狂気 3
エルンスト・ストルーヴは執事ラース・ツェマーの肩を借りて廊下を歩いていた。
アメリアも手を貸そうとしたが、客人に迷惑はかけられないと言われ断られた。
廊下の窓に水滴が当たる。灰色の雲がさらに濃くなり、夜のような闇が王都イクリスを漂い始めた。
灯のついていない廊下にただならぬ空気が流れている気がした。
手入れの行き届いた邸宅のはずなのに、どこか心が落ち着かない。
エルンストは自室にアメリアを招き入れた。ラースと、メイドの手を借りてベッドの上に横になった。
メイドが優しくシーツをかけて、エルンストは枕に頭を置いた。
「申し訳ありません。本来なら客室に招いて話を聞くべきなのですが、なにしろこの状態ですので」
エルンストは微笑みを浮かべて非礼を詫びた。
病身で満足な対応ができない不甲斐なさが顔に滲んでいる。
「どうぞご無理をなさらずに。それに失礼なのはこちらの方です。そちらの事情を考えずに、突然訪ねたのですから」
アメリアは用意された椅子に腰を下ろして言った。
憲兵の仕事であると割り切っても、申し訳ない気持ちが頭をもたげる。
無理して入口まで出迎えてくれたことを鑑みると、エルンストは王家の血筋という立場に驕らない性格らしかった。
「お気になさらずに。あなたはお仕事で来られたのでしょう。なら、僕もできる限りのことはしたいのです。それにこちらには疚しいことなんてありませんから」
「お気遣い、感謝いたします。あまり時をかけない方がよろしいかと思いますので、早速お話を伺います」
アメリアは聴取を始めた。
「祖父が遺した本のことでしたね」
「ええ、先日文教省の書庫に保管されていたオリヴァー様の著書が焚書の憂き目に遭ったのはご存じでしたか」
「はい。非常に残念です。まさか文教省でそんな事件が起きるとは」
「かなり貴重な本だと伺いました」
「ええ。ですが、祖父は元々自分の思想を本にする気はなかったと聞いています。当時の官吏が祖父の考えに感銘を受けて、その教育論をまとめてほしいと依頼したらしいのです」
「たしか、平民の質を向上させるのが目的だと伺っていますが」
「ええ。王国の貴族たちは自分たちが優れた存在だと考えている者が少なくありません。貴族を中心とした王室が国や領地、それに人民を動かし、繁栄に導いているのだと。アメリア様、この考えは傲慢だと思いませんか?」
「え、あ」
不意の問いかけにアメリアは戸惑って、視線をエルンストから外してしまった。
おおむねエルンストに同意なのだが、はっきりと明言するのは憚られた。
「貴族も人間ですから、勘違いする者がいてもおかしくありません」
当たり障りのない返答になってしまったが、その答えにエルンストは納得したらしく、小さくうなずいた。
「ところが、祖父の考えは他の貴族たちの思想と一線を画していました。貴族たちは人民に支えられているのだと説いたのです」
「ですが、その思想は反発があったと聞いております」
「はい。しかし祖父はそれらの声に抗い、領地を治めるようになってから平民にも正しい教育を施すようになりました。ストルーヴ家の運営する学校を設立し、平民から優秀な人材を発掘し、育てるためにです。始めの内は試行錯誤の連続で失敗も多かったのですが、十年、二十年と時が経つにつれ良い結果が出始めたのです。ストルーヴ家の領地は、民衆の努力によって栄えたと言っても過言ではありません」
病身なのに、祖父の功績を称える口調に澱みはなかった。
エルンストは祖父であるオリヴァーに尊敬の念を抱いているに違いなかった。
「素晴らしいことだと思います。ですが、平民が力を持つのを厭う貴族もいらっしゃるのではないでしょうか?」
アメリアはあえて訊いた。自分も貴族の娘なので、オリヴァーに対する陰口を聞いたことがある。
それにオリヴァーの思想を快く思わないなら、彼の書いた本を貴族の子女が勤める文教省に保管したくないのかもしれないと考え始めた。
