新人 5
日がとっぷり暮れ、薄雲のかかった月がささやかな光を街並みに落としている。
昼間の暑熱が失せ、冷ややかな空気が漂う。
客を乗せた小舟が川を流れ、賑やかに談笑しながら帰っていくようだった。
道を行きかう人々の数も減り、遅くまで開いていた店の灯りが消えつつあった。
薬屋の窓から淡い灯が洩れていた。
店主が店の中をうろうろしている様子が影となって見える。
誰かが来るのを待っているようだった。
アメリアは、月明りが射さない小路へ入り、薬屋の裏口を見つけた。
もし、裏口の鍵が開いていたら侵入して、疑わしいものがあったら取って来いとの指示を受けていた。
ただこの行為は綱渡りである。
店主の許可なく建物に侵入しているのだから、訴えられたら始末書どころではないのは新人のアメリアでもわかる。
上役の指示は絶対であると研修で教わった。
とんでもない上役に当たってしまったと後悔すらできないのが新人憲兵の宿命である。
責任はラージヒルが取ってくれると明言してくれたから、いざとなれば責任を押し付ければいいと開き直った。
ウェバーが薬屋から何らかの見返りを受け取るとすれば、人々の動きが目立たない時刻を狙ってくるはずだった。
仮に関係ない人に見つかっても、憲兵が夜の見廻りをしていると勘違いさせることができる。
アメリアは〈透明化〉の魔法を遣って姿を消した。
音を立てないようにノブを回す。
ドアが開いた。
物音を立てないように、慎重に店の中に入り、ドアをゆっくり閉める。
入ってすぐの部屋は調合室のようだった。
壁の高いところに小窓があるだけで、ほぼ明かりがない状況だった。
少し時間をおいて暗闇に目が慣れても、どこになにが置かれているかよくわからず、迂闊に動けば物音がしそうで一歩も動けなかった。
アメリアは音を立てずに深呼吸をする。心を落ち着けたかった。
そこで、〈灯火〉を遣うことにした。
ロッドを手探りで取り出し、その先を足元に向けた。
魔力を調節して微弱な光を放つようにしてから、部屋中に灯を向ける。
調合室の様子を見て、不用意に動かなかったのは正解だったと思った。
入ってすぐのところに、木箱が置かれていて、下手に動けばつま先が当たっていたかもしない。
さらに見回してみると、かなり広い部屋だとわかった。
壁際には小分けになった棚が置かれ、様々な薬が収められているらしかった。
部屋の真中にテーブルがあり、その上に小鉢やすりこぎといった調合に必要な道具が雑然と置かれている。
店内に続くドアに近づこうとしたとき、人の声がした。
何をしゃべっているか聞き取れず、アメリアは慎重に足を運んでドアに近づき、耳を当てた。声の主は店主とウェバーなのは間違いなかった。
「ですからウェバーさん、これ以上は」
声が震えていて明らかに動揺している様子だった。
重大なことを話している気がして、アメリアは耳を澄ませた。
「ったく、バカかおめえは。足がつくような真似をするからだろうが」
ウェバーがチンピラのような口調で毒づいた。
「すみません。あのラージヒルって憲兵、かなり疑っているようでして」
昼間のことを言っていると、アメリアは感じた。
たしかあのとき、ラージヒルは口が臭うと無神経なことを言っていたとアメリアは思い出した。
「あれは売り物だろうがよ。なに自分で使ってんだ」
別の声がした。ウェバーは仲間を連れてきているらしかった。
「魔が差してしまって……」
店主が口ごもって語尾が聞き取れない。
――思ったよりも、根が深いわね。
憲兵への付届けを忠告するだけの仕事だけではなくなったとアメリアは確信した。
それに昼間のラージヒルが店主に無礼を働いたのは、疑惑があるからカマをかけたのだと今では理解できた。
