過去からの刺客 6
ささやくような川音が、彼の耳に届く。
季節外れの暑さが過ぎて、穏やかな気候が戻ってくるのを感じた。
彼は橋の欄干に両肘を置いて佇んでいた。
北から流れる川が岸を撫で、月の光をきらきらと弾きながら海へと流れて行くのを見つめていた。
アドリアナと将来を誓い合った日もこんな夜だったと、彼は思い返していた。
十三年前、彼は十六歳の未熟な歳だった。
平凡な家庭で育ち、平和に過ごしていけると思い込んでいた時期でもあった。
これといった能力もなく、かといって落ちこぼれでもない彼は分をわきまえていた。
平凡に働き、暮らす。あとはちょっとした娯楽があれば文句はない。
人生なんて所詮こんなもんさ、と冷めた若者にありがちな思想を持っていた。
唯一、夢を見たのはアドリアナと結ばれたいと思ったことだった。
彼女は輪郭が丸みを帯び、目が小さく、鼻の低い顔立ちをしていて、美女とは言えなかった。
ただ、快活な性格も相まって、周囲に明るくふるまうときの彼女は、小さな目に愛嬌が現れる娘でもあった。
そこに彼は惹かれたのかもしれなかった。
綺麗な月が夜空を彩った時刻に、橋の上で勇気を出してアドリアナに告白したときの彼女の顔が今でも脳裏に残っている。
満面の笑みを浮かべて喜んでくれた。アドリアナもまた彼を慕っていたのだった。
そのとき彼は、人生最良の日が来たと感じた。幸せを享受できた喜びで胸が満たされ、ささやかな人生に天が潤いを与えてくださったのだと大袈裟に思ったものだ。
そしてその幸せな思いを、彼女にも感じてもらいたいと決意した。
それからの日々は本当に楽しかったと、今でも思う。一緒に学校の宿題をしたり、芝居を見に行ったり、食事をしたりした。そのたびに見せてくれる、アドリアナの愛嬌のある笑顔が彼を一層幸福にしてくれた。
だが、幸せも長くは続かなかった。
ある日、アドリアナが学校に来ていなかった。体調がすぐれず休んだらしかったが、何の病気かまではわからなかった。
前の日も元気に自分と過ごしたはずで、急病を患ったのかと心配になった。
授業が終わったらアドリアナの家にお見舞いに行こうとした。
その日のことを色濃く覚えている。厚い雲が王都イクリスを覆い、昼か夜かわからないほどの暗い日だった。身体にまとわりつくような湿気が宙を漂い、日の光が届かないイクリスの空気を不快にしていた。
その気持ちを振り払うかのように、彼は学校の授業を終えると、早足にアドリアナの家へ向かった。一目会うことができれば、アドリアナも安心するはずだという思いに駆られながら足を進めた。
彼女の家につくと人だかりができていた。不吉な雰囲気を漂わせる野次馬たちをかき分けながら、憲兵たちがシーツのかけられた担架を運んでくるのが目に入った。シーツからはみ出ている白い脚が、アドリアナであることがすぐにわかった。
彼は恐慌をきたし、担架に近づいた。しかし憲兵たちが、彼の願いを無下にするかのように制止し、担架は粛々と運ばれて行った。
アドリアナが死んだ事実が彼の胸の内に暗い影を落とした。
恐慌が虚無に変わったとき、彼は両膝をついて天を見上げた。
もう何も考えられなくなった。
野次馬たちが彼を取り囲んで見物しているのにも気づかない。
やがて、悲しみが彼の心を染めた。
頭が熱くなって、涙が頬を伝るのを感じると、両手で顔を覆って咽び泣いた。
時を忘れるほどの悲しみが襲い続けたのだった。
翌日、学校は騒ぎになった。アドリアナが自害したのと、三人の生徒が彼女に暴行した疑いで憲兵に連行された噂で持ちきりだった。憲兵の息子だという生徒が、学校中で流した情報だという。アドリアナに死なれて憐れんでくれる同級生が言ってくれたことだ。その三人が何をしてアドリアナを死に至らしめたかを知りたかった。
彼と別れた後、ジョアン、オグデン、イェンスの三人はアドリアナの家の近くで彼女を拉致し、彼女を縛り上げてから、目をそむけたくなるような暴行を働いたという。
そのとき、アドリアナは魂を奪われたのに違いない。
ひどく傷つけられた彼女は、三人にゴミのように捨てられ路上に放置された。
