのうちね」さくらは楽しそうに窓の外を見る。
軽バンは街中を抜け、住宅街へと入っていく。穏やかな朝。他愛のない会話が続く。
軽バンにはFMトランスミッターが取り付けられており、MP3プレイヤーとして好みの音楽を流していた。
「ふーん、祐一くんの車の中って、けっこう色々な物が取り付けてあるんだね」
さくらが、あちこち興味深そうに眺める。
「ちょっとした部屋でもあるし、調査拠点でもあるからね」
祐一が答える。
二人が向かっている先は、日常の中で少しだけおかしな場所であり、ピクニックではなかった。
祐一は、ハンドルを握りながら呟く。
「今度の相手は、古代悪魔みたいな存在じゃないけど、それでも、慎重さは必要だ」
「うん、霊とか私には分からないけど……やっぱりそういったこともあるんだと信じてる。ちょっと怖いけど……」さくらが小さく答える。
ナビが告げる。『まもなく、目的地周辺です』
祐一は、静かにブレーキを踏んだ。
***下宿先に到着***
下宿先に到着し、祐一は軽バンを停めた。敷地内には来客用の空きスペースがあり、そこへ車を入れる。
目の前の建物は、アパートだった。
つばき壮のような木造ではなく、現代的な集合住宅。だが、どこか古さを感じさせる佇まいだった。
レトロ、というほど味があるわけでもない。かといって、新しさも感じられない。
平成初期に建てられたような、「少し前の時代」が、そのまま残っている建物だった。
外壁の色はくすみ、共用廊下の照明もやや暗い。周囲を見渡すと、同じような古めの建物が密集しており、全体的に、どこか寂れつつある雰囲気が漂っていた。
「……なんか、静かな所だね」さくらが小さく呟く。
「昼間なのに、人の気配が薄いな」祐一も同意するように頷いた。
***訪問***
二人は、絵里子の住む部屋へ向かう。階段を上り、共用廊下を進む。
足音が、やけに響く。
祐一は、無意識のうちに周囲を観察していた。霊的な異常は、今のところ感じられない。だが、空気が少し重く感じられた。
(気のせい、だといいんだけど)目的の部屋の前で立ち止まる。
さくらが、チャイムのボタンを押す。
ピンポーン。
やや古い電子音が、廊下に響く。
少しして、ドアが開いた。
現れたのは、髪が少し長く、控えめな印象の女性だった。年齢は、祐一たちと同じくらいに見える。
「あ……」
女性は、さくらの顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「さくらちゃん、来てくれてありがとう」
「ううん、いいのよ」
さくらはそう言ってから、祐一の方を手で示す。
「それで、こっちが、噂の田中くん。オカルト研究会の部長さん」
女性は一瞬だけ、祐一をじっと見つめた後、軽く頭を下げた。
「こんにちは、田中さん。私、金井絵里子です」
「こんにちは。田中です」祐一も丁寧に会釈を返す。
その瞬間、祐一は微かに感じ取った。
――この部屋の奥から、わずかな違和感が漂っていることを。
はっきりとした霊気ではない。だが、確かに「何か」が感じ取れた。
「中で、話そうか」
絵里子がそう言い、ドアを大きく開けた。
祐一とさくらは、視線を交わし、部屋の中へ足を踏み入れる。
ここからが、本題だった。
***室内の浄化***
部屋に足を踏み入れた瞬間、祐一ははっきりと感じ取った。
場の気が重い。
目に見える異変はなかったが、空気が淀み、呼吸がわずかに重くなる感覚が広がっていった。
「……少し、失礼します」
祐一はそう断り、玄関に立った。
懐から札を取り出し、玄関の内側に一枚、丁寧に貼る。続いて、浄化スプレーを手に取り、周囲に噴霧した。
細かな霧が広がっていった。
「邪気よ、去れ――」
低く、落ち着いた声。霊力を込めた浄化の霧が、空気の層を押し広げていくのが感じられた。
次に、祐一は小さな香炉を取り出し、リビングに入る。浄化用のお香に火を点けた。白い煙が、ゆっくりと立ち昇る。
祐一はフローリングに正座し、静かに目を閉じる。
そして、お経を唱え始めた。
一定のリズム。途切れることのない読経の声が、部屋に満ちていく。
十分後、部屋の中の空気が変わったことが感じられた。
重さが抜け、胸が楽になる。さっきまで感じていた、得体の知れない気配が、すっと引いていく。
祐一は、最後の一節を唱え終え、深く息を吐いた。
「……これで」
ゆっくりと立ち上がり、周囲を見回す。
「ひとまず、この部屋の気配は消えたみたいだ」
絵里子は、驚いたように辺りを見回し、思わず声を漏らす。
「本当……空気が、全然違う……」
さくらも小さく頷いた。
「さっきまで、なんとなく息苦しかったのに」
祐一は慎重な口調で続ける。
「ただ……これで完全に安心とは言えない。しばらく様子を見る必要はありそうだね」
***今夜の判断***
その言葉に、さくらが少し考え込む。
「……じゃあ、今晩は私もここに泊まるわ」
「え?」
絵里子が驚いた声を上げる。
「一人にするのも不安だし。何かあったら、すぐ分かるから」