だからこそ店主はウェバーに泣きついたのだ。
ラージヒルは彼らが何らかの行動を起こすと予測からこそ、アメリアに潜入しろと命令したのだ。
「とにかく、中身を確認するぞ」
とウェバーが言うと、調合室に近づく足音が聞こえてくる。
アメリアは慌ててドアから離れた。
だが不注意にもテーブルに腰が当たってしまい、小鉢とすりこぎのぶつかる甲高い音を立ててしまった。
――痛っ。
痛みをこらえて、声を出さないように息を止めて喉に力を入れたが、意味がなかった。
「誰だ!」
急いでドアを開けたのはウェバーである。
さらに仲間と思しき輩が二人ついてきた。
冒険者崩れらしく、直剣を腰に差した剣客と杖を手にした魔法遣いである。
間一髪、アメリアは部屋の隅に身を寄せた。
姿を消す魔法を何とか維持できたため、こちらの姿は見えないはずだった。
ところがウェバーたちは誰かがいると確信したらしい。
仲間の魔法遣いが〈灯火〉を遣って、調合室の中を照らした。
ウェバーたちが部屋の中を隈なく探している間、アメリアは浅く呼吸をし、絶対悟られないよう気を張りつめた。
「まさか、泥棒でも入ったんですかね?」
「ちっ。中身は大丈夫か」
ウェバーと剣客はテーブルに手をかけた。
魔法遣いがテーブルの上の道具をどかしてから、テーブルを縦にして壁に立てかけたあと、床板を探った。
すると、床板の一部が外され、ウェバーが中から袋を取り出して、中身を改めた。
――あれは……。
何かしら、とアメリアが思ったとき、店主が遅れて調合室に入ってきた。
「外には誰もいませんでした」
どうやら店主は外の様子を見て来たらしい。
心なしかほっとした表情を浮かべている。
「こっちも異常なしだ」
袋の中を改めたあと、ウェバーが言った。
「じゃあ、さっきの音はなんだったんだ?」
と剣客が言った。
「たぶん、こういうことだ」
魔法遣いが不意に、杖で床を突いた。
湿った音が鳴ると、にわかにアメリアの姿が浮かび上がった。
――しまった。
アメリアはこの魔法の正体を知っていた。
身体に付加された魔法の効果を消去するものだった。
完全に姿が見えるようになると、連中の視線がアメリアに注がれた。
「てめえ、昼間の女か」
ウェバーがアメリアの姿を認めて言った。
――しかたがないわ。
アメリアは覚悟を決めた。大きく息を吸う。
「警務局査察課のアメリア・ティレットだ。スレイ・ウェバー巡査部長、その袋はなんだ?」
ロッドで袋を指して、毅然とした態度で訊いた。
「ウェバーさん。ど、どうしましょう」
店主はわかりやすく狼狽えた。震える手先でウェバーに縋りつこうとする。
すると、ウェバーの口元が歪み、邪悪な笑みを浮かべた。
「質問に答える必要はねえな。この女、盗みに入ったんだからよ」
ウェバーの声に応じるかのように、仲間たちがお互いに顔を見合わせると、下卑た笑みを浮かべる。
アメリアが潜入に失敗して、仕留める口実ができたのを勿怪の幸いと感じたようだ。
――どうすれば……。
アメリアに迷いが生じた。
袋の中に法に触れる物品があれば、魔法を遣って実力行使に出られる。
しかし、もしあの袋に問題がなければ、こちらが罪に問われかねない。
するとそのとき、裏口のドアが開いた。調合室にいた全員が裏口に目を向ける。
「はいはい、それまで」
入ってきたのは、ラージヒルだった。間延びした言い方をして、パンパンと手を叩いた。
「すいませんね。うちの部下が変なことをしてしまって。あとできっちり処分するんで、この場は収めてくれませんかね」
と笑みを浮かべながら言い、歩み寄ってきた。
――こいつっ!
