神族の少女
「なんだ、あれは……?」
自分から僅かに距離を隔てた先に白い靄のかかったような階段があった。
階段の伸びていく先を見つめると、ぽつりと一人の白いワンピースを纏った少女こちらへと下りてきていた。
階段に近づいて手を伸ばして階段を掴もうとするがその手は空を切る。
「そういうことか……」
その階段と少女が幻影でないことぐらい人族と魔族との戦争に駆り出され各地を転々とした俺に理解することができた。
そして降りてくる少女の正体も。
「神族が俺になんの用だ?」
そう問いかけるが、少女は口を閉ざしたまま俺を見据えて階段を下り続けた。
降りてくる少女の正体は、神族だ。
すべてが規格外の力を持つこの世の秩序を司る存在。
この世界が始まったときから天界に存在し続けるこの世の秩序。
相手が規格外の力を持つものなら俺も備えはしておくべきか。
さっき鞘に納めたばかりの神滅剣を再び鞘から抜き油断なく構える。
『相手は神族よ、気を付けなさい』
神滅剣の声が、頭の中に流れ込む。
それは管理人格を持つ極めてまれな聖剣の一振りだ。
「わかってるって」
神滅剣は、創世神話にも登場する聖剣で力が強大すぎる故に管理人格を持っているが、管理人格が存在するために扱いに苦労する話がいくつか遥か数千年の昔から伝わっている。
神滅剣を構えて改めて神族の少女を見据える。
「汝に問う」
少女は、重く噤んだ口をここにきて開いた。
「何をだ?」
「あなたが大魔術師アイヴィス?」
少女は、どこまでも透き通るような声で俺の名を呼んだ。
その名で呼ばれたのはいつぶりだろうか。
「懐かしい名で呼んでくれるな。今はもっぱら大罪人アイヴィスと呼ぶが」
皮肉を込めて応えると少女は、嬉しそうにはにかんだ。
そして俺の答えの後半を聞いて物憂げな表情をした。
「あなたが、何の罪を犯していないことを私は知っているわ。あなたが人族のためにどれほど苦労をしてきたかを……」
「神が俺を見ていただと?」
自己の利権争いに忙しい神々が天界から俺を注視していたなどというの甚だ信じがたい。
「これは私の記憶。記憶投影」
少女がそう唱えると俺の網膜にある光景が映し出された。
それは人族と魔族の大戦での俺の姿だった。
聖剣を持つ手からは、夥しい量の血がしたたり落ちている。
「懐かしい記憶だな」
彼女が俺のことを見ていたことは認めたとしよう。
しかし神が神である所以を、その存在意義を聞かなければ彼女の言うことを信じる気にはなれない。
「ならばこちらもあなたに問おう。あなたはどのような秩序を司る神で、なんという御名を持つ神であるのか」
そう訊くとしばらくの沈黙の後、虚ろな表情をした。
「私の名はユミルよ。今は、ただのユミルに過ぎない……」
少女の声は、心なしか震えているようにも聞こえた。
今は、ということは昔は違ったのだろうか。
「……かつて私は、この世界の開闢を創世を司る神、創造神ユミルだった……」
創造神ユミル。
それは、大戦の間に各地を転々とした俺ですらわからない神の御名だった。
だから、神だと言われても今、秩序として存在しないのなら簡単に信じるわけにはいかない。
大戦の間、俺は何度も騙し合い、殺し合い、奪い合いを見てきた。
それらは、どれも一方が他方を信頼し心を許したために起きた出来事だった。
だから他人の言うことをそう易々と信じることは俺にはできない。
自分の言うことの真偽さえ分からなくなってしまうのだからそれは、なおさらだ。
「失礼だが、何か確証となるものを見せていただくことは?」
そう訊くと少女は頷き目を瞑り両手を前へと翳した。
「確かなる証を此処へ。起源創造」
少女の両手から光の溢れ出て球体が生み出された。
「この世の歩み。あなたの魔眼を凝らしてよく見つめて」
少女が生み出した球体に魔眼を向ける。
それは、よく作り込まれていた。
三つに隔てられた世界で、そこに生きる神族、魔族、人族の生活の営みまでが映し出されている。
しばらく見つめていると世界の隔たりがあやふやになって神族、魔族、人族が三つ巴になって争いを始めた。
そこには、いくつもの愛が、裏切りが、死があった。
「見たことの無い魔法だ」
少女の使った魔法は、物体を高精度で形成していた。
それは作成の領域になく創造だった。
「これは、私にしか使えない魔法。創造魔法と呼んでいるわ」
神族の少女は、そう言うと翳した両手を降ろした。
光の球体もそれと同時に霧散していった。
「信じてもらえた?」
あそこまで凄いものを見せられては疑う余地もないだろう。
故に少女の問いに対して俺が出せる答えは一つだ。
「信じよう」
「そう言ってもらって何より」
神族の少女は、緊張感の滲んでいた表情をいくらか和らげた。
「これ以上を確証を求められれば、真名を言う以外に証明の仕方がなくて困るところだった」
真名を言うということは、生命の続く限りの主従関係を意味する。
主従関係となれば、融合魔法(二人の異質の魔力を結びつけより強固なものとする魔法)を行使することも出来るのだが、好き好んで主従関係を結ぶものは、いない。
「そうか……で、俺は……創造神ユミルのために何をすればいい?」
挨拶のためにわざわざ神が来るはずもない。
何か俺に要求したいことがあるのだろう。
「今の私は、ただのユミル、だからあなたもユミルと呼んで」
目の前の少女は、何者かに秩序を剥奪された一柱の神。
そして神族である前に一人の少女なのだ。
「そうさせてもらうよ、ユミル」
「そうしてもらえると助かるわ。それとまさかティリスがこんなにあなたになつくなんてね」
ユミルは、神滅剣を眺めながら言った。
するとユミルの白いワンピースとは相反する色彩の闇で染めたようなドレスを纏った一人の少女がその場に姿を現した。
「うるさいわね!!私は神を滅することが目的なんだからたかが一柱の神なんてサクッと天界送りにしてあげるんだから!!」
不機嫌そうな顔のティリスは、口早にまくし立てて再び神滅剣へと戻っていった。
「生みの親の私に向かってその言い方なのね?まぁ、私がろくに教育する間もなく私の秩序と一緒にあなたも奪われてしまったのだから仕方ないことかもしれないけれど」
その後、ユミルに聞いた話では神自身の秩序の範疇を超えて秩序を振るう神の根源を奪い秩序を再生させるためにユミルが作り出した魔剣が神滅剣なのだという。
しかし神滅剣の持つ力が神滅剣の行使者である創造神ユミルをもってしても制御することは難しかったことから作り出された管理人格がティリスなのだという。
「言ってみれば親子といったところか」
そう尋ねると
「そうね」
「違うわっ」
と二人が即答した。
夜の帳の下、秩序に抗う反逆の女神と堕ちた英雄、そして神殺しの聖剣による世界改変が始まろうとしていた。