愛されたかった者たちへ
『誰かから愛されたいと願い、結局誰からも愛されなかったものたちへ告ぐ。寂しかったな。辛かったな。優しく、傷つきやすいお前たちの幸せを俺は心から祈ってる。それでも、お前たちはきっとこれからも、誰かから愛されることはないだろう。だけど、それを誰かのせいにすることはできない。お前たちも含めて、みんながみんな一生懸命だったんだから』
耳にはめたヘッドホンからラジオの音。なぜ? 回答。僕がラジオの電源をつけ、周波数をいじったから。空を見上げれば鼠色をした分厚い雲。廃墟と化したビル群は亡霊のようで、足元のコンクリートは肌荒れしたみたいに凸凹している。人はいる。僕の視界に少なくとも五人。下水道の臭いがぷんぷんするカーキ色のジャンパーを着た男が、すれ違いざまに黄色く粘ついた痰を足元に吐く。等速回転。すなわち、世界は一定の速度を保ったまま回転を続ける。だからといって、僕たちが全く同じ時間を繰り返しているわけではない。大局的には収束していく確率のような世界線の中で、再生を繰り返す一個一個の細胞と、途方もない数の偶然の組み合わせが、僕たちの一フレームを形作っている。
人間であり続ける限り、人は嘘をつくし、愛を求める。一般論。誰かが僕に慰めの嘘をつき、それでも僕はその誰かに愛を求めた。理論上総量に限界のない愛は、高尚な詭弁によって有限であると論じられ、その価値を生む。欺瞞。だけど、その欺瞞を知った上でもなお、誰にも愛されなかったものたちの犠牲の上に成立しているものだと知ってもなお、僕たちは愛に救いを求めてしまう。そんな空虚な言葉に踊らされるものの横で、富めるものはさらに富むように、愛されるものはさらに愛される。勝者総取り。それは今に始まった事ではない。それなのに、僕たちが叶わぬ期待を抱いてしまうのは、なぜ?
『お前たちはきっとこれからも愛されることはないだろうけど、それでも愛なんてクソ喰らえだなんて思うなよ? 愛は素晴らしくて、人間を豊かにしてくれて、人生はそのためにあるんだって思うことができるものだ。だけど、お前たちがそれを手に入れることはない。一生。愛なんてクソだと開き直れば、それを手に入れられない現実が嫉妬と自己嫌悪で満たされることはなくなる。それは精神衛生上正しい戦略だとしても、全くもってクールではない。愛されなかったものたちは愛されなかったというプライドを持って、惨めったらしく死んでいくべきだと思うね。君はどう思う?』
質問。僕はヘッドホンを耳から外す。ノイズとノイズが混じり合った周りの雑音は、壊れたスピーカーから聞こえてくるみたいに不明瞭。だけど、その聞き分けることのできない音一つ一つに、何かしらの物質的な存在が関与しているという事実。人間の認知を超えた網目上の存在コミュニケーション。そして、自分自身がその一部に過ぎないことを、どれだけの人間が自覚し、受け止めることができているのだろうか。
質問に対する回答。意識的であろうと無意識的であろうと、認知の歪みは自己利益最大化のため戦略的に行われるもの。それを感覚的な価値判断から不適当と判断するのは疑問。補足。ただし、その行動は幸せを求めるゆえのものではない。快を得るのではなく、苦痛を避けるために行われるもの。すなわち動物的な行動原理に過ぎない。
『自己利益の最大化というご立派な言葉を使ったとしても、それよりもずっと大事なことがあると俺は思うね。幸せになるだけが人生じゃないし、人生は幸せだけで説明できるような単純なものじゃない。愛されなかった者たちの人生は、それだけで意味のなかった人生だと言えるのかい?』