アメリアは胸の内で毒づいた。
薬屋に侵入するよう命じておきながら、部下に責任を押し付けようとするラージヒルの態度に腹を立てた。
だが、それは違った。
いきなり現れたラージヒルにどう対応していいかわからず、ウェバーたちは戸惑いの様子を見せている。
そのとき、歩み寄ってくるラージヒルのつま先が袋に当たった。
「あ、すみませんねっと」
ラージヒルは袋を蹴り上げ、アメリアの足元に飛ばした。
袋の中から多くの薬包がこぼれる。
アメリアは一瞬、なにが起きたのか理解できなかった。
「て、てめえ!」
ウェバーが怒号を上げたとき、彼の顔に驚愕の色が広がった。
いつの間にかラージヒルは短い方の剣を抜いてウェバーの目の前に刀身を突きつけたのだ。
その剣はやはり、憲兵の支給品とは違っていた。片刃の刀身がわずかな曲線を描いている。
「す、すごい」
アメリアは驚嘆した。
目にも映らぬ早業を見せられて、ラージヒルがただの無神経な男ではないと感じた。
彼は凄腕の剣術遣いでもあったのだ。
連中は身動き一つとれなかった。
もし下手に動けば、ウェバーを斬りつけると悟ったらしかった。
「アメリア、薬包の中身を確認しろ」
「は、はい」
アメリアはロッドをいったん腰に差し、膝を折って薬包を一つ手に取った。
丁寧に包を解いていくと、見たことのない粉が見えた。
「課長、白い粉と黒い粒が混ざったものが入っています」
「やっぱりね」
納得したような表情を浮かべて、店主に顔を向けた。
「店主、これはちょっとまずいんじゃないかな。あとでちょっと調べさせてもらうよ」
「させるか!」
と喚いたのは魔法遣いである。ラージヒルに向けて一発の〈氷弾〉を放った。
ラージヒルは剣を一薙ぎすると、〈氷弾〉が霧散した。
「なんだと」
魔法遣いは後じさった。一振りの剣で魔法が消されるとは思わなかったのだろう。
ラージヒルの剣には、魔力を消す効果を帯びているらしかった。
「や、やべえ、こいつ、バケモンだ」
恐慌をきたした剣客はラージヒルに敵わないと見たか、走り出して裏口から逃げて行った。
「アメリア、全員逮捕だ」
そう言いおいて、ラージヒルは剣客の後を追った。
「はい」
アメリアはロッドを手に取り、ウェバーたちの前に進み出た。
「へ、たかが女じゃねえか。こいつを始末してとっととおさらばしようぜ」
余裕たっぷりにニヤつくウェバー。
その表情にはチンピラ気質の抜けない頭の弱い考えが根付いているようだった。
「やってみろ」
アメリアはロッドを突き出し、半身の構えを取る。
「これでも、才媛の魔法遣いと謳われた私だ。貴様ごときの魔法など通用すると思うなよ」
「お嬢さまが、いい気になるなよ」
と言うと、ウェバーは邪悪な笑みを浮かべ、ロッドから〈撃火〉を撃ってきた。
人や物に当たると同時に燃え上がる魔法である。
相手を始末するしか考えていない魔法の遣い方だった。
〈撃火〉がアメリアに命中し火柱を立てた。
「これで、丸焦げだ。どうだきれいな身体を焼かれる気分は。命乞いをしてみな。今だったら助か……」
先手を取って勝ちを確信した態度が一変する。
アメリアはロッドを一振りして、火柱を消したのだ。
「こんなものか」
アメリアの身体には傷一つついていない。
そして、床や天井に火がついていたのを見ると、氷の魔法〈拡霜〉を放った。
瞬く間に火が消え、部屋中に霜が張りつく。
「ひいぃ!」
店主は金切声に近い悲鳴を上げて、のめるような足取りで逃げようとした。
「待て!」
アメリアは店主に向けて〈捕縛魔法〉を撃った。
鞭のようにしなる魔力の縄が店主の足元に絡みつく。
店主は勢い余って床に転んだ。
「このアマァ!」
魔法遣いが〈氷弾〉を撃ってきた。
アメリアはロッドを振り上げて〈炎壁〉を出現させ、すぐに消した。
部屋の中を燃やすことなく、〈氷弾〉をすべて溶かした。
「バカな……」
ウェバーは今起きたことが信じられないというふうに、呆けた顔になった。
「さて、貴様らに選択肢をやる。大人しく事情聴取を受けるか、それとも私の魔法を食らいたいか。後者の場合、地水火風雷光闇無、好きな属性を選べるぞ」
アメリアは、動揺の色の隠せないウェバーたちに向けて、ロッドを突きつける。
「うるせえ!」
「くたばれ!」