「現実を、認めたくはないのでしょう」
とだけエルンストは言った。
「話がそれてしまいましたね。アメリア様は貴族の誰かが祖父の本を燃やしたとお考えですか?」
「今のところはなんとも言えません。失礼なことをお尋ねいたしますが、オリヴァー様の思想、またオリヴァー様ご本人を嫌っている人物に心当たりがおありでしょうか?」
「何ということを」
ラースが嘆くような口調で言った。
オリヴァーを恨んでいる人物がいるのを怪しからんと思っているような声だった。
「いいんだ、ラース。アメリア様だって仕事で訊いているんだ。……そうだな、心当たりが多くて見当がつきません」
「でしたら、対象を絞り込みましょう。文教省にオリヴァー様の思想に反対している方、もしくはその血筋の方に心当たりはおありですか?」
「ええ、確かにいます」
エルンストは心当たりのある人物を挙げた。
肩書を聞く限り、かなりの地位にいる人物のようだった。
「アメリア様、もうこのくらいで。エルンスト様にお障りが……」
ラースが心配そうな声を上げた。
「わかりました。エルンスト様、本日はありがとうございました。お身体を大事になさってください」
アメリアは席を立とうとした。
「お待ちください、アメリア様」
エルンストはまだ言いたいことがあるらしい。アメリアは浮かした腰をまた椅子に下した。
「私からも一つ訊きたいことがあります。この捜査、文教省の官吏から頼まれたものではありませんか?」
エルンストはまっすぐアメリアを見つめた。
是が非でも知りたいことだと暗に示している気がする。
その視線に耐えられず、アメリアは顎に右手を添えて俯いた。
果たしてどこまで話して良いのかしらと考える。
ディックの話しぶりから察するに、なるべく秘密裏に事を運びたい意向があるはずだった。
たとえ王家の血筋につながる方とはいえ、ディックが持ちかけたと告げるわけにはいかなかった。
ラージヒルがここにいれば、上手くはぐらかすこともできたし、また正直に話す選択肢も取れたはずだ。
アメリア一人で判断するには荷が重すぎる感がある。
一方で、エルンストの口調から確信めいたものを感じた。
オリヴァー・ストルーヴの本にまつわる事件には何か裏があるのかもしれない。
そのことをディックが隠してラージヒルに話を持って来たとしたら……。
――覚悟を決めなきゃ。
胸の内で、心臓が早鐘を打つ。
もし判断を間違えたら取り返しのつかない事態になりかねない。
アメリアは大きく息を吐いて決断を下した。
「はい。お名前を出すわけには参りませんが、エルンスト様がお考えになった通りです」
「やはり。アメリア様、どうかその官吏に気をつけるように言ってください。もし、文教省に犯人がいるとしたら、その人に危険が及ぶかもしれません」
「どういうことですか?」
ただ事ではなかった。どうしてそのような発想につながるのか、アメリアには理解できなかった。
「貴族の社会は、あなたが思っているよりも陰湿な計略が張り巡らされた場所です。文教省も例外ではありません。特にあの人はどんな手を使ってくるかわかったものではありません」
エルンストは咳払いをした。言いたいことを言えて、気が緩んだのかもしれなかった。
「エルンスト様、大丈夫ですか」
アメリアは魔法を遣おうとして、ロッドに手をやった。
気休めだが回復の魔法を遣えば持ち直す可能性もあるのだ。
「アメリア様、大丈夫です。薬がありますから」
いつの間にかラースが水差しとカップ、薬を乗せたプレートを持っていた。
エルンストは薬を口に入れ水を飲んだ。やがて体調が落ち着いたのかエルンストの咳が止んだ。
この状況ではもう聴取は不可能だった。一応、やれるだけのことはやったと思った。
アメリアはもう一度別れの挨拶をして寝室を出た。
エルンストの代わりにメイドが玄関まで送ってくれる。
「エルンスト様は、どのようなご病気なのですか?」
アメリアはメイドに訊いた。