愛されなかった者という言葉を耳にする時、僕は以前出会った男のことを思い出す。回想。新月の夜。星明かりに照らされ、ジャングルジムの錆びた表面が赤褐色に輝く夜。ゴーストタウンと化した街を夜風が音を立てながらさすらう。切れかかった外灯の光は病的に浮き出た静脈のような青。その男は瓦礫の山で埋め尽くされた住宅街の公園で、人生で一度も手にしたことのない愛を探していた。僕とその男は同じ。ラジオDJの言葉を借りるのであれば、誰かから愛されたいと願い、結局誰からも愛されなかった者。僕はその男を見ていた。その男が僕を認識していたかは今となってはわからない。認識論的な悪魔の証明。
水の中でしか呼吸することができない魚が陸に打ち上げられているように、僕たちは息苦しさに悶え苦しみながら愛を求めた。しかし、その息苦しさは愛の欠乏からではなく、愛を求めて叶わぬ無力感からくるもの。因果関係の取り違え。それでは、その誤りを誰かが教えてくれるのか? 言い換えるなら、それを誤りだと指摘してくれるだけの関係性を我々は有することができるのか? 結局は関係性の問題。人と人との関係は一種の揺らぎであり、揺らぎが起こる限りは救いへの可能性が存在し続ける。いつだって人を救うのは人であって、思想ではない。関係性を持たない者たちは世界の隅っこで自己の縮小再生産を続けていく。その果てにあるのきっと、灰。
男はボロ切れになった服の袖をハエのように擦り合わせながら、夜空を見上げる。張り詰めた寒さと乾き切った大気の向こうに煌めくのは星。口から溢れる白い吐息が吸い込まれるように夜空へ消えていき、星と星を結ぶ線が瞬きのたびに異なる形を持って浮かび上がる。光の速度ですらたどり着けない宇宙の最果てが僕たちの存在の輪郭を曖昧にさせ、矮小な自己愛にがんじがらめにされた自我が水面に落とされた一滴のインクのように失われていく。
「ああっ!!」
夜空を見上げていた男が両手で顔を覆った。手は枯れ木のように灰色で、土と煤に塗れている。脂で固まった髪は潰れ、作業ズボンの破れた穴からは濁ったような焦茶色の肌が覗いている。そして、その男の真上に輝くのは星。限りなく漆黒に近い藍色の世界に散りばめられた、無数の光の瞬き。
「綺麗だっ! 綺麗だっ! 綺麗だっ!!」
男は膝から崩れ落ちて、声を押し殺して泣き始める。慟哭。理由は不明。 地層のように堆積した後悔または澱のように底に溜まった孤独。あるいはその両方。時が巻き戻らないことを知りつつも僕たちは追憶を止められない。後ろ歩きのまま進む徒競走。男は泣き続ける。その嗚咽は静寂の中で虚しく反響していた。一ヶ月後に僕はゴミの集積場で凍死しているその男を見つけるのだけれど、その時の男の嗚咽は今でも思い出すことができる。嗚咽、嗚咽、嗚咽、そしてその上で輝く星。世界が美しくあり続けることと、僕たちが誰からも愛されないことは別の問題なのかもしれない。なぜ? 納得のいく答えはまだ見つからない。
『俺はお前たちを愛してるよ。お前たちが欲しがっている愛はこういう愛じゃないということは知ってるけど、それでも俺は伝え続ける。愛してる。いつの日か誰からも愛されなかった自分の人生を振り返る時、それでもこの世界は捨てたもんじゃないって気持ちだけは失わずにいられますように!』
誰かから愛されたいと願い、結局誰からも愛されなかったものたちへ。もし僕が何かを伝えるとしたら、それは何? 複雑に絡み合うコミュニケーションから疎外された関係性の端っこで、僕たちはこの世界に何かを残せるだろうか? 難問。僕は思考を閉じ、この世界に耳を澄ませる。雑多な音に身体を委ねていると、一個体が実態なき世界へと溶け込んでいけるような気がした。
世界は回り続け、同一なものなどない時間の中にさえ、僕たちが愛される未来は存在しない。だからこそ、僕たちは今日も愛を求め続ける。動物的行動原理を超えたそれに名前を当てはめるのだとすれば、矜持。愛されたかった者たちへ。決して幸せにはなれない僕たちが、その最期の時まで愛を求め続けることを、願う。