祐一は、少しだけ考えてから答えた。
「じゃあ、僕は外で様子を見るよ」
「外?」
「軽バンで車中泊する。アパート全体の雰囲気が、あまり良くない」
祐一は、窓の外へ視線を向けた。
建物全体に、うっすらと残る違和感。部屋単体の問題ではない可能性。
「何か起きたら、すぐ連絡して」
さくらは真剣な表情で頷いた。
「分かった。何かあったら、すぐ電話する」
こうして、その夜の配置が決まった。
室内には、さくらと絵里子。外では、祐一が軽バンで待機。
静かなアパート。何も起きなければ、それでいい。
だが、祐一の胸には、消えない違和感が残っていた。
――本当に、これで終わりなのか。
夜は、これからだった。
***夜の調査と浄化***
夜が更けるまで、祐一はアパート全体を見て回った。
廊下、階段、ゴミ置き場、裏手の駐輪場。どこも決定的な異変はない。だが、どこか重たい膜のようなものが、建物全体を覆っている感覚があった。
管理人室を訪ね、祐一は率直に切り出した。
「このアパート……何か、あるんでしょうか」
管理人の男性は、最初は首をかしげ、曖昧に笑ってみせた。だが、絵里子から聞いた話をいくつか挙げると、その表情がゆっくりと崩れる。
「……正直に言います。心霊現象の噂は、あります」
事故物件ではなく、告知義務もない。お祓いも魔除けも試したが、はっきりした効果はなかった。そう語った説明は、どこか疲れ切っていた。
祐一が調査と浄化を申し出ると、管理人は深く頭を下げた。
深夜、祐一はアパートの外周を回り、日本酒を少量ずつ撒いて清めた。敷地内の正面玄関、その両脇には水晶の浄化具を静かに設置する。
空気が、少しだけ軽くなる。確かな手応えがあった。
その夜、さくらは部屋に泊まり、祐一は車中泊で様子を見ることにした。夜明け前、何事も起こらなかった。
*** 日常の回復***
朝。
通勤に急ぐ足音、新聞受けに落ちる紙の音、どこかの部屋から流れる朝のニュース。昨夜までの重苦しさが嘘のように、アパートは「普通の朝」を迎えていた。
「……とりあえず、成功かな」祐一は小さく息を吐く。
ただ、完全に消えたわけではない。影のようなものは、まだ奥に残っている気配があった。
それでも、日常は、何事もなかったかのように回り続ける。
人は気づかない。この静かな朝が、誰かの手によって守られたことを。
***別れと次への課題***
「また、何かあったら、いつでも相談してね」
さくらはそう言って、絵里子に微笑んだ。絵里子は何度も頭を下げ、少し硬かった表情が、ようやく和らいでいた。
祐一は最後に管理人室を訪ね、用意していたお札と、水晶でできた浄化グッズを手渡す。管理人室の入口にお札を貼り、部屋の隅に浄化グッズを置くよう勧めた。
「これで、悪い霊や邪気が入りにくくなります。場も、ある程度は清まるはずです」
ただし、と祐一は念を押す。
「今回やったのは、あくまで簡単なお清めと魔よけです。完全に安心というわけではありません」
管理人は深くうなずき、安堵したように息を吐いた。
「それでも……少し、気が楽になりました。本当にありがとうございます」
その後、管理人は声を落として、もう一つの話を切り出した。
「実は……一部屋、どうしても入居者が長続きしない部屋がありまして」
「入っても、だいたい一週間以内に出ていくんです」
祐一は少し考え、首を振った。
「今の装備だと、中途半端な調査になります。下手に踏み込むのは危険です」
管理人は残念そうだったが、すぐに納得した表情になった。
「後日、オカルト研究会のメンバーと一緒に、改めて調査します」
そう約束し、祐一とさくらはアパートを後にした。
***帰路***
夕方の風は穏やかで、敷地内の空気は確かに軽くなっている。住人たちは、何事もなかったかのように洗濯物を取り込み、子どもが笑い声を上げて走り回っていた。
「……今日は、これで一区切りだね」
さくらがそう言うと、祐一は小さくうなずいた。
だが、アパートを振り返った一瞬、祐一の視線は、例の空き部屋の窓に留まった。
特別、何も感じられなかった。
「……そのうち、また来ることになりそうだ」
誰にも聞こえない声で、祐一は呟いた。
祐一は車のエンジンをかけ、目的地をつばき壮に設定した。
帰宅中、さくらと色々な日常の会話をしながら途中で、祐一が提案する。
「そうだ、コンビニに寄ってサンドイッチを買おう」
途中でコンビニに立ち寄った。
祐一とさくらは、コンビニでサンドイッチとパン、ジュースを買った。
「今日は、私のおごりだから」
さくらがスマホ決済で会計を済ませる。
「ありがとう」
祐一が礼を言う。
そして二人は、何気ない日常へと戻っていった。絵里子の下宿先には、まだ終わっていない何かが残っていることを感じ取りつつ。
派手ではない、地味な戦い。
しかし、それは確かに、誰かの日常を守っているのだ。
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