#007 破滅の序章
多くの尖塔が林立するオストランド聖教国の聖都ドルニエは夕闇に包まれようとしていた。
そして聖都の中心部のドルニエ大聖堂の地下にある地下墳墓最大の石棺の前には数人の宗教関係者が集まっていた。
彼らは、大司教や、枢機卿、福音局長といったオストランド聖教の重要人物たちである。
静寂に満たされた地下墳墓にうめき声が響き蓋の開かれた石棺の上に黒い靄が立ち込める。
靄からは、定形を持たない黒い塊のようなものが高濃度の瘴気を伴ってはい出るように現れた。
「熱イ……酷ク傷ム……オノレ……オノレェェェェェェェッ!!」
黒い塊は地の底から響くような声を上げながら石棺へと収まる。
蓋の開かれた石棺に満たされた聖水によって得体のしれない黒い塊から立ち上る瘴気を分解していく。
黒い塊というのは、わかりやすく言えば秩序の姿だ。
実体を持たない秩序は、実体を持たないが故に形状を持たない。
黒い塊の一部からは、特に激しく瘴気が立ち上っている。
「やはり完全体ではないらしいな」
枢機卿を示すローブを纏った男が、重々しい声音で言った。
「やはり、あれが足らぬようですわね」
福音局長の女が妖艶な笑みを湛えながら、艶めかしい吐息と共に漏らす。
「神核か……あれは確か……」
「封印された旧約聖書によれば、創造神ユミルとその腹心の女、フランシュゲーテが神滅剣をもって神核を取り出し、このドルニエの地に破壊神を封印したとありますわね」
この黒い塊は、創造神ユミルによって滅却された破壊の秩序の残滓なのだ。
「さすがは福音局長殿、経典への造詣が深くいらっしゃる」
「いえいえ、私は争いこそが生命の内なる欲望を満たし生命の滞りない循環を実現である手立てと記されている旧約聖書が好きなだけでしてよ」
福音局長は、その美貌を狂気に歪めた。
旧約聖書とは、争いを根底に人類の再生を図るために記されたもので数百年前に過激すぎることを理由に台頭してきた新興派閥のリバイバリスト達によって書き換えられたことによって存在を消された聖典のことで、現在はその際に編纂された新約聖書が教義として布教されている。
「ははは……福音局長はなかなかに変わった考えをお持ちでいられる」
周りの者たちは、顔を見合わせて愛想笑いを浮かべた。
彼女の発言は一歩間違えれば背信行為とみなされてもおかしくはないのだが、誰もそれを糾弾しようはしない。
なぜなら彼女はオストランド聖教の暗部を直轄しているからだ。
逆らえば、始末されることは彼らにとって目に見えている。
それゆえに彼女の発言や思考がどんなに異端であっても黙認されているのだ。
「ふふふ、私からすれば貴方たちの方がよほど異端に見えましてよ?人類の再編において再生への混沌、つまり旧約聖書の言葉を借りるのならばレスレクティオ・ケイオスは不可欠でしてよ?」
秀麗な口元が、ニヤリと吊り上げられる。
それを見て、オストランド聖教の高位聖職者達は震えあがる。
「た、確かに福音局長殿の仰ることは一理あるかもしれませんな……」
そう答えた枢機卿の声音は上ずっている。
彼女はわかればよいのです、とでも言いたげに慈愛の眼差しを周囲に向ける。
「……コロセ……アノ者ヲ、コロセ……」
石棺の中の黒い塊の発する呻き声によってその場に居合わせた人達の注意は石棺へと向く。
「話は戻るが、破壊神の秩序に手傷を負わせた者どもに心当たりを持つ者はいないだろうか?」
枢機卿の男は、落ち着きを取り戻し話を破壊神の話へと戻した。
「私の教区では過日、聖光が地上に降臨するのを感知したものが降ります」
一同にどよめきが広がった。
見る者によっては神は光として時には影として見ることができるという。
この場合、光として観測されたために聖光という表現のされ方をしている。
「一体、どの秩序が介入しているというのだ!!ヴァルヴァスタ教区長、詳しいことは分からんのか!?」
「そこまでは、生憎……大司教猊下、申し訳ない限りでございます」
ヴァルヴァスタと呼ばれた禿頭の男が慇懃に頭を下げた。
「もう一つ、気になるのがアイヴィスの存在ですわね」
頬に手を当てて気だるげに福音局長が言った言葉に全員の注意が向いた。
「いや、それは無いのではないか?」
枢機卿が異論を呈する。
「どうして、そう言い切れまして?」
「奴には吸魔の円環をつけさせているはず」
その意見に賛同するように枢機卿の周りから、そうだそうだといった声が上がる。
「オストランド聖教に伝わる最上級の魔法によって作られた代物だ。アイヴィスがいくら規格外だからとはいえ、そう易々と外すことはできないだろう」
「そういったことをしてしまうから規格外というのでしょう?」
「それは、そうだが……」
教会内でどんな高位の聖職者であってもその生殺与奪の権限を握る福音局長を握る福音局長アストリアを快く思わないものは少なくない。
枢機卿がさらに言い募る。
「ところでヴァルヴァスタ教区長、私たちの差し向けた追手の近況を教えて下さらない?」
アストリアに微笑みを向けられたヴァルヴァスタは、声が裏返りそうになりつつもどうにかといった様子で口を開いた。
「は、はいっ……差し向けた追手はことごとく音信不通となっています」
先程の聖光が地上に降臨したという話のときよりもさらに大きなざわめきが広がった。
「な、なんですと!?それは真か!?」
枢機卿が信じられないといったふうに訊き返した。
「信じがたいことではあるのですが……」
彼らが追手として差し向けたのは聖騎士団の中でも精鋭中の精鋭だっだ。
「吸魔の円環をつけながら聖騎士でも最精鋭の者どもを葬ったと……」
消息不明になった聖騎士たちがいるのだから答えは明白だ。
「そして、彼が持っている剣は?」
そして物わかりの悪い子供を諭すようにアストリアは決定的な事実を一同に問いかける。
そこに石棺の中の秩序がタイミングを計ったように
「ソノ者ハ、創造ノ秩序トトモ二……」
おどろおどろしい声を発した。
「ということらしいですわね」
アストリアを除いた者達が、狼狽える。
「旧約聖書の記述を思い出してくださいまし。破壊神の神核を奪った神は―――――創造神ユミル」
破壊の秩序が発した創造の秩序とは創造神ユミルのことに他ならない。
そのことにようやく一同が気づいたのだ。
「それならば、我々に残された対抗手段は……」
卓越した聖属性の魔術を行使するオストランド聖教のトップである大司教ですら切ることを拒む切札の名をアストリアは躊躇いもなく口にした。
「まだ不完全なあれを使うわけにはいきません。なので今回は、聖業贖罪を解き放ちますわ」
それはオストランド聖教最大の暗部だった。