アドリアナは抜け殻になった身体を引きずるようにして動かして家に帰ったあと、縄で首を括ったのだ。
のちに三人は魔法を遣って悪辣な暴行を働いたとして、十年の懲役刑を受けた。
魔法を犯罪に用いた者は量刑が重くなる、リーデス王国の法に則った刑であった。
――そんなことで済ましてたまるか。
それ以来、十年以上もの間、彼は暗い怒りを心の底に湛えながら生きてきた。
愛した者を傷つけた痛みを奴らにも味わってもらう。
ただし、殺しはしない。奴らが忘れたころに襲撃し、その旅に己が犯した罪を思い出させてやる。
自ら命を絶つしかないと気づくまで、奇襲をかけ続けるのだ。
そう決意したとき、彼は復讐の化身となった。
過去は美しく映るものと本人もわかっている。
それでもあの日々が一番良かったと思わざるを得ない。
妄執に捕らわれたとしても、それでいいとさえ思っている。
今日、イェンスを襲ったあと、しばらくは鳴りをひそめよう。
王都イクリスには世間を騒がす事件が起きるなんて珍しいことではない。憲兵の目を掠めて奴らを痛めつけるのは容易いことだ。
そろそろイェンスがこの橋を渡る時刻になると感じたとき、彼の思惑通りイェンスが橋に足を踏み入れた。奴には怯えの色が浮かんでいる。痩躯で頬が尖り、細い目をした悪相なのに一人で夜道を歩くのが怖いらしい。それともすでにジョアンとオグデンが襲われたのを知ったのかもしれない。
彼は辺りに目を配り、他に人がいないかを確かめる。
イェンス一人しかいないとわかると橋の上を蹴って駆けだした。
いきなり距離を縮めてきた彼の姿を認めて、イェンスの怯えの色がさらに濃くなった。
彼は動きを封じるために、イェンスの胸のボタン目掛けて雷を放った。
確実に当たると思ったとき、彼の放った雷が弾けて消失した。
イェンスは腰を抜かしたが、無傷であった。
「なにが」
と彼が口にしたとき、月明りの中から突如、女の姿が浮かび上がった。冴えた瞳に勝気な光を湛えた、小柄な美女だった。姿を消す魔法を遣ってイェンスを警護していたと気づいた。
彼が動揺しているとき、女は強い口調で言った。
「警務局査察課アメリア・ティレットだ。アイザック・タウト巡査長、貴様を魔力傷害未遂の現行犯で逮捕する」
アメリアはイェンスを背にしながらロッドをタウトに差し向けた。
「余罪もきっちり追及させてもらうぞ」
後ろから男の声がした。振り向くと、いつの間にかもう一人の憲兵がいた。シズマ・ラージヒル警視である。橋の上で挟撃を受けた格好になってしまった。
「終わりか……」
タウトは観念しかけた。ただ、このままでは終われない、せめてイェンスに一撃加えたかった。どうすれば攻撃できるか、思考を巡らせる。
ラージヒルは、憲兵随一の剣術遣いとの評判があり、剣には魔力を消す力が施されていると聞いたことがある。
それに対し、アメリアは所詮女、しかも魔法を遣えるとはいえ経験の浅い若い憲兵なら、付け入る隙は十二分にあると踏んだ。
決意を固めると、タウトは指に力を入れた。魔法をいつでも発動できるように構え、アメリアに向き直ると、体勢を低くして駆け出した。
真正面から襲われたと勘違いしたアメリアは、虚を突かれて動揺するはずだった。その隙に方向を変えて、イェンスに一撃を加える気でいた。
ところが、アメリアはタウトの予想だにしない魔法を放った。
ロッドを薙ぐと、凄まじい突風がタウトを襲う。
あまりの強さに、タウトは上体を起こして動きを止め、両腕を交差させて顔を防御した。
すると、塊のようなものが次々と身体にめり込むのを感じた。
あまりの激痛にタウトは吐き気がこみ上げ、腹を抱えながら膝を折って、その場に蹲った。
「こら、アメリア。俺まで巻き添えにする気か」
どこか気の抜けたラージヒルの声が聞こえる。魔力の塊がラージヒルの方にまで飛んだようだ。
「すみません。課長なら躱せると思ったものですから」
一毫もすまなそうに聞こえなかった。
タウトは目を強く瞑り、痛みをこらえた。
目蓋の裏に映る、記憶の中のアドリアナの姿が、ぼやけて見えた。