栄光の果て 1
いつのころからか、ウジーヌ・ラスト憲兵庁次長の胸に虚無が這い寄ってきた。
気づいたのはここ最近だ。いや、ひょっとしたら気づかないふりをしていただけで、ずいぶん前からどこか虚しい気持ちがあったのかもしれない。
夏の日の光が窓から射し込み、次長室を明るく照らす。
壁際の書類棚や床に敷かれた赤いカーペット、それに腰を下ろしている椅子に、書類仕事をする机。すべて次長という肩書にふさわしい調度品だった。
そして入口の横の壁に掛けられている絵画。これはとある憲兵が極悪人を捕らえた瞬間を描いたもので、何代も前の次長がかけたものだった。
ウジーヌは時おり、こんなものか、と思うことがある。
若いころ、幹部候補選抜の特級試験に合格し、憲兵として日々の仕事に打ち込みながら、出世することが幹部としての正道であると信じていた。
憲兵のみならず、官吏にとっては出世レースで勝ち残ることが重要で、それ以外のことに時を費やすのは愚かだと考えていた。
憲兵として手柄を立て、上役の性格を把握し、賄賂が通ると思えば躊躇することなく金品を贈ったものだ。
間違った努力だと外部の人間は言うだろう。
しかし綺麗ごとだけではやっていけないのが憲兵庁という組織だった。
清濁飲み合わせ、いや、汚いものを飲み込み続けた結果、次長になれたのだと思う。そして五十を過ぎて、長官の椅子も見える位置につけたのだ。
ところがある日、下の階級の憲兵に敬礼されたとき、彼の姿から自分を軽蔑しているのではないかという妄執が沸き上がったのだ。
そんなことはない、と首を振って否定するのだが、厭な感情を払拭できなかった。
なぜそう思ったのか自分でも理解できない。
ようやく気付いたのは、己の人生を振り返ったときだった。
ひょっとしたら出世することに力を尽くしたのは間違いだったのか。
部下に発破をかけ鼓舞し、実績を上げ、時にはライバルの弱みを握ったり、貶めたりするぐらいのことをしないと、出世はおぼつかない。
そう、ウジーヌは最初から分かっていた。
正攻法では出世できず、搦手を使って成り上がるしかなかった。
腐敗が蔓延る組織で出世するには、これしかなかったのである。
そして彼がないがしろにしたのは、家族である。
妻のイルマは美しかったが強欲だった。
ウジーヌと結婚したのも、いずれ重要な役職に就くと感じたからである。
そこに愛情はなかった。彼女は優れた憲兵の妻として見られることに恍惚感を味わっていた。
彼女は自分の良いところしか見ようとせず、妬み嫉みが向けられていても気づかないほど鈍感だった。
そして数年前、彼女は病に侵されて亡くなった。
葬儀には憲兵のみならず、他の省庁の官吏や貴族も列席したが、憲兵幹部の妻という肩書のためであり、単なる人付き合いの一環に過ぎなかった。
葬儀の間、彼らには迷惑がっている顔色が浮かんでいた。
さらに妻の友人と称する人たちがほとんど来なかった。
妻が生前どれだけ嫌われていたのかを物語る光景だったのかもしれない。
さらに、三人の子どもは両親を尊敬などしていなかった。
長男は両親に尊敬の念を抱かず、つまらない俗物どもと吐き捨て、貴族の身分を捨てて冒険者となった。
長女はさる貴族の元へ嫁いだものの、ウジーヌを寄せ付けることはない。
次男は官吏への道を志すことなく、北国の領主の元に仕えている。
三人とも手紙を寄こさず、子どもたちのとの交流は途絶えたままだった。
野心むき出しの父親に、驕慢な母親。まともな両親ではなかったのだ。
ウジーヌの虚無は不意に入り込んできたものではなく、もとから胸の内にあり、じわじわと肥大化されたものかもしれない。
己の我欲のために働いてきた結果が、下々の者を睥睨する満足感ではなく、虚無だったとすればこれほど滑稽なことはない。
誰もいない次長室で物思いに耽り、椅子の背もたれに身体を預けて天井を見上げ、目頭を押さえた。