二人が同時に声を発した。数発の〈撃火〉と〈氷弾〉が襲い掛かる。
アメリアは動じることなくロッドを薙いだ。
瞬時、凄まじい炎が巻き起こり魔法の弾をすべて消し去った。
「忠告はしたからな。貴様らに本物の魔法を見せてやる」
アメリアはロッドを二人に向けると、同時に二つの魔法を遣った。
ウェバーには〈撃火〉、魔法遣いには〈氷弾〉を撃った。
二人とは比べ物にならないほど強力で、速い魔法であった。
「ごわ!」
「ぎゃあああ!」
魔法遣いの腹に〈氷弾〉が命中し、壁際に吹っ飛んだ。
そして、〈撃火〉を食らったウェバーの身体が燃え上がる。
アメリアはすぐに水の魔法を遣い、火を消した。
ウェバーの身体に傷一つなかった。
魔力を制御したので、見た目ほどの火力はない。
少し制服が焦げた程度にとどめたのだ。
「嘘だろ……こんなメスガキに」
ウェバーの身体から力が抜けたようで、両膝を床についた。
髪から滴る水が床板を打つ音が耳に届く。
「し、信じらんねえ。違う属性の魔法を同時発射なんて」
壁際に蹲っている魔法遣いが呻く。
「これでも手加減したつもりだ。なにしろここは狭いからな。貴様らのように状況を考えずに魔法を撃つほど、私は未熟ではない。ただ、これ以上抵抗するなら容赦しない。次はもう少し強めの魔法を撃つ。怪我をしたくなかったら、おとなしく縛につけ」
アメリアはロッドを向けたまま最後通告をした。
二人は抵抗意志を無くしたようで、がっくりとうなだれた。
アメリアは〈捕縛魔法〉を遣い、魔力の縄を二人の体に巻き付けた。
「おお、終わったようだな」
ラージヒルが剣客を引きずりながら戻ってきた。剣客は襟首を掴まれて、だらんとした格好になっている。
「課長、お怪我は?」
「大丈夫。にしてもよくやったものだな」
ラージヒルは縛られた三人に目を向けて言った。すると、ラージヒルは剣客の襟首から手を離し、ウェバーの元に近寄った。アメリアは剣客にも〈捕縛魔法〉をかける。
「ウェバー巡査部長。あんたも運が良いんだか悪いんだか。なにしろうちの部下は顔はいいが、怒ると見境なしに強力な魔法をぶっ放す危ない女だ。下手したら骨も残らなかったろうね」
ラージヒルはおどけながら忠告した。
「課長」
アメリアの口角がぴくっと動く。
怒ってはいけないと思いながら、ロッドを強く握りしめて感情をコントロールしようとする。
しかし、上手くいかない。
「私のなにを知って、そのような暴言を言われるのですか?」
「そりゃあ、心外だな。そんなつもりで言っちゃいないよ。俺は被疑者の身を案じただけだ」
「理由になっていない気がしますが」
「いやいや、実際おまえさん、危なっかしいところあるだろ。被疑者が怪我をして訴えられでもしたら面倒なことになるからさ」
「そんな不手際しません。ちゃんと手加減をしていますから」
「どうだかなあ」
非を認めないラージヒルに対し、アメリアの胸の内から何かが泡を立てて沸きつつある。
「さて、さっさと連行するか。外に馬車を待たせてあるから」
話を切り上げ、四人を立たせようとした。
すっかり意気消沈したウェバーたちは大人しく指示に従う。
ラージヒルは店主と剣客の腕を取り、外に出ようとした。
と、ここでアメリアは不意に意趣返しの手段を思いついた。
「課長、取り調べが終わったら訓練しませんか」
アメリアは笑みを作り、柔らかい口調で言った。
だがその表情の裏には、怒りがある。
「はい?」
突然の提案に、ラージヒルは戸惑ったようだ。
「ええ、新人の私にはまだまだ未熟なところがあると今回の事件で痛感しました。つきましては全力で実戦訓練をしていただけたらと思います」
「あ、あは。そうね」
その言葉を聞いたラージヒルに苦笑いが浮かぶ。
アメリアの言外にある真意を見抜いたらしい。
「ですが、訓練では怪我はつきものです。なにしろ課長ほどの手練れを相手にしなければなりませんから、こちらも覚悟の上です。ぜひこちらも全力で、って、こら」
話している途中で、ラージヒルは犯人たちをほっぽって逃げた。
残像が残るほどの素早さだった。
「いつか、とっちめてやる」
アメリアは貴族令嬢らしくない言葉を吐いた。
無意識に四人にかけた捕縛魔法を強めてしまった。
四人の呻き声が調合室に響く。