「それが、お医者様にも原因がわからないと告げられたんです。身体に異常はないと言いましたが、日に日にお痩せになって」
メイドはかなしげな声色で答えた。
「そうですか」
としか言いようがなかった。
邸宅を出ると雨が弱まっていた。
まだ雲が厚く一時的に落ち着いている感じがある。
外で待っていたコーエンがどこからか黒い傘を持ってきており、アメリアにも一本差し出した。
「いえ、私はこれで」
とアメリアはロッドの先を上に向けた。風属性魔法の応用した、魔法の傘である。
「そんな魔法があるんだ」
コーエンは目を瞠る。
「ええ、修練の一環です。魔力のコントロールをする練習で、雨の日はいつもこうしているのです」
二人はさっき来た道を引き返し、門の近くまで来た。
鉄柵越しにラージヒルとリグビーの姿が見える。
「よう、どうだった?」
門の外に出ると、ラージヒルが手を上げて訊いた。
「興味深いことが聞けました」
「そう」
と言うと、ラージヒルは辺りを見回す。
「どうかされたのですか?」
「いや、どうも気になる奴がいてな」
「え?」
「何人かここを通り過ぎたんだが、その中にこの道を往復している奴がいた。念のため職質をかけたんだが、屋敷の木々が見事だからつい興味が惹かれたって言うもんだから、それ以上追及のしようがなかったけどね」
ラージヒルは鉄柵越しに見える木々に目を向ける。
たしかに見惚れてもおかしくないほどの見事な風景が塀の内に収まっていた。
「とりあえず、いったん引き返そう。雨が強くなりそうだ」
ラージヒルは傘を畳み、リグビーに渡す。
見張り番の二人に別れを告げたあと、憲兵庁へ足を進めた。
その途中、にわかに雨足が強まった。傘を差していない通行人が鞄や手をかざしながら急ぎ足ですれ違う。
「傘、持ってくるべきだったな」
ラージヒルは恨めしそうな目つきをして、魔法の傘を遣っているアメリアを見た。
「入れませんよ」
アメリアがいたずらっぽく微笑んだのは、少し意地悪な気持ちが芽生えたからである。
普段からひと言多いこの男にちょっとした仕返しをしようと思ったのだ。
「アメリア、上役が困っているのにその態度はないだろう」
「課長、少しはご自身を顧みてください」
雨がさらに強くなる。
アメリアは得意になって言葉を続けた。
「ですが、課長が自分の過ちに気づき、ひと言多い性格を直すと誓えば、入れて差し上げます。いかがですか?」
「ふむ。そう出るか」
ラージヒルは斜めに視線を動かし何かを考えている仕草を見せる。
――何を考えているのかしら。
この男が素直に謝るはずはないと思っているが、腹の中まで予想できない。
するといきなり、雨粒を切り裂く剣筋が見えた。
右腕に剣の峰が触れる。
痛みはない。
「きゃあ!」
アメリアが驚いたのは剣筋の鋭さではない。
ラージヒルの剣に秘められた魔力消滅の効果が働き、魔法の傘が消えたのだ。
強く降る雨がアメリアの身体を打つ。
「なにをするんですか! 課長!」
思い切り怒声を上げた。
慌ててもう一度魔法の傘を作ろうとするが、ラージヒルの剣の効力がまだ続いているらしく、上手くいかなかった。
アメリアはあっという間にずぶぬれになった。
「アメリア、こうなったら一緒に濡れてもらうぞ」
ラージヒルは剣を鞘に納めて言った。
「なにバカなことをしているんですか」
「バカとはなんだ。上役が困っているのに手を差し伸べようとしない薄情女には罰が必要だ」
「あんたの普段の行いが悪いからでしょうが! 鳩尾に風穴開けるぞ!」
だんだん怒りがこみあげてきた。ラージヒルを目上の人間だと思う気がしなくなった。
「やれるもんならやってみろ。魔法の遣えないおまえにできるんならな」
じゃ、と言ってラージヒルは雨の中を走り去ってゆく。
一人残されたアメリアは頭を抱えて呆然と見送った。
「この、バカ課長があああぁぁぁ!」
雨が降りしきる中、アメリアは腹の底から呪詛を吐いた。