年のせいかよく目が疲れるようになった。指を話して目を開けると、色味を帯びた日の光が窓から射し込んでいるのに気づいた。そろそろ帰宅する時刻になりつつあった。
机の上の書類を整理し始めたとき、ドアを叩く音がした。
「どうぞ」
とだけ言うと、ドアが開き、秘書のマルガレッタ・バトリが部屋に入ってきた。
髪を肩まで伸ばし、険のある目つきがどことなく油断ならない印象を与える。
「失礼します。次長、ルーイン様から会合のお誘いがありました」
「またか。私はもう奴と関係ない。適当にあしらってくれ」
ルーインはかつてウジーヌと手を組んでいた商人である。
次長になってから数年、音沙汰がなかったのに、ここ最近になってから頻繁に連絡を寄こすようになった。
手を切ったつもりだが、ルーインにはその意識がないらしい。
「わかりました。あと、デルベーネ警務局長から言付けを仰せつかりました」
意外な人物の名前を聞いた。ミレイユ・デルベーネはかつての部下である。
仕事の面倒を見たこともあるが、出世するにつれ疎遠になっていた。
「何の用だ?」
「はい、今夜話したいことがあると仰っていました」
「内容は?」
「それが、会ってから話すと仰るだけで、仕事が終わり次第、『ハーミット』というレストランに寄るようにとのことです」
「ほう」
何かの策略だろうかと思ったが、今さらウジーヌがやってきた不正について糾弾しようとは考えられなかった。
もう過去のことだった。もし処断する気なら、とっくにやっているはずだった。
「わかった。ご苦労だったな、今日は定時で帰っていいぞ」
「は。では、失礼します」
秘書は敬礼をしてから部屋を出た。
また一人になったウジーヌは席を立って窓の外を見下ろした。
石畳の道を分断するかのように夕日と影の仕切りがあり、影から出て来る人が急に現れたかのように見えた。
堅牢に見える馬車が何台か行き交っている。
辻馬車ではなく、各省庁が保有する馬車で、幹部クラスの連中の送り迎えに使用されるものである。
ウジーヌは苦い気持ちに駆られると、深いため息を吐いた。
今日ぐらいは馬車を使わないでおこう、と思った。
◇
王都イクリスに響き渡る鐘の音が聞こえると、帰り支度をし、すぐに次長室を出た。
廊下ですれ違う憲兵たちに挨拶を交わしながら、早足に憲兵庁を出て、ミレイユの待つ店へ向かった。
ミレイユの指定した店は橋の近くにあった。
川沿いの道にはいろいろな店が立ち並び、思いのほか人通りが多かった。このあたりに来るのは久々だった。
駆け出しのころ担当した地区だったのだが、いくつかの建物は建て替えられ、店の屋号も見慣れないものばかりだった。
ただ唯一、『ハーミット』の場所だけは変わらなかった。
すでに新しい代になっているはずだが、息子か弟子かが屋号を継いだらしかった。
心持ち躊躇ってから、ドアを開けた。
「いらっしゃいませー。お客さま、おひとりですか?」
女の給仕が声をかけてきた。笑顔に愛嬌のある娘だった。
「ミレイユ・デルベーネという女性と待ち合わせしているのだが」
と告げると、女給仕は
「あ、聞いています。ほらあそこ」
と言って顔を斜め後ろに向けた。
彼女の視線の先には、波がかった赤髪の女性が背を向けて座っていた。
「ありがとう」
と言ってから、ウジーヌはミレイユの横に近づいた。
「待たせたな」
と声をかけた。ミレイユは顔を見上げて微笑む。
ウジーヌは向かいの席に腰を下ろした。
さっきの女給仕が注文を訊きに来て、ひとまず酒を頼んだ。
「お食事はまだでしょう?」
とミレイユが訊いた。
テーブルの上には彼女が頼んだお茶があるだけで、局長が来るまで食事は控えていたようだ。
「そうだな。なにか適当に持ってきてもらおうか」
「では」
ミレイユは自分の酒と一緒に料理を注文して、女給仕を下がらせた。
「ここも昔と変わらないでしょう。料理も先代の味を引き継いでいるので、お口に合うと思いますよ」
「どうかな。俺も年を取って嗜好が変わったからな」
気もそぞろに曖昧な返事をする。
かつての女部下と一緒に食事をとって変な噂が出なければいいが、と思った。
「デルベーネ警務局長、今日は何の用だ?」
口調を改めて訊いた。周りに客がいるので大した話ではない気がしたが、わざわざ呼びつけたのが気になった。
「大したことではありません。実は河川交通課の憲兵に不正の疑いが浮上したので」
「なに?」
それならこんな店ではなく、憲兵庁で話すべきことではないのか。
ミレイユの意図が読めなかった。
「いえ、それについては査察課の捜査の甲斐もあって、解決したのですが。ただもう一つ問題があるのです」
「ほう」
興味が湧いてきた。
すると後ろの壁際の席から、一年中あの日か、という男性の声が聞こえると、女性の声で、撲ちますよ、と返す声が聞こえた。
気になって少し振り向くと、男女が向かい合わせに座っており、男はこちらに背を向けていた。どうやら、男が変なことを言って彼女を怒らせたようだった。
髪の短い金髪の女性が怒り眼を現している。見覚えのある顔だった。アメリア・ティレット警部補、彼女の配属先にはウジーヌも一枚噛んだ。
そこで、ミレイユが何かを企んでいると勘づいたが、聞かれてもかまわないと、無気力に思った。
「ああ、次長こちらの話を訊いてください。さっきから少しうるさい客がいるので、気が散ると思いますが」
その声に反応して、ウジーヌはミレイユに向き直る。彼女はなぜか顔を歪めている。
「それで、問題とはなんだ?」
「その憲兵に聴取を行ったところ、貰った金がどこに行ったのかわからないというのです」
「不思議なものだな」
「次長、心当たりはありませんか?」
「ないな」
ウジーヌは一蹴した。
「ですがあなたは」
「そうだ、ミレイユ。お前も知っての通り、俺も昔は出世のためにあらゆる手を使ったものだ。だが、あらゆる便宜を図るのは当たり前の慣習だった。規定が厳しくなってからやっていないがね」
「昔のことを、お認めになるのですか?」
ミレイユは不思議そうな顔になった。まさか過去の不行跡を告白するとは思わなかったのだろう。
「今さら言ったところでどうにもならないからな。それに今の規定を遡及して過去を裁くことはできない。誰でも知っていることだ。まさかそのために呼んだわけではあるまい」
「もちろん、違います」
となると、ミレイユの腹がなおさら読めなくなった。
後ろの席がやかましくなる。
舌を撃ち抜きますよ、とアメリアが怒っている。
「じゃあ、何のためだ?」
「その憲兵が困っているのです。かなりの見返りがあるそうなので、次長に協力をお願いしようと」
「ミレイユ。お前も変わってしまったようだ」
ウジーヌは嘆息した。その反応にミレイユは驚いたようで目を見開いた。
「権力を持てば、思い通りに事が運ぶと勘違いしているようだ。俺にそんな権限はない。数少ない女憲兵として、八面六臂の活躍を認められ傲慢になったようだな」
「次長、私はなにもそんな」
「話は以上だ。これで失礼する」
料理が来る前に、勢いよく席を立った。女給仕の止める声に耳を傾けず外へ出た。
川沿いの道を南に下って、帰路についた。
わけのわからない思考に心が乱されたようだ。
橋を渡っている途中、はたと立ち止まった。
「気をつけろ」
と後ろを歩いていた男に怒鳴られる。
「すまない」
と謝ると、橋の欄干に身を寄せ、両肘をついて川を眺めた。
――いや、変わったのは……。
俺自身だと思った。汚職を持ちかけられたのは、珍しいことではない。時には話に乗ったり、躱したりしながら耳を傾けたものだった。
月明りを砕きながら川を下る小舟に目を遣った。
そして、しばらくの間、じっと川を眺めていた。




